【生活】思い出に残る食事 てんこもり。


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【生活】思い出に残る食事

1 名前: もの食うひと 投稿日: 2000/02/26(土) 17:14

いや、うまい・まずいはどうでもいいんだ。なんか状況とともに思い
出すってやつ。
おれは5年前に好きだった女の子と食ったスパゲッティだ。柄にも無く、
神戸のイタメシ屋でボンゴレなんぞを食していたのよ。相変わらず面白く
もない冗談連発してた。そしたら彼女が突然泣き出したんだ。くわしい
事情は省くが、おれにはどうすることもできない話だった。おれは
ただズルズルとスパゲッティ食ってたよ。
今日、あさりのスパゲッティを食って、突然そのときのことを思い出した。
あのときの彼女の表情や声がくっきりと蘇ってきたんだ。
それでなんか食い物ってすごいなと思ったわけだ。みんなにはこんな
経験ないだろうか? あったらぜひ教えてほしい。



2 名前: 10年前の横浜博覧会 投稿日: 2000/02/26(土) 18:08

ひとりで
ビックマックとスプライト、、、
そのときのビックマックは箱が紙でできたいるやつだった
(フライドポテトのMのやつと同じ紙質)なんか
そのときのことを考えると頭がほわーんとする


9 名前: 三十路男 投稿日: 2000/02/27(日) 16:27

高校3年の部活最後の試合が終わってから食べにいったメンチカツ定食。
食事よりも会話が思いでに残ってる。
友人「終わったな・・・・・」
私「終わった。やっと終わった。」
友人「長かったな・・・・・」
私「長かった。本当に長かった。」
友人(笑い)
私「?」
友人「○○(私の名前)とメシ食いに来てよかったよ。
    ○(もう一人の同学年の部員)だったら "うん" しか言わないからな。」
もう一人の同学年の部員はその時はなぜかいませんでした。
別に嫌ってた訳じゃなけど。

14 名前: かなちゃん、おめでとう 投稿日: 2000/03/06(月) 01:49

つきあってた男にふられた時、後輩と2人でやけ酒飲んで、そのまま
後輩の家へ。わめいていたからのど乾いちゃって、冷蔵庫開けたら、
飲み物って牛乳しか入ってないの。
「先輩、ミルクおいしいですよ」と彼女が言って、お鍋であっためて
くれた。彼女は気を使ってくれて「北海道のミルクはおいしかったなあ」
とか「子供の時は熱だしたら、いつもホットミルクでしたよ」とか、
どうでもいいことを饒舌におしゃべり。 私はそれを聞いているうちに
なんだか悲しくなって、とうとう声あげて泣いちゃった。
そしたら彼女が「なんか悪いこと言いました?」って取り乱しておろおろ
しちゃって‥。それがおかしくって結局2人で大笑いしてしまった。
彼女が春に結婚するって聞いて、思い出した話です。どこかに書きたくて
ここに書かせてもらいました。
今夜は、ホットミルクを飲んで寝ることにしましょう。


17 名前: 恋愛とは関係ないんですが・・・ 投稿日: 2000/03/06(月) 16:09

祖母がボケ始めた頃、海外在住だった私は一時帰国して、和歌山まで
遊びに行きました。二年程会っていなかったのですが、以前はしゃきっと
していて厳しかった祖母が、仏さんみたいな顔で笑いかけてくれて、電子
ジャーに残っていたご飯でおにぎりをつくってくれました。「食え、食え」
と言って。
祖母と同居していて、一緒にいた従弟が「おばあちゃん、そのご飯、もう
古いんちゃうかー」と明るく言って、私の方をちら、と見て「食わんでええ」
と小声で言いました。でも私はどうしても食べたかった。だから、海苔も
塩味も何もついていない、ご飯を丸めただけのおにぎりを、口にほおばり
ました。電子ジャーの中に何日残っていたのか知りませんが、ご飯はぽろ
ぽろで変色しており、確かにおいしくなかったんですが・・・。
でも祖母が嬉しそうに私のことを見ていてくれたので、こぼさないように
頑張って噛みました。
それが祖母とのこの世での別れになりました。だから今でも、電子ジャーに
残ってしまって、ちょっと古くなったご飯を見るたびに涙がでそうに
なります。ぽろぽろのご飯の舌触りも、絶対に忘れないと思います。


21 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/06(月) 23:30

お袋よりもばあちゃんの料理を思い出す人多いんだな。
ばあちゃんが作る魚のてんぷらが大好きだった。安いてんぷら粉を使ったヤツ。
お袋とは折り合いが悪かったばあちゃんの家へ抜け出して、よくせがんであげて貰った。
ハフハフ言いながら一杯食った。安い魚で安いてんぷら粉で。
大人になった頃ばあちゃんが倒れて入院した。骨と皮だけになって意識も戻ったり戻ら
なかったり。見舞いに行ったときオレの顔を撫でてくれたけど誰だか分っちゃいないな、
みんなにやってたから。病室ではお袋や親戚がいつも揉めてた。世話の事や墓のことまで
大声で。それを見るのが嫌で病院へ行かなくなった。
ばあちゃん死んだ。葬式ではお袋も親戚もみんな泣いてた。俺は不思議と涙も出なかった。
一人になっててんぷら粉と魚をスーパーで買ってきて生まれて初めて料理をしてみた。
出来上がったてんぷらが堅くって真っ黒焦げで、その余りのまずさに食ってるうちに泣け
てきた。


27 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/07(火) 13:33

女子高生の頃、お母さんのつくる「味噌炒め」がイヤでイヤで。
いっつも異常にしょっぱい味付けだから、文句ばかり言ってた。

でも、一人暮らしを始めてから、作る料理全てが
お母さんの味付けとまったく同じ。外食続きで家庭の味に
飢えると作るのは、あの頃大嫌いだった「味噌炒め」。

今、彼氏が旨い旨いと言って食べる私の手料理は、
全部、お母さんの味です。文句言ってごめん。ありがとう。
そんな話ができるようになった今日この頃です。


34 名前: カールとさつまいも 投稿日: 2000/03/07(火) 18:11

小学生の頃よくやってた誕生日会。
仲良くなかったんだけど母親がどうしても呼べという子がいた。
クラスでもちょっと毛色の違う子。
その子からは算数のノートを1冊もらった。
正直どうでもよかったのを覚えている。
それから数ヶ月してその子が、廊下に私を呼び出して
自分の誕生日会をしたいから家に来てと言った。
仲良くないので行きたくなかったが
母とサンリオのグッズを選んで結局行った。

家にはその子以外だれもいなかった。
テーブルに置かれたカール。
ケーキもごちそうもそこにはなかった。
「これ全部食べていいよ」
結局2人で食べたんだけど
その後その子がさつまいもをふかし始めた。
料理するなんて驚いた。だってまだ小2。
慣れた手つきで出してくれたさつまいもは
びっくりするほど美味かった。
ずっと「ピアノがあっていいな」と言われてた気がする。
私は「今度弾きに来ていいよ」とは言わなかった。
帰り道母親がその子を呼べといった意味が
何となく分かる気がした。

カールとさつまいも。
彼女の思い出とは切り離せない。


38 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/09(木) 01:27

わたしもばあちゃんちで食べた「もち」が思い出です。
(心あたたまる話じゃないんですけど)

じいちゃんとばあちゃんが両方無くなってから、もちつきを
しなくなったので、もう食べてないんです。
じいちゃんが亡くなる数日前、正月についたもちを解凍して
一緒にたべてたんだけど、何故かじいちゃんはその時に限って
「なにもつけずに」食べたんですよね。なんでだろう?って思った。

でも、それだけ美味いんですよ!!ついた餅は。都会の人は
知らない人もいるのかなぁ。
だから餅は大好きだったけど、「サトウのキリ餅」なんて餅じゃねえ、
って感じです。あーばあちゃんの餅もう一度食べたいなぁ。


41 名前: クロレッツ 投稿日: 2000/03/09(木) 02:59

初キッスの味。
大好きな人との初めてのドライブ。
緊張しすぎて、噛んで噛んで噛みまくった挙げ句、
私のガムは口内でオガクズ状態に。
ガムは噛みすぎるとボソボソになる……。
そんなコトとキスの味を同時に初めて知った。


42 名前: 明るい田中麗奈 投稿日: 2000/03/09(木) 18:39

小学生の頃、仮面ライダーカードを集めていた。カードはスナックのおまけで1袋に1枚ついていて、それが欲しくてスナックを買っていた。カードを揃えるためには、ダブっているカードを他人と交換(私の土地では「ばくる」といった)しなければならないので、違う学校にまでカード仲間がいたものだ。

隣町の学校に熱心な友だちがひとりいた。そいつと二人で町中の自販機巡りをして、返却口や機械の裏や下に手を伸ばして落ちている小銭を集めて回った。1ヶ月ほどするとまとまった金になったのでそいつがスーパーに行って1箱まるごと買ってきた。50個程のスナックは壮観だった。カードを山分けしたあと、スナックを私の家の押し入れに隠し、次の日曜に基地(空き地につくっていた)でまとめて食う計画を立てた。

ところがスナックは学校に行っている間に母親にみつかって知らないうちにどこかの施設に寄付したかなにかでとにかく処分されてしまった。母は私たちがスナックにはまったく興味がないと思ったらしい。当時カード目当ての子供がスナックを食べずに捨てているという記事を書いた新聞があったのだ。そのスナックを楽しみにしていた友だちは随分怒ったものだ。私もひとつも食べることなく消えてしまった大量のスナックの味というか食感を想像したことがいまもわすれられないでいる。

