【感動】ハンカチ無しでは読めないスレ【希望】 てんこもり。


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【感動】ハンカチ無しでは読めないスレ【希望】

5 :病弱名無しさん:02/09/03 15:14 ID:pu2ejaSO
知人の娘が3歳で亡くなった。
ウイルスが脳に入ったかなんかの病気だったと思う。
入院して1週間だった。
娘が入院してる時、知人の奥さんが病院のベッドで寝ついた我が子を見て
缶コーヒーを買いに外に出ようとしたら、
寝ていたはずの娘が「おかーさーん」と呼んだ。
奥さんがあわててベッドの傍に戻ったら
「おかーさん、心配掛けてごめんね」
と3歳の子供とは思えない言葉を消え入るような声で言って、
小さな手で奥さんの手をきゅっと握ったらしい。
それが最後の言葉だったとか。


7 :病弱名無しさん:02/09/03 16:14 ID:qMMGNRHE
昔、付き合っていた彼女が精神的不安定で自傷癖や不眠症をわずらっていて、 その彼女のストレスがいつも俺に向けられた。いつしか俺もそんな彼女と一緒にいるのが 嫌になり、別れ話をきりだすことになった。彼女のことは好きだったけど俺も若かったし、もっといろんな可能性を夢みていた。
俺が別れ話を切り出すと彼女は意外とあっけらかんとしていて「私も別れようって思ってた。」と言った。
俺はその時ちょっと安心して彼女の家を去った。帰りの電車の中でいままでの彼女といた3年間の出来事を思い出していると涙が出た。
彼女も同じ気持ちだろう、俺に気を使ってあんなに気丈に振舞っていたに違いないと思うと
ほんとに彼女に申し訳ないことをしたと思った。
今は俺も30になって結婚もしている。俺のかみさんは今はもう元気になって精神状態も安定して、
お互い幸せに暮らしている。
あの時電車を途中で降りて死のうとしていた彼女のもとに戻らなかったらどうなっていただろうとふと考えることがある。


21 :病弱名無しさん:02/09/04 17:52 ID:tAAlP/bq
ポケベルがはやっていた時、私の父親もポケベルを持っていたんだけど、私がいくら説明してもうまく操作できなかった。
父親はその時から癌におかされていて、父親が死んだ時、病室の引き出しから一枚の紙がでてきた。
おばあちゃんやお母さんはその紙を見て「なんだろね、これ?」と言って私に見せました。
その紙には数字の羅列が書いてありました。
私は一見しただけでそれがポケベルで使われる数字を使った文章だとわかりました。
涙が出てきました。
「お父さんもがんばるから、おまえたちもがんばれ」と書いてありました。


25 :病弱名無しさん:02/09/04 20:25 ID:BAYtiWaJ
私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。

小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。


気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。

私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。

葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」


継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら錯乱状態になり、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。

年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。


46 :病弱名無しさん:02/09/05 08:07 ID:y3Ray4aC
ガンで3年前に亡くなった主人。
看病疲れでうとうとしてしまうと、必ず
自分の布団を私にかけてくれていた。
元気な時は口うるさくて頑固で、何をしてあげても
感謝の気持ちも何も表してくれなかった。
そんな主人の最後の言葉は
「いろいろありがとう。ひとりにして申し訳ない」
でした。


103 :病弱名無しさん:02/09/08 15:44 ID:AD5m2LTe
肺ガンで亡くなった母は、医師に自分だけに告知するようにして、家族には病名を
言わないようにと言ってたらしい。
父は「ポリープがある」としか聞いていなかった。
自分ひとり病名を抱えて、退院後もガッツポーズして見せたり運動したり元気だったけど
体は痩せていった。
退院したのにどうしてと思ったのに、なぜかそれを聞くことができなかった。

ある日とても一人で動けなくなったとき、タクシーで病院に行って初めて父が母のレントゲンを
見せてもらった。肺中にたくさんの癌。。。
そして1ヶ月もしないうちに母は亡くなった。
遺品を整理していたら母の日記がでてきた。
家族のこれからの心配ばかり綴った日記。
もっと長生きしていろんなことしたいよ、と涙のあともあった。
健康に人一倍気遣っていたのにどうして自分が?と。
最後のページには「ずっと(自分を抜きにした)家族で
暮らせるといいね,お父さん」と記して終わっていた。
もしも病名を知っていたら、会社を辞めてでも一緒にいたのに。
どうして私は退院したからと安心して会社に行ってしまったんだろう。
一人で苦しんでいたかもしれないのに。
そんな私も結婚して家を離れたけど、週1回父の所へ顔をだす。
父は毎日、自分が食べるものと同じ物を朝と夜、母の仏前へ供えている。


