【セピア】今思い出しても切なくなる思い出
1 - 名前:おさかなくわえた名無しさん [] 投稿日:2005/05/19(木) 21:04:29 ID:euUs4wy/
小学生の時、父親と共同作業で木の椅子を作るという行事があった。
俺の父はトラック運転手で普段家で会うことが少なかったけど、
その日は一緒に参加してくれたんだ。
もともと手先が器用な親父は明らかに他の人よりもうまく椅子を作り
上げていった。もちろんそれは担任の目にも止まって、最後に皆で
集まった時に俺は
「素晴らしいのが出来たけど感想は?」
って聞かれたんだ。
俺は親父が誇らしくって、すごく嬉しかったのに、ついウケを狙って
「ほとんど何もさせてもらえませんでした~w」みたいな事を
言ってしまった。会場はドッと笑い声が起きたけど、ふと親父を見ると
すごく寂しそうな顔してた…。
あの時の事思い出すとなんか胸が苦しくなる。
5 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/19(木) 21:17:54 ID:mWnHuIa2
高校の頃、親と喧嘩しプチ家出。一晩中フラフラして海で朝を迎えた時。
煙草吸いながら、一人で日の出を見てたら泣けてきた。
親の事は決して嫌いじゃなかったけど、反抗期ってやつだったんだよなぁ。
9 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 22:26:28 ID:SaO1tj6/
転校したての学校で遠足があり、
友達が誰もいないままだった自分はたった一人でお弁当を食べた。
「一緒に食べるみんなと分け合ったりしたら?」と母が言って
多めに入れてくれたイチゴを全部自分で食べた。
食べ終わった後、それに気が付いた先生が
「ごめんね、気が付かなくてごめんね」と言って泣きべそをかいた。
こっちの方が泣きたいよ!と思った。
家に帰ったら母親が「みんなと仲良くお弁当食べられた?」と聞いてきたので「うん」とウソをついた。
それなのに、後日、家庭訪問に来た担任が
「遠足の時、私が至らないばかりに、一人でお弁当を食べさせてしまった」
と謝るつもりで暴露した。
そしたら母親が泣いた。それを見て自分も泣いた。担任も泣き出した。
12 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 22:48:45 ID:z41Cw73D
>>9
泣ける。自分も一つ。
高校3年の時、母親が入院してしばらく父親の2人きりの生活となった。
亭主関白な父だが、母がいないとほんと何も出来なくて家の中は荒れ放題だった。
もちろん食事も外食か買ってきた惣菜ばかり。
ふと、「早く母さんの手料理が食べたい」と独り言のつもりで言ったのだが、
それを気にしたのか次の日は父がカレーを作っていた。
ルーが完全に溶けておらず、固まりも入っていたが、すごく美味しかった。
美味しそうに食べる姿を見ながら、「母さん早く帰ってくるといいな」と普段は
絶対言わないような事を話した父の顔が忘れられない。
あの時の事は何故か鮮明に覚えてて、
悲しい出来事じゃないけど切なくなる。
14 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 22:54:16 ID:dNvI4bRd
高校卒業して仲の良かった皆がバラバラに、それぞれの道を進む時。
3月の終わり、次は皆で集まるのもだいぶ先だからと海でキャンプした。
まだまだ寒かったけど、誰一人眠ろうとせず、昔の事、恋の話、将来、色んな事話し合った。
「親友」って言葉を恥ずかしげもなく言えたあの頃。
25 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 02:20:06 ID:OaC0Wk3R
七夕の笹飾りに「おねえちゃんにあいたい」って書いたあの日。
その数日後に会えたのは嬉しかった。神様が本当にいるって思ってた。
でも、それきり会ってない。
離婚により離れ離れになった姉弟を不憫に思いなんとか都合つけて会わせてくれたんだよな、父親は。
母親は再婚しちゃった。
見たことの無い妹もいるそうな。
姉さんだけは元気でやっていてくれたら、嬉しいけどな。
もう、あんなに純粋な頃には戻れないんだな、哀しいね。
29 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 10:44:32 ID:eBB6KTml
一人暮らしを始めて初めて風邪を引いた時、
仕事を早退させてもらって帰ってずっと寝ていた。