子供の頃は、ひとつの袋に入ったお菓子(たとえばレギュラーなサイズのポテトチップス)をいつか自分ひとりで全部食べられるようになるなんて思っていなかった。そのときのことをいつか文句を言ってやろうと思っているうちに大人になり、母は還暦を迎えようとしている。


46 名前: おばあちゃんの味で 投稿日: 2000/03/10(金) 04:46

思い出すのがポテトサラダ。なぜか味付けが妙に酸っぱくて・・
子供の頃の私はこれが苦手で、その印象かポテトサラダは酸っぱいものと
信じてました(笑)。そんなおばあちゃんとも理由あって離れることになり
この酸っぱいポテトサラダも食べる機会はなくなりました。
先日しばらくぶりに、おばあちゃん家に遊びに行ったときのこと
帰り際 このポテトサラダをお土産に持たせてくれたのです。ありがとうと
云いながらも私は困惑していました。だっておいしくないんだもん。。
ところが 懐かしさに負けて一口食べてみたら…意外にもおいしい!!
ほとんど一気に食べてしまった。味は相変わらず酸っぱいのだけれども
初めておいしいと感じました。ほかでは食べられないおばあちゃんの味。。
大人になってから食べるとこんなに印象が変わるなんて、、
ごめんね、子供だった私はこのおいしさに気づかなかったよ。
今度レシピ教えてね、おばあちゃん。


名前: 悲しい思い出 投稿日: 2000/03/10(金) 08:55

小さい頃、小学校1年か2年の頃かな。家は両親上手くいってなくて
母親は何度目かの家出中だった。父親もろくに帰ってこない。しょうがなくて
おばあちゃんがたまに面倒見に来てくれてた。そんな或日、夕方7時過ぎた夕飯の時間も
誰もいなくて、私と妹はお腹が空いてたまらなかった。冷蔵庫には何も入ってない。
お金も無い。妹が可哀相だし私も我慢できなくなって、たいして付き合いも無いのに
近所で一番お金持ちの人の所に行って、事情を話した。多分、子供心にお金持ちなら
食べ物が余っているだろうと考えたんだと思う。そしたら英字型の乾パンくれた。
ぱらぱら塩がまぶしてあるやつ。なんだか自分のした事が恥ずかしかった。
その乾パンは明日の事も考えて大事に食べた。20年以上前だけど今でも覚えている。

食べ物にまつわる話なら、ここの誰もがエッセイストになれるね。


59 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/10(金) 18:06

ウチのおばあちゃんは、初任給もらったとき
長年の夢を実現すべく、市場へ走ったそうです
そして、あのウニが細い木のケース見たいのに入ったやつを買ってきて
あつあつのご飯を前に、1列全部箸ですくって
もりもり食べたそうです。
ばあちゃんはウニが好きで好きで、いつかそれをやるのが夢だったそうです


69 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/11(土) 04:50

祖母の家では毎年お正月には餅屋に頼んだ餅でお雑煮をつくります。
いつもお正月には祖母の家に行ってそのお雑煮を食べていたんだけど
ある年「たまには家でお正月を過ごしたい」ってわがまま言って行かなかった年がありました。
家では母が祖母と同じようにお雑煮をつくってくれたんだけど
どこか味が違うような気がするんですね。
三が日が過ぎてから祖母の家に遊びに行ってこの事を話したら
私のために餅を残して置いたよ、と言ってお雑煮をつくってくれました。
「やっぱりおばあちゃんが作ったお雑煮が一番美味しい」と言ったときの祖母の笑顔が忘れられません。

あと何回一緒にお正月を過ごせるかわかりませんが、それ以来お正月は絶対に祖母の家に行くようにしています。
なるべく長い間、あのお雑煮を食べたいなあと思います。


70 名前: 高卒後 投稿日: 2000/03/11(土) 06:15

一人暮らしを始めたんだけど、親がよく米とか野菜送ってくるじゃん。
そういう荷物の中に、たらの芽が入ってたんだよ。
その日、母からの電話で「送ったたらの芽、天ぷらにすると良いよ」
なんて言われてさ。でもマンションの電化コンロじゃ天ぷらなんて出来ないから
「もうちょっと考えて送ってくれよー」なんて答えちゃって。

その2日後、用事があって実家に帰ったとき、母が手に絆創膏貼ってるのね。
最初見たときは「またなんかヘマしたんだろ」なんて思ってたんだけど、
妹から話を聞いたら、たらの芽を取りに行ったときに怪我したって。
知ってる人もいると思うけど、あれってトゲがあって採るときに刺さったりするんだよね。
それ聞いて、俺のためにわざわざ採ってくれたのかー、ってすごい罪悪感覚えた。

マンションに帰って、段ボールの中で痛みかけてたたらの芽を出して、
浅いフライパンで無理矢理に天ぷら作って食べた。
衣が生っぽかったのを今でも覚えてる。


71 名前: ごめんなさい 投稿日: 2000/03/11(土) 06:18

小学生か中学生の頃、母親と大喧嘩して
母親がそのまま家出してしまったことがあって
その翌日は、タイミングの悪いことにお弁当が必要で。
泣きながらどうしようと困っていたら
いつもは口も聞かない兄が早起きしてお弁当を作ってくれた。

甘い味の卵焼きを焼いてもらったら、焦げてて、見た目も悪くて
それがすっごくイヤで、また大泣きして。
いつもなら殴って怒鳴って終わり…な兄がもう一度丁寧に焼き直してくれた。

味なんて、もう忘れたし他のおかずが何だったのか忘れたけど
その失敗した卵焼きの苦さが忘れられないな……と。


78 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/11(土) 14:21

あたしの家は共働きで家に帰ったらいつも一人でした。
毎日、お菓子は台所に袋菓子を分けたものが姉の分と二つお皿に
置いてありました。今考えるとそれだけでも十分うれしかったはずなのに、
よその家では母親がケーキなど焼いてくれてるって思っていた私は、
作ってってわがままを言ってました。
休みの日、不器用でお菓子なんて作ってくれなかった母親が
クレープを作ってくれました。
焼いたクレープ生地にチョコレートシロップをみたいなものを
塗っただけのものでした。おいしいものではなかったけど、
それが初めて食べたクレープでした。クレープを見たら思い出します。
母親は今も元気で働いてます。帰ってきたら覚えてるか聞いてみようかな。


79 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/11(土) 14:22

小学校2年生の時の思い出です。

担任の先生は50だか60だかのおばちゃんで、
その年が教員生活最後の担任だった。
俺らの学校は1年生から2年生になるときはクラス替えがなかったから、
先生と俺らは2年目だった。
一番最後のお楽しみ会で、歌唄ったり、誰かの下手な手品見たりした後、
先生が「最後にみんなで食べよう!」と、なにかをみんなに配った。
「ミロ」(ココアみたいなお湯とか牛乳とかに溶かして飲む粉)だった。
当時「ミロ」が出だしたころで、テレビとかでコマーシャルガンガン
やってたから、先生も選んだんだと思う。
誰かが「先生、これ、このままじゃ食べれへんで」と言った。
先生は「そうなん」と言った。なにか他にも言ったかもしれないが
覚えてない。
結局、みんな「ミロ」をそのまま手ですくって食べた。
なんでか分からないがそういう雰囲気だった。

なんか間抜けな話なんだけど、今でもよく思い出します。


85 名前: カルボナーラ 投稿日: 2000/03/12(日) 02:00

遠い昔の中学生時代、つきあって間もない彼女とスパゲティを食べに行った。
しかし当時、うちのおかんのレパートリーといえば、ナポリタンとミートソースのみ、
彼女の前で気取りたい年頃だった俺は、そんなベタなものは頼めないと見栄を張り、
当時なんとなく聞いたことがあったような気がしたカルボナーラを注文した。
しかし俺の取り越し苦労をよそに、彼女の注文したのはミートソースであった。

それでも見栄っ張りな俺は「俺、スパゲティではカルボラーナが1番好きかなあ」と無駄口、
すると無垢な彼女は「私カルボナーラって食べたことない、何が入ってるの?」と尋ねてきた。
俺は「ヤバイ」と焦ったが、幸い彼女の後ろ、別の客のテーブルにウエイトレスが、
「カルボナーラと○○○○お待たせしました」と運んで来たのが見えた。
2つの皿のうち1つはトマトソースに貝やエビなどの魚介類が見て取れた、
今思えばペスカトーレだろう、もう1つの皿は白っぽいクリームソース状で、
その時確認できた具材はベーコンだけだった。

それを見た俺は、メニューの中に「ベーコンと何とかのスパゲティ」なる品名があったのを思い出し、
とっさに(あの白いのは「ベーコンと何とかのスパゲティ」だ、ということは
あっちの魚介類のトマトソースのスパゲティこそが、カルボナーラに違いない)と判断し、
「ナポリタンみたいなケチャップ味で、貝とかエビとかが入ってるやつだよ」と得意げに説明した。
さらに、「エビが丸ごと入ってるから好きなんだ」等と要らぬ付け足しを繰り返していた。

やがて運ばれてきたカルボナーラに「ここのカルボラーナはうちで作るのと違うなあ」などと
哀しい言い訳を繰り返すばかりの俺に、気まずさを察知して無口な彼女。
しかも何度も繰り返す「カルボ“ラーナ"」という言い間違いに気付くのは、その後何年も経ってからだった。

カルボナーラをセブンイレブンで買って食べると思い出す、でも店では未だに注文できない。


91 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/12(日) 07:58

ん、じゃ軽く一本行きまーす!