156 :病弱名無しさん:02/10/18 19:47 ID:dei2TTyE
昔付き合ってた彼が癌で他界したと聞きました。
現旦那に会うまで、一番忘れられなかった人です。
ちょっとした行き違いから別れることになって、いい思い出しか思い浮かばない人でした。
彼以外の人と結婚して子供にも恵まれ、
幸せに暮らしてた私の元に飛び込んできた悲報でした。
共通の知人からの電話で知ったのですが
私が結婚してることもあり一報を入れるのを悩んだようです。
でも、彼から私にメッセージがあるということで連絡をくれました。

後日知人と会い、彼が私宛に書いた手紙を受け取りました。
封筒には「○○○○様」と私の名前がフルネームで書いてありました。
他界する数日前に書いたものだということでした。
その手紙は思ったよりもしっかりした筆跡で綴ってありました。
「君と別れたこと、幸せにするという約束を果たせなかったことを
ずっと悔やんできました。
でも今やっと気持ちが落ち着き、君の幸せを心から喜べそうです。
旦那さんと末永く仲良く暮らしてください。
君と再会する日が少しでも遠い日であることを願っています。」


195 :病弱名無しさん :02/11/03 11:09 ID:9zSM3LHk
すごい泣けました。
(´Д⊂)

私も病気でずっと入院してます。
先月一度ひどい貧血と体の痛みで混迷状態になりました。
意識が朦朧として看護師さんの呼びかけとかも全然反応できなかった。
なのに会社に行っていたはずの母親が何故か病室に来て、手を握って
「可哀想に」
って一言。
その言葉だけすごくはっきり聞こえてきた。
お父さんお母さんごめんね。
早く退院してお嫁に行くからね。
泣くのはその時にお願いします。


220 :病弱名無しさん:02/12/04 23:59 ID:owqo+QD4
ちょっと泣けた夜だったんで書いてみます。

今日は結婚記念日でカミさんと外食した。

レストランはそこそこに混んでいてガヤガヤうるさかった。
特に隣の家族がうるさくって、カミさんとちょっと顔を見合わせて苦笑いをしたぐらいだった。
父親が子供にいろいろ質問しては笑い、っていうのがえんえん続いてこっちもうんざりしてた。
しかも、その父親がやたらと大きく咳き込むので実際鬱陶しかった。

しばらくすると、ウチのカミさんがその家族の父親を見て、「ちょっとあのお父さん見て」と
言うので、見つめるのも失礼なので向いの鏡越しに彼の後姿をみてみた。咳き込むたびに
ハンカチを口に当てていて、それをポケットにしまうのが見えた。ハンカチは血だらけだった。
咳き込んだあとは赤ワインを口に含んで子供たちにばれないよう大声で笑いごまかしていた。

向いに座っていた彼の奥さんは笑っていたが、今にも泣きそうな顔をしていた。
奥さんはどうやら事情を知っているみたいだった。
その父親が何らかの重い病気なのは明らかだった。
うちのカミさんはちょっともらい涙していた。

帰りに俺は無神経にも「今日はなんか暗い結婚記念日になっちゃったな。台無しだよ。」
とカミさんにいった。カミさんはちょっと沈黙を置いて、
「かっこよかったじゃんあのお父さん。ああいうお父さんになってね」
って涙声で俺に言った。俺もちょっと泣いた。


223 :病弱名無しさん:02/12/05 09:53 ID:yJN065yg
泣くのオレだけだろうから、前もってお目汚しスマソと言っとく。

オヤジが今年の春に入院し、夏に死んだ。
子供から見ても波乱万丈の人生で、職を転々とし、最後の2年間は大好きな車を仕事にしたい、
ということでタクシーの運ちゃんやってた。おふくろによれば
「あんなに生き生きと働いているのは今まで見たことがなかった」
ということで、きっとタクシー運転手を天職だと思っていたのだろう。

入院して1ヶ月ほどたったゴールデンウイーク、オレは彼女を連れて見舞いにいった。
その彼女を親に会わせるのは初めてだったが、まだオヤジが多少は元気だった頃だったし、
それに今度いつ会わせられるかわからないので、半ば押しかけるように連れていった。
そして、見舞いのあと彼女に地元の観光名所を案内しようという話になったとき、オレがあまり
そういう場所を知らないので本でも買って見ながら行くわ、というと、オヤジはやおら起きあがって、
心配する母親をよそに、チラシの裏に鉛筆で地図を描きはじめた。

さすがタクシー運転手だ。まるで自分の家の間取りを描くかのように、観光名所の場所を鮮明に描いた。
交差点の名前、目印となる建物、一番効率よく見て回る順番、オヤジなりにつけた「面白度」…
すげえ。どんなガイドブックよりもわかりやすい。生まれて初めて、親父を心底尊敬した。
その地図を頼りに彼女を案内しながら、この土地、そしてこのオヤジのもとに生まれてよかった、
と心底思った。そして、「早くよくなって、またタクシーに乗るんだ」という、オヤジの強い思いを感じた。