そんな時携帯に母親からの着信が…。
話をするのもしんどかったので、そのまま放っていたら数十分後、
インターフォンが鳴り、出るとそこには息を切らせた母親が立っていた。
ここ数日ずっと調子が悪く携帯に出ていなかったのだが、
心配になって来たのだと話す母に自立するつもりで一人暮らしを始めたのに全然自立出来ていないような気持ちになってしまい、
「人が体調悪くて寝てるんだから、いちいち起こすな!」と怒鳴り追い帰してしまった。
その後、無性に自分が情けなくって、許せなくって、一人で泣いた。
母さん、あの時ごめん。
33 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 19:41:51 ID:zneSBDx9
すごく好きだった彼女に振られて、しばらく経ったある日…
デパートでエレベータを空けた瞬間に彼女が目の前にいた。向こうは携帯をいじっててこっちには気づかなかったけど、一瞬時が止まったよ。
その直後ドア閉めるボタン連打して結局向こうは気づかずじまいだったけど。当時まだ未練たらたらだったんだよな。
何かドラマみたいなことってほんとにあるんだなぁ~なんて思いながら、あの時の事を思い出すと切ない。
60 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/29(日) 01:32:14 ID:N1lD+QjQ
初孫だった私を、母方の祖父はものすごく可愛がってくれていたそうだ。
だが、遠くに住み、年に1度会うか会わないかだったので、私にとっては、
おじいちゃんとは分かりながらも、人見知りしてしまう存在だった。
祖父は私に会いたさに、時々こっちに遊びに来たが、私はたまにしか
会わない馴染みの薄い(と思っていた)祖父の愛情が理解できず、
なんとなく重荷に思えてしまい(おじいちゃんごめん)、甘えたりも
しなかった。
成長するにしたがい、私もそれなりに祖父に甘えたりするようになったけど、祖父を好きというよりも、母や祖母へのポーズでもあり、
そうしなくては悪いような気がしていたから。
私が19の時に祖父が亡くなった後、遺品を整理していたら、私の写真がゴロゴロ出てきて(母が送っていたらしい)
すべての写真の裏に私に宛てたメッセージがあった。
私はなんてひどい孫だったんだろう。涙が止まらなかった。
65 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/29(日) 02:49:37 ID:i+6Tm4Of
父親が入院した時のこと。
病気自体は「死ぬ病気じゃない」って言われてたが、
入退院を繰り返してた。
当時は社会人1年生で覚えることも多い上に仕事が忙しく、土日にも仕事をしてるのが普通。
母親からも「お見舞いに行きなさい」と言われても「忙しいからいやだ」とか抜かして泣かれる始末。
いいじゃん、死ぬわけでもなし……と思いながら
しぶしぶ兄貴夫婦につき合って見舞いに行ったんだけど、
頭の中は「早く帰って仕事の続きしなきゃ」ということばかり。
帰り際に親父が少し寂しそうに「また来てくれよな」と言った。
頭の中では「忙しいんだからそんなこれねえよ」と思いながら振り向きもせずに「ああ、うん」と適当な返事。
でもその後で容態が急変して親父は意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となってしまった。
後で聞いたら院内感染してしまい、それが致命的になってしまったらしい。
最後の会話があんなに素っ気ないものになるなんて。
いまでも後悔してる。もっとちゃんと話していればよかった。
77 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/06(月) 00:20:48 ID:qd450DMA
昨日高校生の頃の夢を見た。
2年に進級する際のクラス替え、皆が何かそわそわしてた。
俺ももちろん例外なく。
実際のあの頃はサボってばっか、停学にもなったし、留年もしそうになった。毎日くだらないと思ってた。
けど、夢の中の俺はすごく楽しそうだった。
起きた時に何故か涙が出ていた。
…どうしてあの時もっと色んな事に挑戦しなかったんだ。どうしてもっと一生懸命になれなかったんだ。
こんな事今更考えてもどうしようもないのに・・・
81 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/06(月) 10:39:13 ID:ccpMpctf
2年前、食品売場に勤めてた頃