中学の時。土曜の放課後、隣のクラスの男の子が、教室でお弁当を
食べるのを、何故か真ん前で見ていたことがあります。
私はそのクラスの女の子と一緒に帰ろうと思って待ってたし、
顔は知ってるけど話したこともない男の子は、今から部活だったと思う。

で、黙って見ている私の前で、しゃかしゃかと弁当を食べ終えた彼は、
最後にその銀の弁当箱にこびりついてたごはんの一粒一粒をお箸で
ひょいひょい取って口に運び、きれいにおべんと箱をカラにして
フタを「ぱたん」としめました。

すっごいカッコ良かったんですよ~、それが。
気持ちいいっつーか。食べっぷりも良かった。
別にそれでその子に惚れたりはしなかったんですが、
それ以後「ごはんをおいしくきちんと食べれる人」「お箸を
正しく扱える人」という、好きな人の条件が増えました。


97 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/13(月) 07:07

おばあちゃんの話を見て思い出しました。
私には兄がいて、兄はおばあちゃんがつくるクリームシチューが大好きでした。
ホワイトソースも自分で作る本格的なもの。
実は私はそのおばあちゃんが苦手で、初孫だからといつも兄ばかりひいきして…
と、すこしひねくれていたんです。実際、私がきらいなものも食卓に
だしたりして、大泣きしたこともあったくらいで…。
そのおばあちゃんがなくなった時、涙もでませんでした。
嫌いというより苦手だったので、近寄りにくかったせいもあるんですが。

先日、自分でホワイトソースを作ってシチューを作ってみたのですが
なかなかおばあちゃんが作ってくれたような味にはならない。
結局、あまりまんぞくしないままそれを食べたのですが、こんなことなら
作り方を聞いておけば良かったと思いました。

今思えば、好き嫌いが激しかった私の為に、いろいろ作ってくれた
おばあちゃんの事を思い出し、当時の自分の行動を恥じました。
このスレッドを見て、おばあちゃんがなくなってから初めて泣きました。
今度、墓参りに行こうと思いました。
ここはいいスレッドですね。ありがとう。


101 名前: 茶々 投稿日: 2000/03/13(月) 12:24

彼氏が中古だけど車を買ったので、ドライブで海に行こう!
という事になりました。
車の中で食べようと、浜辺でつぶ貝の醤油たれの串焼きを買って
隣で彼氏が運転して、私は串焼きを食べていました。
串焼きはおいしくて夢中で食べてたら、片手でもっていたスチロール
のトレイが傾いて、座っているシートにもちょっとタレがこぼれて
しまいました。
しまった!と思いあわててウェットティッシュでふいても
染みは取れません。車内に甘辛いたれの匂いが広まっていって、
彼に申し訳なくて半泣き状態で謝ったら、突然彼は運転しながら
大笑いしはじめました。
「夢中で食べているから、いつかこぼすと思っていたんだよ」
「だったら、一言言ってくれれば良かったのに」
「車は中古なんだから別に気にしなくていいよ。
おいしそうに食べているから、邪魔したくなかったんだよ。」

うれしくて、申し訳なくて、心の中がじわーんと暖かくなったのを
覚えています。


130 名前: もう15年前 投稿日: 2000/03/14(火) 20:02

親元を離れ、就職のため上京した私の唯一の頼りは、1年先にやはり
就職でこちらにきていたものすごく仲の良かったひとつ年上のいとこ。

まだまだ生活に慣れない梅雨の頃、職場に突然親から電話が。
「いとこの○ちゃんが倒れたらしい。近くにいるのはお前だけだから
行ってやってくれ。」
上司に事情を説明し、病院へ。病床には弱りながらも意識のしっかり
した彼がいた。
別室で医者に事情を聞くと、ずいぶん前から心臓が弱り続け、もはや
手のつけられない状態だと。

さっき話した彼には、死なんて認識はまったくない。中学で母を亡く
した彼へのさらにひどい運命のしうちに声にならない叫びをあげ拳で
壁を殴る私。
駆けつけた彼の父が残り、その日は寮に帰った。
もう会えないとはわかっていたが、そばにいるのは辛すぎた。

夜中に叔父から電話があり、「死にました」ポツリと告げられた。

翌々日駆けつけた彼の妹とうちの親たちと、悲しみながらも慌しく簡単な
葬儀を行なった。そして、彼は小さな骨壷になって妹に抱かれ新幹線で
帰郷した。

見送りの新横浜で、親が崎陽軒の「シュウマイ弁当」を買ってくれた。

新幹線を見送る雨上がりのホーム、ポツンとひとり残された私。
大げさだがこの世でひとりぼっちになった気がした。

寮に帰り、途方にくれながら1人で食ったあの弁当、味はしなかった。


139 名前: へほほ 投稿日: 2000/03/16(木) 13:56

まだ、港北ニュータウンが造成地だった頃
初めて母親とピクニックにいったのよ。
たぶん、幼稚園くらいの頃かな。
田んぼやら草原しかないようなところを
てくてく二人で歩いているだけだったんだよね。
でも、自分は、母親と二人でピクニック、ってだけで
なんだかものすごくうれしくて、そのときは
単純に近所を散歩、ってのと変わりなかったんで
お弁当なんか作るわけも無く、そのへんの店で
菓子パンとかジュースとかそんなもんだけ買って
持って行ったんだけど、途中、一休みして食べた
チョココロネがすごくおいしくて。
外で物を食べて、おいしいと思ったのは
あれが始めてだった。
チョココロネを見るとあの時のことをいつも
思い出す。


165 名前: 嫌なガキだった 投稿日: 2000/03/18(土) 02:47

小学校の卒業記念に、両親はイチジクの苗を買って植えてくれました。
父と二人で、成長するのを楽しみによく木を眺めたものです。
それなのにいざ実がなって父がジャムを作ってくれると、そのジャムが
なんだか汚いような気がしたんです。鳥がつついたかもしれないし、
虫だって食べたかもしれない。それに父はジャムなんか作ったことは
ないはず、そういったくだらないことが理由でした。
結局私はほとんど食べませんでしたが、そのうちに引越しが決まって
木は切られてしまいました。今なら無農薬手作りジャムの良さも
わかるし、木を大事にしていた親の気持ちもわかる・・・。


168 名前: お好み焼き 投稿日: 2000/03/18(土) 04:22

それは叔母がホスピスに移る少し前のこと。
叔母は乳癌が再発して肺に転移し、余命数ヶ月と言われていました。
遠くの大学に通っていた私は、帰省したときに叔母を見舞いに行きました。
叔母はこの時すでに告知を受け、病院を離れ、実家に戻っていました。

私が訪ねたとき、叔母はときどき咳をしつつ、お好み焼きを作っていました。
思い残すことがないように、食べたいものを食べておくのだと。
「○○君もどう?」 私の分も作ってくれました。
そのお好み焼きは本当に美味しかった。でも、
(あと数ヶ月でこの人はこの世から居なくなってしまうのだ。四十代の若さで)
そう思うと、悔しくて、悲しくて、胸が詰まってしまい、
私はほんの数口しか食べられませんでした。どうしても食べられなかった。
ごめん、さっき家で昼ご飯食べたからと言い訳すると
そう、と叔母は寂しそうに笑いました。

結局、これが今生の別れになってしまいました。
叔母を偲び、時折お好み焼きに挑戦することがありますが
どうしても、あの味には到達できません。
あのとき、自分も作るのを手伝ったのですが…
無理をしても全部食べておくのだったと、今でも悔やまれてなりません。


169 名前: へちま化粧水 投稿日: 2000/03/18(土) 07:00

みなさん、いいお話で、こんな朝から電車の音を聞きながら
ちょっとうるうるです。

私のは「いい話」じゃないけど・・・
彼とつきあって、初めてお泊まりした次の日。近所のイトーヨーカ堂で
二人でお買い物をして、「なんだか肉が食べたい」という彼のために
ステーキを焼いてあげよう、と思いつきました。
そう思って当時お金持ちだった(浪人中のバイトとかで)彼は
けっこういい肉をぽんとカゴに入れて、アパートに帰り、
わたしはごはんを作ってあげることにしました。
なにかステーキソースになるものぐらいあるだろうと思ってたけど
ひとり暮らしを始めたばかりの彼の部屋にはなんにもなくて、
サイコロステーキを焼いて、そこにおしょうゆをじゃーっとかけて
それを出しました。実家でよくやっていて、けっこうおいしいんですよ。
(強火でジャッとしょうゆをやるのがポイント)

彼はおいしいおいしい、って全部食べてくれて、どうやって作ったの?
って言いました。おしょうゆだけ、って言ったら、すごく感心してくれて
あとになって言うには「この子がいい」って、その時に思ったそうです。