オレらが帰った直後からオヤジの容態は悪化し、2ヶ月苦しんだ末8月に死んだ。
辛い人生だったろうな、と思う。でもなオヤジ、オレはあんたの子供でほんとによかったと思ってるよ。
そして最後に、あんな些細なことだけど、あんたを尊敬できてよかった。

オヤジの描いた地図。今でもカバンのポケットに入ってるけど、見ると泣きそうなので出せない。
来年には、あんときの彼女の苗字をあんたと同じにして、墓参り行くからな。そんで、またあの地図を
見ながら、観光名所巡りするよ。

長くなってスマンかった。


235 :病弱名無しさん:02/12/07 00:30 ID:UQbVztDv
まだ俺が研修医だった頃の話・・・

ある1人の父親が入院していた、末期の癌だった。
家族(奥さんと小学生の息子)は毎日見舞いに来ていた。
その父親も自分が癌であることは知っていたが、家族の前では
気丈に、なるべく明るく振舞っていた。
しかし家族が帰った後、「先生、俺は本当は怖いよ・・死にたくないよ・・」
と弱音を吐いていた。
俺は末期の患者は初めてだったので、なんて言って
いいか分からなくて言葉が出なかった・・

全身状態が悪化し、いよいよという時、家族が呼ばれた。
彼は泣きじゃくる息子の頭をなでで
「男の子はめったな事で泣いちゃあだめだぞ、そんなことじゃ
 ママを守れないぞ・・いいか、これからはお前がパパの代わり
 にママを守るんだ・・約束できるか?」と言った
息子は言葉にならない声で「う・・ん・約・・する」
と、頷いていた。
3人はずっと手を握り合っていた・・
父親はその晩亡くなった。
最後まで彼は家族の前では「父親」として「男」として頑張った。

俺もあんなかっこいい男になりたいと思った。


280 :病弱名無しさん:02/12/28 01:40 ID:sv88EIoe
私は母の顔がすごく嫌いでした。
なぜなら大きなやけどの跡があるからです。
よそのお母さんはあんなに綺麗なのに何で私のお母さんは・・・
とか、何でこの人が母親なんだろう
とさえ思ったことがありました。

そんなある日のこと。

その日の四時間目のこと私はあることに気づきました。
夕べ徹夜で仕上げた家庭科の課題が手元に無いのです。
どうやら家に置いてきてしまったようです。
あたふたして勉強も手につきません。
家庭科の授業は五時間目。
私は昼休みに自宅まで取りに帰る事を決心しました。


四時間目も終わり帰る準備をしていたところ、クラスメートが
「めぐみ~、めぐみ~、お母さん来てるよ」
と言いました。
私は、はっとしました。急いで廊下に出てみると何と母が
忘れた課題を学校まで届けに来ていたのです。
「なんで学校にきてるのよ!取りに帰ろうと思ってたのに!」
と息を立てて問い詰めると、
「でも、めぐみちゃん夕べ頑張ってやってたから・・・」
といいました。
私は、
「おばけみたいな顔して学校来ないでよ、バカ!」と言って
母から課題をひったくるように取り上げるとすたすたと
教室に入った行きました。
自分の母親があんな顔をしていることを友人達に知られて
しまったことで私は顔から火が出る想いでした。


その日の夕飯後のこと私は父親に呼ばれました。
昼間のことで怒られるのだろうな・・・と思いました。
すると父親は予想に反してこんな話をはじめました。
「お前がまだ生まれて数ヶ月の頃隣の家で火事があってな。
その火が燃え広がってうちの家まで火事になったことが
あったんだよ。そのときに二階で寝ていたお前を助けようと
母さんが煙に巻かれながらも火の中に飛び込んでいったときに
顔に火傷を負ってしまったんだよ。」
「今お前の顔が綺麗なのは母さんが火の中に飛び込んでいって
お前を助けたからだよ。」
私はそんなことは、はじめて聞きました。
そういえば今まで火傷の理由を母から聞いても
あやふやな答えしか返ってきたことはありませんでした。
「なんで今まで黙ってたの?」
私は涙ながらに母親に聞くと、
「めぐみちゃんが気にすると思ってずっと黙ってようと
思ってたんだけど・・・」
といいました。
私は母への感謝の気持ちと今まで自分が母親に取ってきた
態度への念とで胸が張り裂けそうになり
「お母さん~」
と言って母の膝の上でずっと泣いていました。

今では自分の母の顔のことが誇りにさえ思えるようになりました。
家族を、私を守ってくれた母のこの顔の傷のことを・・・。

以上長文失礼しました。


298 :聞いた話:02/12/31 01:00 ID:6SUejUpe
私は戦時の中、幼少時代をすごしました。
物心ついたときには母親はおらず、父は兵隊に取られ
祖父と2人田舎で暮らしていました。
家のすぐ脇には河が流れており、200mほど河を下ったところには
捕らえられた米兵を収容している建物がありました。