2日間だけアルバイトで来てた一つ年上の大学生と知り合った
その時俺の番号を教え、飲みに誘った。
飲みのあとも頻繁にメールや電話をするようになり
俺は徐々に惹かれていった
知り合ってから一ヵ月後
俺は我慢できず告白するために彼女を電話で呼び出す
俺「今日は呼び出してゴメン」
彼女「・・・話しって何?」
俺「○○のこと好きなんだけど、付き合ってくれないか?」
彼女「・・・」
しばらく沈黙が続いた
突然彼女が涙を流し、俺に向かって言った
彼女「ゴメン・・・××とは友達感覚だったし、今恋愛より
友達と遊んでるほうがいいから・・・」
俺「そっか・・・」
俺も泣きたかった
ふられた後も連絡を少しだけ取った
すると彼女は卒業できるかどうか微妙らしい
忙しい時期に告白してしまったことをちょっとだけ後悔
3月に卒業できたよとのメールがきた
俺はおめでとうとメールをやる
それから返事もない。
94 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/23(木) 00:02:30 ID:PSVazzD9
友達と好きな人が被ってしまい、結局友情を選んだ。
卒業式の日、ボタンを貰いに行きたいから付いてきてと言われた。
雨で私が支えた傘の下でボタンが渡されてた。
悔しくて切ねぇーっ
96 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/27(月) 00:52:28 ID:Omoxv8o1
生まれて初めて告白し、振られた時の事を思い出すと切なくなる。
直接告白する勇気もなくて、電話することにしたんだけど、
それでも出来ないもんだから友達2人に横にいてもらって・・・
後日手紙が来て、そこで振られたけど、何か切なさと初めて告ったっていう充実感があって自分で変な感じだった。
今から考えると、あの頃が一番純粋だったなぁ…。
何もなかったけど、何よりも変えがたい思い出ばかりだよ。
130 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/07/11(月) 01:29:33 ID:kQ7SFo0J
思い出というには最近の出来事だが。
彼の家は今両親が別居中。
幼い頃も母親はご飯を作らなかったみたいで
手料理を食べたことがあんまりないらしい。
うちは家庭不和ではないものの、母親が料理が壊滅的に下手くそで
父が文句を言って以来滅多に作らなくなった。
ある日彼の家で一緒に私の作ったご飯を食べてたら彼が急に泣き出した。
「こんなおいしいご飯初めて食べた」と。
私は、ご飯はいつも一人で食べてたので食卓を囲うのに感動。
二人でわんわん泣きながらたべましたとさ。
別にフツーの料理だったんだがな。
145 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/07/23(土) 06:04:26 ID:w7jDdrQH
生涯最高の恋をした。
「いつもあなたを想っています。
あなたを想わない日はありません」とメールした。
なのに相手を思い出さない日が来てしまった。
自分自身を裏切ってしまったような気がしてせつない。
154 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/03(水) 20:45:49 ID:7gHMmjSK
昔の彼女と別れる一週間前。
いつものように土曜の夜お泊りして、
日曜は1日中2人で海見ながらぼ~っとしてた。
別にお互い何も喋らなくてもよくって、彼女に膝枕されながら
「幸せだなぁ~」って思ってた。
その時は彼女も同じような事考えてるんだと思ってたけど、あとから考えるとその時はもう既に別れる事考えてたんだろうな…と。
最近3年ぶりくらいにその当時の夢を見てしまい、
起きた時無性に切なくなった。
157 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/05(金) 18:03:11 ID:o40SFHwK
すごく仲の良かった幼馴染のA子ちゃんが、
小学2年生の時に、関西に引越す事になりました。
僕は別れるのがイヤで、引越しの前日は泣きっ放しだったそうです。
(自分は覚えてないが、両親の証言より)
引越し以降の僕の落胆ぶりに心配した両親が、
A子ちゃんとの文通を薦めてくれました。
その後、二十歳になるまで彼女との文通は続きました。
僕が成人式を終えて帰宅すると、居間に両親と女性が一人、真剣な面持ちで座っていました。
最近でこそ写真交換をしていませんが、
間違いなくA子ちゃんではないですか!