いまでも彼は「ああいうのが食べたい」と言いますし、よく作ってあげるのですが
なかなか思い出の味、というものにはならず(笑)、「ちがう!」と
文句を言われます。でも、かならずおいしかったって残さず食べてくれる
彼のことが、私は大好きです。
実際私は、ステーキとか、いわゆる洋食より煮物を作ることが多く
彼も私の鶏じゃが、ブリ大根なんかを食べることのが多いです。
でも、「お前が作るめしばっかりで、他の煮物を食べるとなんか違う、って
いつも思う」って言ってくれて、なんかうれしいような、くすぐったいような。
昨日ケンカして「あなたのそういうのが大嫌い」って言っちゃったけど、
ホントは世界で一番好きです。ごめんね。


175 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/18(土) 18:58

10年程前、当時高校生だったTとオレとで山登りをした。
登山といえるほど本格的なものじゃ無いけど、テントを担いでいって
一泊の予定。
夜になり晩飯にはお約束のカレーを作って食った。頂上までは後少しだったし
荷物が重くなるのが嫌で食料はあんまり持ってきてなかった。
「とっとと寝て朝早く出発しようぜ。」
夜中になって自分達の甘さを思い知らされた。
春だから軽装にしたがその寒い事寒い事、とても寝てられない。腹も減ってくる。
歯をガチガチ言わせながらお互い泣きそうになってたらTがカップラーメンを2つ
持ってきたのを思い出した。周りから急いで木を集めてきて火をつけてお湯を焚いて
カップラーメンを寒さに震えながら食った。そのうまい事うまい事。
白い息を吐きながら「んとに美味いなぁ、今世界中でカップラーメンを一番美味いと
思って食ってんのは間違いなくおれ達二人だけだなぁ、はは」
ゲラゲラ笑いながら一気に食った。結局眠れずに色んな話をしたけど合間に「カップ
ラーメンを一番美味いというおれ達だけどな」なんて冗談を言い合ったりした。ゲラ
ゲラ笑いながら一晩中。ホントににうまかったんだよ。

卒業後の進路もバラバラで余り連絡もしなくなってた頃、Tが自ら命を絶ったことを
聞いた。理由はわからないし聞きたくも無かった。葬式には出れなかったけどTには
こう言ってやりたかった。
「馬鹿やろう。世の中にはカップラーメンよりももっともっと美味い食べ物が一杯あ
 るんだぞ。」


182 名前: 181 投稿日: 2000/03/20(月) 14:40
小学生の頃、一人っ子で、鍵っ子だったぼくの土曜日の昼食は冷えたオムライスだった。
毎週といっていいほど、ケチャップをつけてラップをかけたオムライスだった。
朝から夜まで働き通しだった母が忙しい時間の合間を縫ってつくってくれていたものだ。
そんな事はすっかり忘れていた一昨年、私は離婚して一人、今は母だけになった実家に帰った。
自暴自棄になり仕事も辞めていたから、実家で数日を過ごした。
毎晩黙って酒をあおる私を母は何も言わず、早く寝ろと促すだけで先に眠っていた。
ある日、昼過ぎまで寝ていた私が台所で酔い覚めの水を飲むとテーブルに何かあることに気付いた。
作り置きの冷えたオムライス。
メモがあって「用事があって出かけるから、これ食べなさい。」と書いてあった。
私はラップを剥がして、静かにオムライスを食べた。
懐かしさと、切なさと・・・色々な感情がまじって湧き出し、オムライスはしょっぱくなった。
私はその日、帰京する支度をして、また一からやりなおすと母に誓った。
今はまだ一人だけど、淡々とそれでも楽しく生きている。

口に出して言えないけれど……
お母さん、私は永遠にあなたの息子です。


199 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/21(火) 23:58

小学生の頃、塾の帰りが遅くなったとき
同じクラスの男の子が自転車で追いかけてきて、
「先生が送っていけってゆーから」と、つまらなそうにいい
私の家まで一緒に、自転車を押してついてきた。
途中、彼は私に「おごりだからな」と
つぶつぶオレンジを買ってくれた。
彼はいつもバカなことや、私を怒らせるようなことをいうのに
このときは、家に着くまで一言もしゃべらなかった。
私は、そのいつもと違う様子にどきどきして、
ジュースばかり飲んでたんだよな。
みょーにのど乾いてたりして。
異性を意識したのってこれが最初かもしれない。

今も恋人にジュースを買ってもらうと
この時のことをちょっとだけ思い出す。


237 名前: ビール 投稿日: 2000/03/24(金) 17:30

 ビールは横に冷やすとうまい、と父は言っていた。
そんなわけはないと、と言っても聞かず、冷蔵庫に決まってビールを横にして冷やしていた。
酒以外煙草もギャンブルやらない親父にとって、ビールに関してだけこだわりを
持っていたのかもしれない。酒が飲めなかった俺は、一緒に飲むこともなかった。

 親父が死んだ時、なぜかそんなに悲しくなかった。あっけないな、とは思ったが、
何か時間が寸断されるような感覚はなかった。親戚が自宅にきて、これからのことを
話し合っているときに、ふと何か酒が飲みたくなり、冷蔵庫を開けた。

 横になったビールがあった。時間がぎゅっと凝縮されて、思い出すべきことが多すぎて、泣いた。


244 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/26(日) 04:13

私の父は40代前半で、ガンのために、発覚してから数カ月で他界しました。
死亡する前日父の病室に行き、いつものように梅干しと、母が作った おかずをを差し入れました。
入院直後からちょくちょく差し入れはしていたのですが、そんなにすぐ死んでしまうとは
考えもしなかった私はそれが億劫で、いつも夕食の時間より遅く届けていました。
帰りがけ父が、何か言いたそうにしていたのをぐっと呑み込んで、バイクで帰る私に
「気をつけてな」と、いつものように一言声をかけました。
それが最後の言葉でした。

その後私は何度か入院することがありました。
体調が良くなると、病院の生活は実に退屈で「次の食事まで後◯分」という気持ちで
時計を見るようになります。
その食事があまりおいしいものではなく、また量も物足りない。
父が差し入れをどんなにか楽しみにしていたか、自分で体験し分かったような気がしました。

私はこれまで、現在の自分がたいした人間でもないわりには、自分の行動を後悔したことが
ないのですが、このことについてはたいへん後悔しています。
もっと早く届けていれば良かった。毎日運んであげれば良かった。
いや、むしろ自分のために、残り少ない父との時間をもっともっと大切にするために、
そうすれば良かった。
差し入れを届けてもすぐに帰ったりするんじゃなかった。

父の死後しばらくの間、梅干しを食べる気になれませんでした。
しかし15年経った現在は、自分で漬けています。
梅干しを漬ける度、あるいはそれを食べる度、思い出してしまいます。


246 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/26(日) 14:54

小学校一年、入学したての頃。
上級生(6年)が給食の手伝いに来てくれた。
その日の献立は、食パンにスライスチーズ・レタス・マスタード(他は覚えていない)。
「いただきます」の合図で食事を始めるのだが、その前に、
上記の食材からサンドイッチを作らないといけない。
私もサンドイッチを作り始めたのだが、スライスチーズのかけらが
残ったので、つい口にしてしまった。
そのとき、上級生に「まだ食べたらだめだよ」と注意されてしまった。
25年前の、食事に関する一番古い記憶です。なんで覚えているのか。


252 名前: さばおどり 投稿日: 2000/03/27(月) 06:54

私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。そこで、私達はいつも近所に住む
Aさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も
抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て
嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを
擦りつけて家に帰りました。


家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。しばらくすると、
着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から
母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…


258 名前: 緑一色 投稿日: 2000/03/27(月) 15:55

泣ける話ではないが…
中学に入る直前の春休みのある暖かい夕方、桜を見に近くの公園まで出かけた。

北国なので、4月中旬でも桜はまだ5分咲きくらいだった。人はあまりいなか
ったが、ふと同じクラスの女子に会った。彼女とは殆ど話をしたことが無かっ
たが、せっかくなので歩きながら、新学期からのことなどいろいろしゃべった
ように思う。確か彼女は直しに出した制服を取りに行った帰りとかだった。

ふと見ると、薄桃色に色付いた川沿いの桜並木の上に、白い満月が昇っていた。
ガキだった俺が、「今日は花見と月見が同時にできてラッキー」みたいなこと
を言ったら、「本当、もし緑一色君と私が大人だったら、一緒にお酒飲めたの
にね…」と彼女。

別に大した意味があるわけでもないのに、厨房にもなってなかった俺はその言
葉に何だか急にドキドキして、「ラムネ飲も、ラムネ、おごるから」と、売店
でラムネを買って彼女に1本渡した。彼女は「ありがとう」と快く受取ってく
れた。その後どんな話をしたかは覚えていない。

でも、あの時の甘く暖かい春の空気、冷たいラムネの味、夢のように美しかっ
た桜と月、そしてそれを見て微笑んでいた彼女の横顔は、今でも忘れられない。

桜の季節にラムネを見ると、思い出して少し切なくなる。


295 名前: 唐変木 投稿日: 2000/03/30(木) 18:39

小学生の頃、ポテトチップスが大好きだった俺。
母親の買い物に付き合っておやつを買ってもらう時には、
母親が「100円以内にしなさい」と言うところ、いつも「108円でもいい?」と聞いていた。
(当時カルビーのポテトチップス、定価120円。近所のスーパーでは1割引で108円だった)

大人になって実家から離れている俺が実家に帰省すると、
決まって大量のポテトチップスが買い置きしてある。
母親は何も言わないが、実家の姉がある時
「お母さんって、○○(俺の名前)が帰ってくる時って、いつもポテトチップ買い込むよね」
と言っていた。