とある日のこと、私が芋を河で洗っていると誤って
手を放してしまいその芋を河に流してしまいました。
その芋はたまたま下流で水浴びをしていた米兵達によって
拾われました。
米兵は自分達に向かって流してくれたものだと思い
喜んで私に手を振って芋を持って帰りました。
きっとひどい扱いを受けていたのでしょう。


それから私は定期的に川下にいる米兵達に回りには
分からないように、野菜を河に流して渡すようになりました。

やがて戦果も悪化して日本軍が不利な状況になるにつれて
食糧事情は厳しいものとなりました。
もともと私と祖父の2人暮らしだったため食料で困ることは
ありませんでしたが、米兵達に食料を分け与えることは
出来なくなりました。


申し訳ない気持ちになりながらもいつも食料を流している
時間私はいつものように川岸まで行きました。
いつものように200m川下では米兵達が待っています。
近づくのは禁止されていたため当然話をすることも出来ません。
ジェスチャーで分け与える食料が無いことを伝えようと、
手を大きく振ってバツマークを作って食料が無いことを伝えます。
しかし上手く伝わらず米兵達は手を振り帰してきます。
そんな私が流す食料を楽しみにしている米兵に
何もして上げられない無力な自分に腹がたち河の水を
蹴り上げると米兵も同じように真似をします。
今度は河の中で飛び上がってみるとやはり米兵達は
私の真似をします。
何とかしてあげたい。そう思いました。

私は自分の家の畑から祖父の目を盗み少しですが
スイカやかぼちゃを取り今までと同じように河に流して
米兵に渡しました。


しかし数日後スイカを取っているところを祖父に見つかり
理由を聞かれました。
私は正直にこれまでのいきさつを話しました。
すると祖父はこう言いました。
「なるほど。お前は非国民だが非人間ではないな。」
そう言うとそれ以降畑から取った野菜を河に流して
米兵に渡すことを許してくれました。


やがて終戦を迎えたある日のこと、家の上空を数機の
戦闘機が飛来してきました。
米兵を収容していた建物があったためひどい扱いを
受けていた米兵が仕返しに空襲に来たに違いない。
祖父はそう言いました。
しかし私はそんなこと無いよ。そんなこと無いよ。
と言いました。
あの米兵たちがそんなことをするとは思えなかったのです。
やがて戦闘機からたくさんの金色や銀色の小石くらいの
大きさの物が振ってきました。
爆弾だ!
祖父は言いました。
しかし何も爆発しません。
空から振ってきたものは金銀色の紙に包まれた
チョコレートでした。
なおもチョコが降り続きました。
星のように。


313 :病弱名無しさん:03/01/04 00:56 ID:EqYvw8x8
看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。

その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。

あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。


320 :病弱名無しさん:03/01/06 05:38 ID:0jgUqTqd
うちのワン助がこの間天寿を全うした。

だいたい死ぬ一ヶ月くらい前からご飯が食べれなくってさ。ドッグフードをぬるま湯でふやかして、
口に持っていって食べさせても半分くらい吐いちゃうし、歩くのも苦しいみたいだった。
水も5分沸かせて塩素とか飛ばしたやつを冷まして出しても、飲んでからしばらくすると
やっぱり吐いちゃう。医者にみせたら、寿命だからこっちでやれることは無いっていわれて。
そんな状態とはいえ、俺も学校とかあるし、んで、大学行くと帰ってくるのが
だいたい夜の8時とか9時になるからさ。たぶん看取れないなって思っていたのさ。

家をはさんで門の反対側に庭があって、そこにいつもつないでいてさ。
だから門と玄関からは見えないんだけど、俺が学校から帰ってくると、ワン助がいつも同じように鳴いて、
俺が「ただいまー」って返事すると、ごそごそ小屋に引っ込む音がして。

何年も続いていたそれが無くなって、しばらくしてから実感した。「ああ、もうすぐ死んじゃうんだ」って。

学校行って、帰ってきて、門を開けようとしたら、うちのワン助が鳴き声だしたのよ。
以前、帰ってきたら必ず鳴いていたみたいにさ。少し弱い声だったけど、いつもみたいに。

急いで庭に回ったら、散歩の催促のしぐさをしてるんだよ。
足とかぶるぶる震えて、立つのもやっとなのに、散歩行こーぜってやってるんだよ。
自分がいかに元気か見せようとしているみたいだった。
情けないことに、俺、何やってやったらいいのかわかんなかったんだよね。おろおろするばかりでさ。
ワン助が崩れるようにクタッてなったのを見て、あわてて、ワン助が好きだった、抱っこをしたら、
目を薄く開いてこっち見て、それが閉じて。それで終わりだった。

放心状態で葬式をやって、その状態のままで小屋の片付けやって。
次の日、なんかすこし広くなった庭をみたとき、最後の姿が浮かんできてさ。
ワン助があれだけ胸張って意地張って立っていたのに、俺が引きずっていてどうする、
辛い事があっても頑張らなきゃいけないって、そう思った。


336 :体育会系中年男:03/01/11 01:24 ID:ADu48xNP
1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
 一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。


362 :弘:03/01/16 22:57 ID:9Cnzu738
私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。


そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。



その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。


翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。


甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!