あまりの嬉しさにその場の空気も忘れてはしゃいでいると、父が悲しい目をして、おちついて聞くようにと僕を嗜めたのです。
それはとても信じられない話でした。
あのA子ちゃんは、引越して間もなく事故で亡くなっていたのです。
今、目の前にいる女性はA子ちゃんの2つ上のお姉さんでした。
当時両親は、文通を始めて元気を取り戻しつつある僕にこの悲報は残酷だと気遣い、いつきり出そうかと悩んでいたそうです。
しかし、亡くなったはずのA子ちゃんから文通の返信があり、その相手がお姉さんだと知って、その好意に甘えてしまったとの事でした。
その頃のお姉さんも妹の死を受け入れ難く、僕への手紙を妹に成り代わって書くことで気を紛らわせていたのだと、泣きながら謝っておられました。
今の僕には充分理解できる事で、両親やお姉さんを責める事は出来ませんでした。
奇しくも翌日がA子ちゃんの命日だという事で、慌てて彼女の実家を訪れたのを覚えています。
今から10年前の出来事です。 長文駄文お許しください。
169 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/14(日) 14:21:26 ID:W8shggzy
うちの爺ちゃんは80歳直前まで現役バリバリの大工。
愛想の良い方ではなく、いつも気難しい顔をしていた。
笑った顔を見た記憶も殆どない。
うちの妹はなぜかそんな爺ちゃんに懐いていてよく旅行に一緒に行ったりしていたが、私はそんなに仲良くしていたわけではなく、爺ちゃんも私に対しては厳しかった。
姉弟で爺ちゃんに殴られたことがあるのは私だけだ。
夏休みで実家に帰った。
もうだいぶ体の自由が効かなくなって、
寝たきりまでもうちょっとっていう爺ちゃん。
私の顔を見て凄く嬉しそうに笑った。
爺ちゃんのこんな顔を見るのは初めてだ。
「いつもムーっとしとるのに珍しくこんなに笑っとるわい。
よっぽど嬉しいんやな」
と婆ちゃんが言った。
幼い頃、私に厳しく当たったのも愛情だったんだと痛感した。
爺ちゃんのあの笑顔はもう絶対忘れられない。
爺ちゃんも婆ちゃんも、正月に帰るまで元気でいてね。
186 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/30(火) 23:45:15 ID:YaDG/PL7
私の部屋(生まれる前は応接室だった)にずっと母の本棚がある。
母が集めている推理小説とか過去にもらった本とかがたくさん入ってて、
私は特に本棚の中を開けてみたり触ったりもしなかった。
数年前、ちょっと捜し物をしていて母の本棚を探っていたら
「○○小学校」と書かれた母の母校の小学校の古い文集があるのが目に止まった。
好奇心だけで「どんなくだらないこと書いてたのかな~♪」って読んでみたら
他の子(母の同級生)は家族で旅行をして楽しかったとか、遠足で
みんなで遊んだ思い出とかを書いているのに対して母の作文だけタイトルが「おとうさんの入院」だった。
読むのをためらうタイトルだったけど読んでみると
「私のお父さんが入院しました」
から始まって小学生の子供が書いたとは思えないほどの深刻な内容がそこに・・・
読み終わる頃には涙が止まりませんでした。
おじいちゃん(母の父)は病気で母が高校生の時に亡くなったんだけど、とても苦労したんだなぁと思った。
私は父と仲が悪くケンカばかりしてて母が
「お父さんになんてこと言うの!お父さんを大切にしなさい」
と言うことの意味がその時やっとわかりました。
気づくのが遅かったかもしれないけど、
これからも両親を大切にしていきたいと思う。
192 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/01(木) 04:44:04 ID:Y2NUbbzo
幼少時代の話をします。
高級菓子カステラは憧れでした。
しかし、貧乏だったウチに
そんなものを買うお金はありません。
でも、あるボクの誕生日
母がパンの耳を・・・
霧吹きでしめらせて砂糖をかけて作ってくれたのです。
母「ごめんね、こんなカステラしか・・・」
しかし、
こともあろーにボクは
ボク「こんなの、カステラじゃねーや!」
なぜこんなことをしてしまったのか、わかりません・・・
ただ、うなだれてそれを拾う
母の後姿だけが印象的でした・・・
今では三食カステラを食べられるようになったものの
あの時のパンの味・・・
まずかったこと、まずかったこと・・・
せめて一口だけでも
母にカステラを食べさせてあげたかった・・・
200 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/02(金) 00:05:30 ID:UnsURPnq
中学生だった夏休み、近所の公園で行われた夏祭りに出かけ、
そこで浴衣姿のクラスの女子に出会った。
髪をアップにし、普段見慣れた制服姿とは違う格好にドキッとした。
だけど俺は照れ臭さを紛らすため、吐き捨てるように言い放った。
「ブスが何着たって似合わねぇよ!」
あれから20数年が経ち、夏が来て街角で浴衣姿の子たちを見るたび、
あの時の彼女たちの悲しげな顔が想い浮かび、切なくなる。
今だったらちゃんと言えるのに...