実家に帰って大量のポテトチップスの袋を見ると、その母の情が身に沁みるとともに、
母親にとって俺はいつまで経っても子供なんだと再確認する。
そして帰省からUターンする時にはいつも、食べきれなかったポテトチップスの袋が
俺のバッグの中にある。


296 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/03/30(木) 21:04

両親が共働きで中学、高校とずっと夕食の準備と父の晩酌の
相手(おつまみを作ったりするだけね)な毎日だった。
夜遊びなんてしたことなかったし、学校での昼食はパン。
体育祭などで家族が来てくれた事も一度も無かったし、家族で
外食に行ったことも全然無かった。

高校を卒業して上京する日、「これ適当に食べて」と母に紙袋
を渡された。
新幹線の中で中身を見ると、小学校の時以来に見る母の弁当。。
からあげやハンバーグ等の若者が好むようなおかずは全然作れない
母の、自家製の漬物や煮物ばかりの弁当を見て涙が出た。

当時の事を不憫に思ってるのか、たまに帰省すると無理にでも高級
な料理を用意しようとするので「母さんのみそ汁と漬物だけでいい」
って前もって釘をさす事にしてる。


313 名前: まい 投稿日: 2000/04/04(火) 16:57

(「あめぞう」にも書いた事ある内容ですが・・・)
幼稚園の頃お絵描きの時間に先生が
「大好きなものを描いてね」といういやに抽象的な
テーマをだした。
みんなは、「おかあさん」とか「愛犬」とか「お花」を
描いていたが、私は、画用紙一杯に茶色の丸を
何個も何個も描いた。先生の「これ、なあに?」の問いに
「とりのからあげ!」と元気に答えた私。
教室内は大爆笑、「だって、好きなものって言ったやん」と、子供心が傷ついた。その絵を、返却され家に持って帰る事になり「お母さんも笑うかなあ、」と心配になったが、お迎えに来た母に「好きなもの、から揚げ描いたら先生も皆も笑ってん。」ここまで話すのが精一杯で
大泣きしてしまった。
母は満面の笑みを湛え「そっかあ!」とその足で
すぐスーパーに行き鶏肉をいっぱい買って来て
その日の夜と、次の日のお弁当にから揚げを
入れてくれた。
年子の弟がいたので、「お姉ちゃん」というプレッシャーがあったのと、食が細かったので、
「これが好き」とか「これ食べたい」とかあまり
言わない子供だったので母はすごくうれしかったみたい
父も「この子は酒飲みになるぞお」とうれしそうに
から揚げをたべていた。
期待を裏切らず酒飲みになり、あてはいつもから揚げ
身長も171センチと大きく元気に育った。

「から揚げの絵」は、いまも大切に実家に保管して
ある。
おかあさん、ありがとう。


323 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/06(木) 00:01

食事の話じゃないのですがこのスレッドみて
思い出したことがあります。

私の祖父はすごく恐い人で、明治生まれの頑固じじいっていう
言葉がぴったりな人でした。
でも、昔のヒトなのにコーラとか若者が好むような食べ物が
大好きだったんです。

私達姉弟が幼稚園くらいのときのコトだったと思います。
ある日祖父が庭の雪かきをやってて私達が手伝ってました。
そんな時祖父が突然私達たちに、「ここ掘ってみろ!」って
いうんです。
なんだなんだと掘ってみると雪で冷やされたコーラが2本出てきました。
なんでコーラが出てきたの?って祖父に聞いても教えてくれません。
祖父は庭の裏手に見える遠くの山を指差して、
「あの山から魔法使いが運んできたんだ!」の一点張り。。
コーラは250mlのやつで1本は祖父の分もう1本は私達の分。
1本のコーラを弟と分けあって興奮しながら飲んだ覚えがあります。
それから何日かコーラ掘りは続きました。
「いい子にしてないと魔法使いは運んできてくれないぞ!」
という祖父の言葉を信じその冬の私達はとてもいい子でした。
恐い祖父から魔法使いって言葉がでること自体私達にはオドロキで
しばらくは本気で信じてました。魔法使いが運んできたんだ!と。
恐いだけになんだか真実味が溢れてて・・・
まんまと騙されてました。(笑)

祖父は随分前に他界してしまいましたが、今でもスキー場など
雪のあるところでコーラを見かけると祖父のコトを思い出します。


337 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/09(日) 01:22

5年前、6つ下の人と付き合ってて、でも歳の差を気にして悩んでた時
愛想の無い(悩んでたからね)私に、「大好物をもってきましたー。」
って言って、魔法瓶の水筒にクリームシチューを入れて
もってきてくれました。
入れるときは押し込んだのであろうジャガイモが出なくて、
面倒な事になりました。二人で笑いながら、菜箸でつぶしました。
自分で作ったらしく、大根が入っていました。普通入れませんよね。
結局、その彼とは別れてしまったのですが、
シチューを作る時に、時々大根を入れるようになりました。

楽しかった思い出のはずなのに、こうして書いてみると
やっぱりせつない気持ちになりますね。私にしかわからない気持ち。


名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/09(日) 04:38

私が5歳で兄が10歳だった時。母が珍しく熱を出して
寝こんでしまいました。夕飯を作る人がいなくなってし
まったので、2人ではじめてチャーハンを作ることにな
りました。母が寝ながら次はあれをいれてとか、あれを
炒めてとかの指示にしたがって作りました。八割くらい
出来たところで母が「じゃあ香りづけにお醤油をいれて」
って言ったんですが、「お醤油をいれて」ってとこが聞き
取れず、香り付けに・・・と言うところだけ聞こえまし
た。当時母親とよくケーキ作りをしていた私はそれでピ
ンと来てしまいました。香りづけと言えばバニラエッセ
ンス!!。。。。
2人ともはじめての料理だったためバニラエッセンスに
疑いを抱かずチャーハンに投入。しかもおもいっきりい
れました。。。
当然チャーハンは食べれたものではなく私は本気で泣い
てしまった記憶があります(笑)。それで寝ていた母が起
きてきて、チャーハンを一口食べてゲラゲラ笑っていま
した。結局ラーメンを取って食べる羽目になったのです
が、今でも思い出すとおかしくなります。

でも無知ってすごいですね~。今考えるとチャーハンに
バニラエッセンスって絶対入れられないけど、まあ思い
っきりよく入れたものです(笑)


344 名前: 拙い文章ですが 投稿日: 2000/04/09(日) 20:00

7年前、仲の良かった大伯母夫婦が私の実家の近所に庭付きの家を買った。
それから1年程たったある夏の日、私の家族と大伯母夫婦とでバーベキューを
する計画を立てた。
何日も前からとても楽しみにしていた。
炭も買った。網も新しいものを用意した。
肉も野菜も買ってきた。
ところが前日の夜、大伯父は倒れた。
そして、その日の内に亡くなってしまった。

次の日、バーベキューをしているはずだった大伯母の家の庭には、
通夜に来た親戚たちばかりがいた。
結局、大伯父がその家に住んだのはたった1年だけだった。
血のつながっていない私たち姉妹をかわいがってくれていた。
誕生日やクリスマスには両親がくれる以上のプレゼントをくれていた。
でも私はまだ大伯父に中学校の制服を着ている姿を見せていなかった。

大伯母の家は独りで住むには大きすぎる。
私は帰省するといつも泊りに行く。
いつも大伯母は私に肉を焼いて食べさせてくれる。

6年前のあの夏の日、親に反抗した事なんてなかった良い子の妹が
なぜかしきりに「バーベキューする日、もっと早くにしようよ」と
訴えていたのを今でも思い出す。


347 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/10(月) 02:01

ついこの間のこと。
事故などでお金が無い彼氏。
その日は天気も良くて、ハトのいる公園でぶらぶらしていました。
「ハトのエサ20円。20円ぐらいなら、いいよねえ」と一袋買いました。
でも、彼はそのエサをじーっと見てた。。。
「ねえ」って私が振り返った時、彼の口はなぜか、もぐもぐと動いていました。
「きゃーっ、何食べてんの?」って大声で言っちゃったもので
回りの子供達も「食べれるの?」って恐る恐る口に入れちゃってて。
ちょっとした騒ぎになりました。

その後「おいしかった?」って聞いたら
「こんな味」と、ちゅっとキスしてくれました。
びっくりどっきりな、食べ物・・エサの思い出でした。
ちなみに26歳と25歳の大人の2人ですので、恥ずかしいのですが。


384 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/15(土) 00:58

普段から少食でそれがコンプレックス気味の私。
彼とご飯を食べに行っても、何よりも食べきれるのか心配。
彼もそれを知っていて、だんだん辛そうになる私を見て
「大丈夫。無理すんなよ。残り、食べてあげるから」って食べてもらってました。
いつも最後まで食べきれない私が
初めて食べきれた時、彼は「よし、イイコだなー」って
頭を撫でてくれて、とっても嬉しかった。
でも、ぼそっと「おれ、カルボナーラ大好きだったのに」って。
私が残すのをちょっと期待してたのかなー。