411 :病弱名無しさん:03/02/01 18:53 ID:D+fQe5M9
私が23歳の頃、就職1年目の冬、私の誕生日の日のこと。
職場の人たちが「誕生パーティーをしてあげる!」というので、家に、「今日は遅くなるよ。
ゴハンいらないから。」と電話を入れたら、父が「今日はみなさんに断って、早く帰ってきなさい。」
と言う。「だってもう会場とってもらったみたいだし、悪いから行く。」と私が言うと、いつもは
温厚な父が、「とにかく今日は帰ってきなさい、誕生日の用意もしてあるから。」とねばる。
「???」と思いながら、職場のみんなに詫びを入れて帰宅した。
家にはその春から肋膜炎で療養中の母と、電話に出た父。食卓にはスーパーで売ってるような
鶏肉のもも肉のローストしたみたいなやつとショートケーキ3つ。
「なんでわざわざ帰らせたの!私だってみんなの手前、申し訳なかったよ!」と言ってしまった。
父は何か言ったと思うが、覚えていない。母が、「ごめんね。明日でもよかったね。」と涙ぐんだ。
私は言い過ぎたな、と思った。でもあやまれず、もくもくと冷えた鶏肉とケーキを食べて部屋に戻った。
その2ヶ月後、母の容態が急変し入院した。仕事帰りに病院に行くと、父がいた。廊下の隅で、「実はお母さんは春からガンの末期だとわかっていたんだよ。隠していてごめんね。」とつぶやいた。
呆然として家に帰ったあと、母の部屋の引き出しの日記を読んだ。あの誕生日の日のページに
「○子に迷惑をかけてしまった。」とあった。
ワーッと声を出して泣いた。何時間も「ごめんね。」といいながら泣いた。夜が明ける頃には
涙が出なくなった。すごい耳鳴りがした。
4,5日して母は死んだ。仕事をやめて、看病していた父も数年前に死んだ。
父が準備したささやかな誕生日パーティーをどうして感謝できなかったのか。
母にとっては最後だったのに、、、。
父も数年後に死んだ。こんな情けない自分でも、がんばって生きている。


542 :病弱名無しさん:03/02/27 21:14 ID:OiJjsX4d
2ちゃんにこの様な良スレがあったとは、ある意味ショック。
スレ違いと思うが反省を込めて書きます。
俺は犬が好きで、独断と偏見で家族の意見も聞かず子犬(オス)を買ってきた。
最初は、みんな反対していた為あまりかわいがっていなかったが、
そのうちに情というものがでたのか、かわいがり始めた。
ある日帰宅すると、もう1匹(メス)増えていた。
家族全員昼間働いている為、1匹ではかわいそうと言う事らしい。
それと同時に俺よりもかわいがっているので、
俺自身は気が向いたらかわいがったりしたが、ほとんど放っておいた。
仕事で疲れて帰宅して散歩はきつかったので、どうでもよかった。
それから十数年たち、近所でも長生きな犬でよっぽど大事に育ててるんでしょうねと、
よく声をかけられた。
そして、老犬となったメス犬が病気になった。
週に2,3回の通院で毎回数千円が吹っ飛んでいった。
あまりにも出費がすごいので、もう通院するのをやめさせてくれと喧嘩にもなった。
数ヶ月通院したが、いよいよ家で手に負えなくなり医者も入院を勧めるので,
入院する事になった。
あー、また金かかるのかよと、ぼやきまくった。


俺以外は毎日見舞いに行っていたが、俺は行かなかった。
少し気になるのでどんな様子かと聞くと、
大人しくしているが治る見込みは無いと言う事らしい。
そうとう衰弱してるのだろうと思った。
入院から5日位して初めて見舞いに行った。
小さな折の中で、足に点滴用のチューブが見え、
ハァハァと苦しそうに息をして、気丈にもお座りをしてうつろな目で俺を見ていた。
医者に聞くとずーっとお座りしたままだったらしい。
えっ、ずーっとお座り?
そう言えばまだ犬が元気な頃、悪い事をした時にお座りさせ続けた覚えがある。
犬を見ていたら、なぜか「もう悪さしないから早く家に帰してくれ」と謝っているように見えてきた。
医者にあとどの位までもつのかと聞くと、
おそらく気力だけで持ちこたえてるのでしょうと言った。
それを聞いた俺は、医者や家族の反対を押し切り強引に退院させてもらった。
車中でひざの上に乗せた犬はすごく薬の匂いがして、
すまん今日までこんな風にしてと謝り続けた。
帰宅中大人しくしていた犬だったが、我が家が近づくと,
どこにこんな力が残っていたのと言うくらい暴れだした。
もしかしたら家に着いたら元気になるかもとも思った。
犬を抱え玄関に入り板の間に寝かせると、
ヨロヨロと立って確かめるようにしきりに匂いを嗅いでいた。
開いている目もほとんど見えなかったかもしれない。
我が家だと納得したようで、静かに横になり苦しそうに息をしていた。
毛布をかけて数分後、大きな息を2回して眠るように死んでいった。
これ以降俺は犬を飼う事が出来ないでいる。
皆さんにお願いです。もし末期のペットがいたら、
ぜひ我が家で逝かせてやってください。
家族のいない犬猫病院では悲しすぎます。あなたの迎えを待ち続けています。
ちなみにオス犬は1年後に我が家で逝かせてあげました。


659 :病弱名無しさん:03/03/26 17:13 ID:HgN14iV4
ウチの母の同僚の話。
働かない夫と別れ、母一人子一人で細々と生活していたが息子が白血病に。
母子家庭で医療費はかからないものの、何とか重病の息子を助けようと
夜も寝ないで働き、仕事がないときは病院で息子に付きっきりだった。
笑顔を浮かべるのがやっとの、やせ細った息子の体は、薬の副作用で
黄色くむくんでいた。
衰弱が著しく、「もはや回復は不可能」と医者に言われ母親は黙って
病室の息子の手を握っていた。
すると息子はそっと目を開け「お母さんごめんね。親孝行できなくて。
でも、僕が死んだらそんなに働かなくてももういいんだよ。」
そう言った。
数日後、息子は11歳で亡くなった。
その子のお葬式の後
「生きててくれてありがとう」
そう母親に言われた。


670 :病弱名無しさん:03/03/28 00:37 ID:FVKdkBlD
生きていていちばんたくさん涙を流したときのことを。

私には結婚を約束した人がいました。突き詰めては決まっていませんでしたが、
もう双方の両親、友人たちにも結婚するということを伝えていました。
彼との未来を夢見て貯金にも励んでいました。
が、彼は交通事故にあってしまいました。
幸いにも一命は取り留めましたが、ひどい怪我でした。
彼のお母さんと交代で私も懸命に看護し、一日でも早く治ってくれるよう願っていました。
でもその願いとは裏腹に彼は一向によくなりませんでした。
詳しいことはわからないのですが、いろんな後遺症があったみたいです。
それでも私は病院に通い続けました。それが当然だったから。
でもある日、来た私の顔を見るなり彼は「もう来るな」といいました。
びっくりして訳を聞くと……。


彼が言うには、日に日に皮膚の感覚がなくなっているんだそうです。
身体も動かなくなっている。脳か脊椎をやられたんだ、と言っていました。
驚きましたが、それと私が来ていけないのとどう関係があるの、と。
彼は私の手を握り、この手を握る感覚が日に日にわからなくなっていく。
手がただしびれている。意識だって時々ぼんやりする。
そのうちお前の手だってこともわからなくなるかもしれない。そんなこと俺には耐えられないと。
家に帰った後、一晩中泣きました。このまま彼は家族のことも私のことも
わからなくなってしまうんだろうかと、とても怖かった。
彼の症状はやはり、悪化していきました。何でこんなことになるのか
私にはさっぱりわからなかった。横たわる彼の手を握っても握り返して
くれないぐらいにまで、彼は弱ってしまった。
彼のお母さんにも、つらいだろうから無理して来なくていいのよ、と
言われました。つらいけど、無理なんかじゃない。でも……。


私はもう彼と結婚できないんだろうか、彼のお嫁さんになれなんだろうか…。
いつまで私は彼のそばにいれるんだろう…。
不安で怖くて悲しくて、毎日泣きました。
家族が心配するので、夜、布団の中で口を押さえて泣きました。
一ヶ月もしないうちにとうとう彼は植物状態になりました。
弱っていく自分を感じて、こんな日が来ることを彼は知っていたんでしょうか。
名前を呼んでも手を握っても、ここにいるのが私だとわかってもらえない。
彼のご両親に言われました。「今までありがとう。息子はもう
こんな状態でとてもあなたと結婚はできない。早く息子のことは忘れて、幸せになってくれ」と。
その言葉のとおりにしても私は誰にも非難されなかったでしょうが、
私はそれが怖くて仕方ありませんでした。
どうすればいいのか、本当にわからなかった。
彼の赤ちゃん、身ごもってないかな…と少し妄想もしたものです。


あれから二年経ちますが、私は新しい恋人など作れませんでした。
彼は今も病院で眠っています。最近は少し落ち着いて顔を見れるようになりました。
彼の両親とも家族のように付き合ってくれています。
 いつか彼がむっくり起き上がって、「おはよう」と言ってくれる夢を私はまだ、見ているようです。