カルボナーラを頼むたびに彼のあの嬉しいような
哀しいような、複雑な顔を思い出します。


391 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/17(月) 14:36

3年前、父がガンの末期状態で母と弟とホスピスへ申し込みに行きました。
申し込んだ後、喫茶店であんみつを頼みました。
みんな胸が詰まって食べれなかったのですが、
父が「食え!全部食うんだぞ!」とものすごい形相で食べ始め、
母も下を向いたまま涙をボロボロ流しながら必死で食べてました。
弟は席をはずした後、真っ赤な目で戻ってきてものすごい勢いで食べました。
私は、これを全部食べたら父が良くなるような気がして一生懸命食べました。
ほどなく父はホスピスに入ることなく亡くなりました。
今でもあんみつを見るとあの日の光景が浮かんできてつらいです。


406 名前: 夏休み 投稿日: 2000/04/20(木) 11:33

中学生くらいになるまで夏休みは必ず両親と父方の叔母、叔父と
海にキャンプに行ってた。
がんがん泳いでお腹を空かせたあとに
ネットにいれて海水で冷やした西瓜と青リンゴや、
海風の匂いのするお握りを食べたり。
貝を採って大きな鉄板で焼いたのが一番美味しかったな。
地面が見えるほど潮が引かないので足で探って採るんだけど、
たまに蟹に挟まれたりして。
烏貝がびっしりついた岩を見つけたときはほんとうれしかった。
岩場には海苔やかんぴょうが干してあってそれを見ると
「ああ、夏だなあ」と感じた。


407 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/20(木) 12:03

読んでたら午前中終わっちゃいました(笑)

私は、母のつくる手作りコロッケと、祖母の味ご飯(炊き込み御飯)が好物です。
就職でひとりぐらしをはじめた私は両方ともなかなか食べられない。

たまに祖母宅に遊びに行くと、
こちらから頼む前に「あじごはん持ってかえりー」と持たせてくれます。
祖母宅までは、電車で2時間ほど。
帰って食べようと思いつつ、家に帰る頃には、
2合ちかく入る容器はすでに空(笑)

そんな祖母とも1年以上会ってません。

就職して一人暮らしをはじめて1年、
彼女ができて、たまたま作ってもらったあじごはん、
なんと祖母のつくるものと味がそっくりでした。
ごはんが醤油色に染まった、濃い味のあじごはん。
味付けは親譲り、とのこと。
おいしさと懐かしさで胸がいっぱいになりました。
涙をこらえるため、難しい顔をして食べる私を見て、
「まずかった?」と心配そうに聞いた彼女(笑)
とってもおいしゅうございました(笑)

こんどのゴールデンウィークには、祖母に会いに行きます。
味ご飯食べにね(笑)

そうそう、彼女とは、来年結婚します。
わがままで嫉妬深くて泣き虫でやかましいけど、
きっと幸せにしてみせます。

TO:彼女へ
大学でつきあってた彼女がいたなんて、見栄でついた大嘘です(笑)
あなたが、初めてまじめにつきあった人です(笑)
でも、ホントのことは絶対教えません(爆)


439 名前: OL野郎 投稿日: 2000/04/22(土) 00:12

ここを知ったのが今週。
ずっと会社で急に涙ぐむ私。周りはなんと思っているのか・・・

私の話は以前の彼との思い出の食事。
お互い勤めていたにもかかわらずいっつも貧乏。
でも月に一回くらいは奮発して、焼肉を食べに行ってた。
実は私の実家は外食が嫌いな家で、それまでロクに焼肉を
食べたことがなかったんだけど、この彼は妙に焼肉好きで。
「レバ刺」「ユッケ」なるものを初めて知った私。
お互い別の人と結婚しちゃったけど、レバ刺食べると
ダンナに悪いなと思いつつ、元気かなと思っちゃう。
今でも最初はビールとホルモンで、最後の最後にカルビ頼んでるのかな?
向こうもレバ刺で私のこと思い出しててくれたら嬉しいな。


443 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/22(土) 21:44

彼女と付合う前に二人で行ったサティ。
ここで初めて食べたたこ焼き屋の「銀ダコ」
開店直後で一杯行列が出来ていた。
二人でずっと並んで他愛も無い話を続けて。
ようやく順番が来て車に持ちかえって食べた。

空腹は最大の調味料。
とっても美味しかったのを覚えてる。
その彼女とその後半年付合った後に別れた。
もう何週間も前の話。

今日会社の休日出勤の為に出社した。
途中、休日出勤用の昼飯を買う為に近所のサティでお買い物。
入って入り口すぐそばに「銀ダコ」のお店。
行列は出来ていない。
何の気無しに1個買って会社で食べた。

あの日と同じ味がした。
急に記憶が、一杯の思い出が戻ってきた。
無人の会社でポロポロ泣けてきた。
全部食べられなかった。


483 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/26(水) 04:03

昔、よく通っていた定食屋さん。
中華も洋食も和食も美味い。家族四人で行ってしこたま食って
5000円程度。そしてそこでいつも頼むのが、餃子。
タレも絶品で、あれほど美味い餃子は食ったことがなかった。
ほかにも、ラーメンもうまいし、オムライス、カツ丼、野菜炒め、
洋風カツレツ、などなど、なかでも一番美味かったのが特大エビフライ。
毎週行くのが楽しみだった。
しかし、そのお店が借地だったために地主から立ち退きを要求されて
お店は閉店。10年近く通ったお店がなくなってしまい、とても
悲しかった。後にはどうでもいいような外車の展示場になってしまった。
その後何年かして、お店をやっていた奥さんがとあるところの事務をやっている
と聞き、尋ねていって挨拶がてら、お菓子を渡して帰った。
すると、ご主人がわざわざ餃子の具と皮とタレをたくさん持ってきて
くれた。家族でその具を使って餃子を焼いた。
不恰好だったけれど、あのときの美味しい餃子の味がした。
とっても美味しかったです。


488 名前: AGE 投稿日: 2000/04/27(木) 01:17

まだ俺が若くって自分勝手だった頃、いつも不機嫌で彼女を泣かせて
ばかりで、それでもついてくる彼女にいい気になっていた、
今思えば、あのときの俺って、本当に馬鹿だったと思う。
その頃は2人、親元に居たので、彼女の手作り料理などを食べる
きっかけって無かったんだけど、正月休みかなにかのとき、彼女の
両親が出払っていて、その日の夕飯を2人でつくることにした。
2人とも料理とか、あまり作ったことが無くて、二人でスーパーに行って
ステーキ肉とか、彼女が「作れる」というホウレンソウのホワイトソース煮
の材料とか、そういうものをざっと買ってきた。
二人で仲良く作って、いざ食べてみると、両方とも美味しくなかった。
そのとき、無神経だった俺はまず、自分の焼いたステーキからはじめに
手をつけた。
あんまりおいしくないけど、本当はおいしいって言えばよかったんだけど
まずくもない彼女の料理を、「まずい」って言っちゃった、
せっかくつくってくれたのに、俺の馬鹿。

彼女とはその後もよく喧嘩をして、泣かせてしまった。
別れる日、彼女は「もしあなたに新しい彼女が出来たら、その子の
手料理は、一番最初に箸をつけてあげてね」って言われた。
その後、新しい彼女が出来て、言うとおりに彼女の作ったものを
一番最初に箸をつけるようになって、おいしくなくても「おいしい」
っていうようになった俺。
でも、出来ることなら、あの彼女が作ったホウレンソウのホワイトソース煮を
また食べたい


492 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/27(木) 08:48

妻と結婚する前の話。
共に家族と同居していて、とにかく一緒に住みたくて結納だけ
した。そして二人でアパートを捜し、2週間位かけて二人だけで
少しずつ荷物を運び込んだ。電気と水道は使えたけど、ガスはまだ
使えなかった。毎日仕事が終わってから一緒に生活用品を買いに
行って、それを片づけながら近くのスーパーで買った弁当を
食べ、それぞれの自宅に帰る生活を送っていた。
ある日の晩、いつものように新居に行くとなにやらいい匂いが
充満している。日中休みを取っていた彼女が、電子レンジを購入
し、肉じゃがを作って待っていてくれたのだ。
早速スーパーで白飯を購入し、電子レンジの箱をテーブル代わりに
して、二人で食卓を囲んだ。すげえうまかった。よく味のしみてる
ジャガイモをハフハフしながら食った。食いながら本当にいい女に
巡り合った幸せを噛み締めてた。絶対に幸せにしてやろうと思った。
晴れて夫婦になって、完全に生活出来る今でも、あの電子レンジの
箱だけは捨てていない。
二人の間でなにかあったら、俺はきっとあの箱を持ち出してきて
妻に言うだろう。
「肉じゃが作ってくれよ。そしてこの上で食おうよ。」と。


506 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/04/30(日) 05:47

うちは夫が出張勝ちで、いつも四才の息子と二人殆ど母子家庭状態。
実家は車で一時間弱だけど、姉夫婦と二世帯建てて私はカヤの外って勝手に思ってたから
誰にも頼れない、がんばらなくちゃって思ってた。
ある日私40度近い熱出してどうしてもおきられなくて、もともと少食の息子は朝から
昼くらいまでひとりで遊んだりテレビみたりしてた。
はっと気がつくと夕方、私の隣には息子が布団に入り込んで一緒にねていて、
そばには食パンの空き袋とピーナッツバターとスプーンがころがってた。
なんだか息子がかわいそうで、自分もかわいそうで悲しくて泣いた。
今考えたら意地張らないで素直に誰かに頼れば良かったんだけどね。
ピーナツバターをみると思い出して、つい息子をむぎゅっとしてしまう。