長くてすみませんでした。


793 :病弱名無しさん:03/04/26 15:22 ID:iun+ssJl
大好きだった友達が、交通事故で死んだ。
彼に会いに行く途中だった。
知り合いの車に乗せてもらっていく途中、運転していた知り合いが
事故を起こし、彼女だけ車から投げ出されて死んだ。
即死だった。
突然の死で、通夜も葬式も全然実感がなく、ボケ~っとしているうちに
終わった。
葬式の帰り道、桜が満開でものすごくきれいだった。
東京に住んでいた彼女は4月早々に花見を済ませ、
彼女と一緒に花見に行った友人は、彼女が桜を見ながら
彼の話を楽しそうに語り、彼から来るメールを気にしていたと言う。
「彼女はもう桜を見ることが無いんだな」と思った瞬間、
号泣してしまった。
あれから4年。こっちは桜が満開です。
桜を見るたびに彼女のことを思い出し、胸が苦しくなる。


944 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ 本日の投稿:03/05/10 21:20
自分自身のことなので   sage  で書かせていただきます。
長いですから、(文才が全く無いもので・・)まず最初に謝っておきます。読まれる方、だらだらすみません。

元号が昭和から平成に変わろうとしてた頃の話です。
当時私は二十代半ば、彼女も同じ年でした。
付き合おうかどうかという時期に彼女から私に涙ながらに電話・・・
「結婚は出来ない体だから付き合えない・・・」
夜中でしたが気になるので彼女に会いにいきました。そして彼女から
「一度乳癌の手術をしているから・・・片胸が無いの・・・私」
私「・・・・・・・・・・でも、・・・それは僕にとっては結婚出来ないという条件ではないよ・・・」と、
私も彼女が好きでしたし実際片腕片足が無くとも好きな人は好きになる(例えがわるくてすみません) 性格でしたから。
そうこうしている内にお互いが一緒に住むようになりました。が、幸せ気分も束の間で、彼女の肺に
転移しているかも知れないという検査の連絡が入ってしまいました。
急遽入院で、後は検査の連続で(肺への内視鏡検査はつらかったそうです)二週間が過ぎた頃です。
見舞い時間が過ぎて帰りがけに彼女が「左の足が少し引きずって歩いているみたい」というので、
「症状を先生に話してみるね」といって帰りました。次の日、先生に報告すると、「・・・明日、頭を検査」
と、・・・私は当時何もしらない馬鹿者でしたが「足」→「頭の検査」でびっくりしたのを忘れられません。
検査した夜、CTスキャンの結果を聞きに行かなくてはならなかったのですが、彼女には「大丈夫だよ、
大した事無いって」といいながら震えながら病院の応接室に入って行きました。
先生は若い方で私達を真剣に励ましてくれる方でした。その先生も現状が悔しかったらしく第一声が
「どうしようも・・・」と、少し涙を浮かべながら話してくれました。やはり脳内にも転移していたんですが
「癌細胞の成長が早くて周りの脳を圧迫しながら進んでいる、摘出したいが周りが柔らかくなっているので、今の医学では不可能なんだ・・・」


私はもうぼろぼろに泣いていましたが勇気を出して「どれくらい持ちますか?」と、聞きました。
入院はしているものの彼女はとても元気で見るだけでは病人とは思えなかったのですが、先生いわく 「何もしなければ2ヶ月、延命処置を取れば半年だろう」とおっしゃいました。涙ながらにです。
私「治療しても半年??」先生「治療とは言えない、延命処置だ・・」
その方法とは放射線治療の事で、激しい嘔吐や脱毛、目まいを伴うものです。私は考えました。考えましたがとてもその場では判断出来る物ではありません。せめて余命2年とかであれば抜けた髪も生え揃うであろう。でも、半年なんて、    
次の日、先生に外泊許可を得て自宅に帰る二人が居ました。
その夜、彼女のほうから「検査の結果、聞かせて・・・うそは無しで・・・」と、言われ、私は言葉に詰りそうになりながらも彼女を信じ、正直にすべてを伝えました。この瞬間が今までの人生で(未だに)辛かった時です。言葉は省略させて頂きますが、二人ともぼろぼろに泣きながら、でも、特に彼女は強く理解して残された人生をどう生きるか、決断をしました。「退院して、少しでも楽しもう!」
翌々日、病院に帰り、先生に二人の考えを伝えたところ、「頑張れよ!負けるなよ!」と励ましていただき2日後に退院しました。その後すぐに旅行社に行き、新婚旅行の手配と、「結婚しました」の葉書を作り、友人一同に送り、(彼女が病気だとは誰一人知らない)みんなで祝ってもらいました。
余命2ヶ月と言われながらも彼女は本当に頑張り、退院4ヶ月後の「花の博覧会」にも(車椅子生活になり はしましたが)行く事が出来、喜んでくれました。
しかし、病気は確実に進行し、まもなく自宅療養が不可能な状態になり、再入院、雨の降りしきるある晩に意識不明になり、翌朝私の腕枕の中で帰らぬ人となりました。
恥ずかしいながら、15年近くたった今、「彼女のすべての強さ」に、私は追いつくことが出来て居ません。