533 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/08(月) 06:33

幼稚園の頃実家でやってる仕事の取引先に
母親といっしょにいったことがある

母親はその会社の入り口のところで
じっとしてなさいってきつくいったけど
待っても待っても母親は帰ってこない
それで急に一人でいるのがこわくなってその会社のなかで母親を探しはじめた
なんでかわからないんだけど社員とはすれ違いもしなくて
灯りもついてなく薄暗い、天井が凄く凄く高くて
ガラーンとした廊下をとぼとぼ歩いてると
もしかして自分は捨てられてしまって
もうここで一人ぼっちなんじゃないかと思えてきた
もう皆とも大好きな坂本先生ともあえなくなったんだとおもったら
そうしたらなんだか鼻の置くがツーンとして涙がでてきて
でも泣くのがかっこ悪いと思ってたから必死に我慢して

そうしてずっと歩いてたら掃除のおばあちゃんに出会った
そのおばあちゃんがどうしたのって声をかけてくれたらもう我慢ができなくって
訳がわからなくなってそのおばあちゃんにしがみついて大声で泣いてしまった
そんな困った子供をそのおばあちゃんは頭を優しく撫でてくれて
泣き止むまでずっとそうしてくれた
それから紙コップに入ったコーラと食パンを手渡してくれて
そのころコーラが辛くて飲めなかったんだけどすごくおいしく感じられて
それをのんだらものすごく心が落ち着いたのを憶えてる

もうあのおばあちゃんの顔も覚えてないけど
抱きついたとき感じた作業服の匂いとあのときのコーラの味はまだ憶えています


536 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/08(月) 19:21

家庭の事情により、バスで幼稚園に通っていたことがあります。
バスは幼稚園バスではなく市営バス、周りは朝を急ぐ大人で一杯。
当時4歳の私にはみんなが誘拐犯に見え、座ることもできず
泣き続けていました。
やっとついたバス停にはかならず祖父母がいて、祖父は大きな
逞しい胸で泣きじゃくる私を抱き締め、なだめ、3人で手をつないで
幼稚園に行っていました。幼稚園が終わると、祖父母の住むアパート
に行き、夜まで過ごしていました。
私をかわいがってくれた祖父母が、たまに『特別』といって買って
くれたお菓子があります。デパートの食品売り場にあった、何g
何円という、回るワゴンに乗ったお菓子です。
好きなのを買いなさいと祖父母が見守る中、決まって買うのは
風船に入った丸い羊羹。羊羹といっても、今思うと子供騙しの味で、
なのに大好きでした。
あの時間の事を思うと、いつも笑っていたように思います。

その後幼稚園にバスで通わなくなり、祖父母と一緒に住む
ようになったのですが、祖父母と両親の間には、お金のからんだ
大人の事情というものがあり、いつも殺伐とした空気が流れていました。
私は徐々に祖父母に甘えることはなくなり、冷たい態度さえとる
ようになっていました。
その後祖母が他界し、しばらくして私は進学の為家を出ました。

たまに帰郷すると、祖父が小さくなっているのです。大きなはずの
胸は痩せ、足は驚く程細く、強かった足腰は今では杖を使う程です。
いつも涙ながらに私の帰郷を喜び、小さな私が泣きながら抱き着いて
いた話しをします。今がどうであろうと、冷たい態度をとってしまっても
祖父にとって私はいつまでも小さな女の子です。
今度帰ったら、祖父とたくさん話をしたいです。いつまでも長生きして
いつか私が産む(かもしれない)曾孫も可愛がってください。


537 名前: にゃん 投稿日: 2000/05/08(月) 21:52

おととしの、秋の話しです。
私が小学校5年の時に家をでて、居場所のわからなかった母に、
祖母の葬式の時、23年振りで、顔をあわせました。
その時、母の家に遊びに行く約束をしました。

その日は、私が料理を作りました。
ハンバーグと肉じゃがと、簡単なサラダです。
2人で食事をして、お酒を飲んで、
はじめはあたりさわりのない話しをしてましたが、
だんだん、「何故いなくなったのか?」という話しになりました。
母はたんたんと話します。
私も、母がつらくならないように、途中、冗談を入れながら、
聞きました。

帰る時、「今日はおかあちゃん、なんもできひんかってごめんな。」と、
言ったので、私は「ほな、残ったごはんで、おにぎり作って」と言いました。
母は、「そんなんで、ええんか」と笑いながら作ってくれました。

帰り、駅からタクシーに乗りました。
今日のことを思い出しているうちに、不覚にも涙がててきました。
運転手さんがびっくりして、「気分悪いんか?」と
聞かはりました。私は、
「いえ、なんか、嬉しくって、泣けてきちゃったんです」と、
泣き笑いしながら、運転手さんに、今日の事を短く話しました。
すると、運転手さんも一緒に泣き出してしまいました。
「よかったな、よかったな」と鼻水まですすってました。

家に持って帰ってきたおにぎりは、冷凍庫にいれて、
元気のない日に、1コづつ、大事に大事に、食べました。


539 名前: 僕もひとつ、半年前に別れた彼女のことを。名無しさん 投稿日: 2000/05/09(火) 09:12

彼女は、ほんとになにも料理ができない人だった。
あまりに何もできないので、「肉じゃがってのはこうやって
作るんだぞ」なんて、僕のアパートで作り方をおしえていたくらい。
3年くらい付き合っていて、僕は一足先に社会人になっていた。
彼女はまだ学生。僕はマスコミ関係の仕事に就いたこともあって、
なかなか会えないことも多かった。でも、僕は将来は結婚しよう、
と密かに考えていたんだけどね。

ある日、将来のことを話していて、自分の進路をちゃんと考えていない彼女に、
かなり厳しいことを言ってしまった。電話口で泣き崩れる彼女。
僕は、変に社会人として先輩風をふかしていたんだと思う。
その場はなんとか収めたけれど、しこりが残ってしまったような感じだった。

そして数日後の早朝、突然に彼女は急にアパートへ押しかけてきた。
そんなことは今まで無かったのでびっくりしていたけど、なぜか彼女はゴキゲンで、
「いっしょに朝ごはんを食べよう」と、
彼女はコンビニのおにぎりとカップ味噌汁を取り出した。
僕は、おいおいコンビニのおにぎりかよ、と思いつついっしょにおにぎりを食べた。
夜遅くまで帰れない僕といっしょの時間を過ごすには、これしかなかったし…。

でも、それから2か月もしないうちに、彼女から別れ話が出た。
僕の方も、うすうすと感づいていたので、驚きはしなかった。でも、
ただただ、悲しくてポロポロと泣いてしまったのを覚えている。

彼女、つらかったんだろうな…たぶん、あの日は眠れなかったんだろうな…
無理に明るく振る舞ってたんだろうな…
徹夜で仕事中、コンビニのおにぎりを食べると、あの日を思い出して泣けてきます。
そんなときは「クソッ、彼女が料理できたら、仕事中に泣かずに済むのに」と、
一人で強がって気を紛らわせています。


546 名前: ナナ 投稿日: 2000/05/12(金) 00:08

中三の時つきあってた彼女と、彼女の友達の家に遊びに行った。
で、ただダベったり漫画読んだり音楽聴いたり。
それは一見幸せそうな時間だったけど、
彼女を友達にとられたような気がしてちょっとふてくされて、
ベッドでごろんと横になってた時、その友達が、
「お腹すいた」と言い出した。すると彼女が、
「あ、クッキー焼いてきたんだよ。食べる?」
…まさに、寝耳に水。
でもそこで飛び起きるのはプライドが許さない。
些細な事なんだけど、いっそうその友達に嫉妬して、
「声をかけられるまで待とう、自分から行くものか」と意地になった。

二人がクッキーを食う音が落ち着いた頃起きあがって、
置いてあるクッキーに気づかないフリしてた。
その時もまだ、「声をかけられるまで」と思ってた。
でも結局その声がかけられる事はなくて、そのまま二人で帰った。
三枚くらい残ったクッキーは、
置いていったのか、彼女が包んで持って帰ったのかは覚えてない。
帰り道は、平静を装ってたけど、不安で不安でしょうがなかった。
ホントに俺の事が好きなのか?と(笑)。

思い出せば出すほどガキくさい思い出だけど、
先にも後にも彼女の手料理に触れられる機会はなかった。
「おいしーい」という友達の声と
「さくっ、さくっ」という音を聞きながら、
まぶたを閉じていた俺を今から叩き起こしに行きたいくらいだ。
ホントにもったいないことしたなぁ…。食いたかった…。


541 名前: 俺も泣いている 投稿日: 2000/05/09(火) 21:37

今日も残業の夜だけど、少し疲れてきたらこのスレッドを
読んで深夜まで頑張る事にしてる。
優しくも哀しくせつない気持ちになる。
別れたあの子は元気だろうか。
今、誰の声を聞いて暮らしているのだろうか、と。

お前の手料理をずっと食いたかった。
あの手料理を、もう食べる事は出来ないんだな。

お前のサラダがとても好きだった。
あのレシピを、お前から教わった通りに作っているけれど
お前のようには上手く作れない。

あのサラダを作る度に思う。
いつか俺が幸せになった時に、あの味は再現出来るのだろう。
今、俺は同じ場所で、独りで頑張っている。
あのサラダの味の再現はまだ遠い先のようだ。



575 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/05/17(水) 03:07

7、8年前中国に旅行に行ったときの話。

あるホテルの食堂でいくつかの料理と「青竹なんたらかんたら」と
あるスープを頼んだ。中華は最後にスープがくるので、ほかの料理を
食べたあと待っていたのだが、30分近く待ってもなかなかこない。

あの国はサービスが適当で、いろいろな料理屋でずいぶんと
待たされることがあり、そのとき入ったところでも「どうせサボって
いるんだろ」と日本人的・厨房的感覚で馬鹿にしていた。

40分ほど待って、ようやくスープがきた。お盆に竹筒がのっている。
大きなどんぶりに入ってくるスープを予想していたのだが、
「あれっ」と意外な感じがした。竹筒に竹のふたがしてあり、
それをとろうと竹筒をつかむと、とても熱い。あちあち言いながら
ふたを取ると中にスープが入っている。どうやら、竹の中に材料を入れて
延々あつあつになるまで蒸したらしい。竹筒は陶器と違い熱の伝わりが
悪いだろうから、時間がかかるはずだ。瞬間、それまでの自分の考えを反省
した。さすが、食にこだわる国だ。

味は、中華風コンソメともいうような感じで、牛肉の小さな塊とねぎ、
香ばしい木の実が入っており、全部食べ終わってから「もう一度同じ
時間まつからおかわり」というくらいのおいしさだった。

たかだかそれだけのことだが、いっぱいのスープに「自分の浅はかな
考えや経験だけで世の中をつかもうとするなよ」と教えられたような
気がした。それ以来、料理を待つということに関してはたいがい
腹を立てないようになった。


625 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/23(火) 07:39

いいスレッドですね。私もひとつ思い出しました。
私が高校生の頃。放送部員だった私は、その日放送室で校内放送の
制作をしてました。アナウンスをしてたら、もう3月だというのに、
両手が真っ青で冷たくなるのです。おかしいなあと思いながら、
部活を終え、寒くはなかったのに手をあっためたくて紙袋に5つも
たいやきを買って帰りました。そこのたいやきは、あんこがいっぱいで
大好きだったんです。家に着くと人だかりが。
とりあえず母親を見つけ事情を聞いたら、おばあちゃんが死んだとのこと。
つい3時間程前に、畑で抜いた大根を洗いに川へ入って溺れて死んだって。
その頃って、私の両手が真っ青になってた頃じゃん・・・。
とにかく驚きと混乱でふらふら自分の部屋へ行き、何をしていいのか分からず、
とりあえずたいやきを必死で食べた。むせながら、味とかもわからんくて、
4個めぐらいでたいやきが、塩っぽくなり、食べ終えたあとぼおっとしてたら
たいやきの入ってた紙袋がいい匂いで、あったかくって、それでやっと泣けた。
そのおばあちゃんは、小さい頃いっしょに住んでたけど、
嫁であるうちの母親に追い出されてしまった人で、気性の荒い母によく
しかられていた私をかばって、また母にいじめられてしまう人でした。
私は今でも、おばあちゃんは放送室の私に、死ぬ前に会いにきて、
手を握っててくれたんだと信じています。
そしてたいやきを見ると、いろんなことを思い出します。
特に、茶色の紙袋入りの。


640 名前: さらら 投稿日: 2000/05/24(水) 14:08

父は大酒のみで、酒を飲むと人格の変わるひとだった。
だから近所でも評判が悪く、ちいさかった私はお酒を飲んだ父にすごくつらくあたった。
父は料理が非常にうまく、本当においしかった。
働かない父は、毎日料理を作ってくれていた。
でも高校になった私は、料理を作るよりも、普通の家庭のように
父に働いてもらいたかった。恥ずかしいと思っていたから。
ある日、いつものようにお酒を飲んで朝から寝ていた父は「水をくれ」と言った。
お酒を1週間くらいぶっつづけで飲んだ後、きまってその後1週間くらい毎日吐くのだ。
それが父のお酒の飲み方だった。
学校へ行く私宅をしていた私は、ぞんざいにペットボトルに水道水を入れ、
父の横に置いた。そしてそのまま、学校へ行った。
その日の父は、唸り声がなんだか変で、でもそれを気にしていたら
遅刻してしまうと思う、気にしないようにして、家を出た。
家に帰ると父は亡くなっていた。
私の家は、働いている母と、父と私だけの家庭で、誰も看取ることもできないまま、
たたひとりで亡くなってしまっていた。
父が、ドクターストップのために、数年前から働けない体だと、亡くなったあとで知った。
働きたくても働けず、お酒に頼るようになってしまたのだと。
そういえば母は一度も父を軽蔑するようなことを言うことはなかった。
あの時気がついて、私が救急車を呼んでいれば、こんなことにはならなかったはずだ。

父が毎日作ってくれた料理の恩を、たった一杯の水ですら返すことができなくなってしまった。
あの時、口に水を含ませてあげればよかったと、今も後悔している。


669 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/05/30(火) 21:28

初めて付き合った彼氏がわたしの部屋に初めて遊びに来たとき。
普段のわたしは照れくさくて世間で言われてる「女の子らしい」部分は出来るだけ
見せないようにしていた。でもお腹が空いたのでご飯を作ることになった。
料理は嫌いだったが人並みには作れたわたし(小さい頃からやらせられていた)。
でも緊張で失敗するのは嫌だったので無難なカレーを作った。

「いいよなぁ。。こういうのって。。」台所に立つわたしをうしろで目を細めて
見ていた彼。。恥ずかしかったけど嬉しかった。
この彼は「お前は食ってる時と眠ってる時は女の子だよなぁ。。」とも言ってた。
当時は食が細かったので(ついでにそれなり痩せてもいた・笑)。
あのね、胸が詰まって沢山食べられなかったんだよ(笑)。


673 名前: 名無しちゃん 投稿日: 2000/05/30(火) 23:54

小学5年生のとき、同じクラスの女の子の母親が自殺してしまった。
そのときは、みんなびっくりしたんだけど、
しばらくたったら、みんなそのことは忘れかけてた。
そして6年生の遠足の時、その子が持ってきたお弁当は
焼き鮭(切り身まるごと)だけが挟まったサンドイッチだった。
もちろんパンは普通の食パン。
私は、そのサンドイッチをみたとき、何も言葉が出なかった。
ふだん、からかったりしてふざけてたけど、
そのことは気づかない振りをしなければならないと思った。
そして、自分がいつも当たり前に母親にお弁当を作ってもらえる
ことを、本当に感謝した。
今でもあの鮭のサンドイッチの事をたまに思い出します。


731 名前: 名無しさん 投稿日: 2000/06/06(火) 19:40

子供が幼稚園の時、インフルエンザウィルスによる「急性脳症」にかかった。
担当医から「脳圧が高くて脳波はほとんど反応してない。植物状態か死亡のケース
も多い。助かったとしても重度の脳障害が残る場合もある。」と宣告され、
すぐに親族を呼ぶように言われて動転した。
意識のない長男は、ベッドに横になったまま身動きひとつとれなかった。
入院中付き添いをしていた私に夫が差し入れをしてくれたけれど何も食べる気になれなかった。
でも私まで倒れたらだめだと思って無理やり押し込んだ。
好物を食べても全く味がしなかった。私の感覚も麻痺したみたいだった。
やっと意識不明の状態を脱して、少しずつ流動食を与えられるようになった。
表情や反応のない長男にほんの少しのオモユを口にいれる。反射で飲みこんでいる
ので「食事」というよりは機械的な作業のような感覚に似ていた。
元気だった頃大好きだった「コーンポタージュ」を少し入れてもいいかと担当医に
相談してオモユに入れてあげてみる。
1口目、、、2口目、、、、3口目をあげた時、長男の口元がちょっぴり動いた。
かすかだったけれど、笑ってくれた。脳症になってから初めての反応だった。
「おいしかったんだ。良かったね。」涙がとまらなかった。
私も残りのコーンポタージュを飲んでみた。おいしかった。
1か月ぶりで味覚が戻ってきた。


800 名前: 思い出に残す食事 投稿日: 2000/06/10(土) 14:13

毎日仕事が忙しい。両親と同居だが、朝食も夕食も俺だけ別に食べてる。
土日も遊びに行っちゃったり、ごはんより睡眠を優先したりして、
あまり一緒に食べていない。
今日の昼飯は、久々に3人で食卓を囲んだ。
メニューはごくごく普通の、母親の料理。しょうが焼きとか味噌汁とか。
ちょうどテレビでは「伝説の寿司屋」みたいな番組をやっていて、
すごいマグロやイクラが次々と映って「おいしそう。でも高いわねー」
「近所の魚屋のと、ほんとにそんなに違うのか?がははは」
なんて、たわいもない会話をしながら食べた。
でも、俺は「今のこの昼飯のほうがうまいや」と思いながら、
もりもり食べた。
いつか、この平凡な風景も、思い出になっていくのかな、と思いながら。




  
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他も色々作るけど、この3つだけは子供が産まれた時からの定番。
ケーキは誕生日とかに「買っていい?」って聞くけど、必ず手作りさせられる。
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毎回スレの選出にセンスありすぎる
♯23229
スレ開けない…
♯23230
>>673
あんた、いい子だな・・・
♯23233
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今でも、忘れられない、親に感謝
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