前置きが長すぎるんですが、二人同居を始めた頃に銀行の口座の暗証番号やらもろもろの番号を統一しようと、二人の誕生日をたした「○△◇■」を決めて生活していたんですが、彼女が亡くなってしまって、暫らくした頃に、公的な機関への書類提出で、死亡診断書が必要になり、病院で2通取ったんです。で、内1通がなぜか開封状態で手元に来たもので、見てしまったんです。死亡原因、病名云々のなかに眼に留まった
死亡時刻、   平成*年*月*日  ○△:◇■分・・・・・・・・
二人で決めた暗証番号が並んでいました。きっと本当の偶然でしょうけれども、私は「忘れないでね!」と、彼女が言ってると今でも思っています。勿論死ぬまで忘れる事は無いでしょう。

ここを見ている若い女性の方々、是非、健康管理には気を使ってください。若くても大病はするかもしれません。
同じく、彼女、もしくは奥様が居られる男性の方々、パートナーの健康に気を付けてあげて下さい。
どんな病気でも「早期発見、早期治療」が第一です。私は彼女を救ってあげれませんでした。しかし、今ここを見ている人たちは万が一なにかあった時、きっとパートナーを救えます。見落としが無い様にお互い注意してあげてくださいね。
本当に長々とスレ汚し、すみませんでした。13回忌が過ぎた今、少し人に話したくなりました。


64 :病弱名無しさん :02/09/06 00:41 ID:ei3GvLAl
激しくガイシュツだと思うけど、これはほんとに泣ける。
http://www.geocities.co.jp/Beautycare/8256/2002.5after.html


646 :病弱名無しさん:03/03/25 23:57 ID:WKy7Pixb
夜も遅い時間にこそこそっと。
以前ここに書き込みしました>>195です。

私は肺がんでつ。
若いから進行も早くてよくここまでもったと思う。
今年の初めに余命宣告されました。
長くもって一年。短くて半年。
今はキャンサーホスピタルに転院しています。
肺がんは脳に転移しやすい。
そろそろモルヒネも効かなくなってきた
脳に転移したらわけがわからなくなっちゃうだろうな。
転移したほうが痛みがなくて楽みたいだけど・・・。
余命を宣告される前は余命を宣告されたらこう生きようとかいろいろ考えてた。
でも結局今までの自分のままでしか生きられないんだって最近わかった。
死ぬのが近いのにPC解禁されたら真っ先に2ちゃん見ちゃうし。
新しいパソコン買っちゃうし。
宣告される前は死を甘受することは格好いいと思ってた。
でも今は生きたい。





  
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♯18258
3才児が「心配かけて」なんて言うかねー?
♯18259
>>1 そんな感じのことを言ったってことじゃね?

646は、もういないんだな。
なんだか646のレスがあまりにも現実的すぎて・・・
天国でも2chしてっかなぁ。
♯18260
なげぇよ
♯18261
泣ける
今から読むけど
♯18262
辛いだけじゃないけど、辛い・・・
涙が止まりません
♯18263
で、オチは?
♯18264
※欄がレベル低過ぎでワロタwww

くずばっかりだな
♯18265
>>670
事故の後で麻痺が進行してるってことは、脳内出血じゃないの?すぐに開頭手術すれば治療できたかもしれないのに…。
♯18266
わんこネタは反則・・・(´;ω;`)ウッ
♯18267
最後みたいなリアルな声はきつい・・・
♯18268
本当に泣くと思わなかった
♯18269
弟が肺炎で入院していた時に階段から落ちたらしい幼い子供が入院してきた。
意識不明だったがずっとうめき声を上げていた。
結局その子は数日間苦しみぬいて死んだらしい。

と、いう話を爽やかな日曜の朝に母から聞かされた。
俺が何の嫌がらせだ?と聞くと母は、代わってあげたいでしょ?と言った。


ニート25歳の春
♯18270
泣けねえエエエエエエ!!!!!!!!

ッヒャハーあああああああああああ
♯18271
不覚にも泣いてしまった…
♯18275
病気・死にネタばっかじゃんと思ってたら
病弱名無しさんか。
♯18276
※1
>3才児が「心配かけて」なんて言うかねー?
3才って意外と周りが言ってること理解しておぼえているんだぜ?

これからもっともっと言葉を覚えるときだったのに、と思うと泣ける
♯18279
昼間から泣かすな。・。・(ノД`)・。・。
♯18280
ほとんど全部で泣いた・・・

涙もろいから仕方ないな。
♯18281
家族いたけど泣いた(´;ω;`)
♯18421
なきそう
♯18508
なける(;_;)
♯26251
長い?これだからゆとりは・・・
かうんたっく

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