「かわいいね。似合っているよ。」
203 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/02(金) 02:05:18 ID:UWQrEH+N
小6のときの話
ちょうど反抗期を迎えていた俺は、
母に対していつもババァなどと言っていた。
だけど母はいつも優しくて、俺をいつも心配してくれていた。
いつもの様に学校に行くとき、家の外から窓をみると、
母が「いってらっしゃい!」と笑顔で手を振っていた。
どうしようもないガキだった俺は、うるさいと母を睨んだ。
そして学校から帰り、家の前で「今日は悪いことをしたな」と思い
いつもは無言で家に入るのに、その時は
「ただいま!」と元気よくドアを開けた。
家に母はいなかった。ずっと待っても帰ってこない。
夜になって父が帰ってきた。
俺が「お母さんは?」と聞いたら「交通事故で……死んじゃった」と一言。
もの凄く後悔した。
謝ることもできなかった。最後の会話、というかやりとりがあんな形になってしまって、本当に悲しかった。
文才なくてスマン
228 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/07(水) 02:20:51 ID:04p2dmsJ
消防の頃、俺達の遊び場は近所の公園だった。
そこに結構な頻度で「おじさん」がいて、
ベンチに座ってこっちを眺めてたんだ。
何がきっかけかは覚えてないが、
「おじさん」と仲良くなった俺達は時々「おじさん」と遊んだ。
でも「おじさん」はすぐ疲れちゃって、サッカーもすぐぬけるし逆上がりもできなかった。
「年だからなあ」と笑いながらベンチに戻っていく後ろ姿は、本当にただのおっさんだった。
ある日リフティングをしていたら、珍しく「おじさん」が熱中した。
日が暮れるまで一緒にいた。
始めはボールを落としまくっていて、「おいおいしっかりしろよ」といぶかしんでいた俺達も、汗まみれになりながら22回までできるようになった
「おじさん」をすごいと思うようになっていた。
ただのおっさんがガキに混じって真剣にリフティングしてるなんて、周りからしたら滑稽な光景だろう。
でも、「おじさん」は真剣だった。そのことが俺達を感動させたんだと思う。
23回目でボールを落とした「おじさん」に駆け寄って「おじさんすげーよ!」とみんなで言った。
「おじさん」は「そうか、すごいか」といつもより嬉しそうに笑った。
俺達は「おじさん」に敢闘賞として当時流行っていたドラクエのバトル鉛筆をあげると「ありがとな」と言って「おじさん」は帰っていった。
次の日から「おじさん」は公園に来なくなった。
「おじさん」はヤクザで、あの翌日に抗争相手の組の事務所に拳銃持って乗り込んで刑務所送りになった、ということはしばらく後に知った。
新聞にも載ったらしいが、文字ばかりだったことしか覚えていない。
「おじさん」は公園で遊ぶ俺達を眺めて何を思ったのだろうか。
あんなに一生懸命リフティングをしながら何を考えていたのか。
22という数字は俺にとってお守りみたいなものだ。
244 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/13(火) 00:55:55 ID:lyOCs7pZ
小学生の頃の親父の給料日、母親と市内に買い物に出る約束してて
学校終わってから速攻家に帰ったんだけど、親父の給料があまりにも少なくて今月どうやって生活しようと考えていたみたい。
そんな事情は全然知らない俺は
「約束破んな!」などと次々に罵声を浴びせた・・・
そしたら普段は絶対人前では泣かない母親が泣いてしまって・・・
「ごめんね」と繰り返しながらふだんよりも
高いおやつを出してずっと謝ってた。
子供心ながらに言わない方がよかったと思った、
しばらくはそのお菓子食べられなかった。。。
何故かこの時の光景は忘れようにも忘れられない・・
母さん、あの時はごめん。
300 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/03(月) 00:09:37 ID:YCTU4cm3
小学校の時、一年から六年生まで
生徒全員で同じ場所に遠足に行った。
お昼になってみんな仲良しグループでお弁当を食べていたんだけど
三歳上の兄が一人でお弁当食べているのを見つけた時は
なんとも言えない気持ちになった。
307 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/04(火) 23:55:50 ID:cwJAVoIm
小学生の時、3人グループで仲良くしていた。
ある日、課外授業の時に
二人が私よりも少し離れた場所で
「ねぇ、○○ちゃんの事(私の事)好き?」
「ううん。好きじゃない。」って会話を聞いてしまった。
心臓がぎゅーって苦しくなった。
次に二人が慌てたような声で
「ねえ、今の聞こえた?」って大きな声で聞かれた。
「ううん。聞こえないよ。」って咄嗟に答えていた。
聞こえてたよ。ほんとはね。
352 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/19(水) 00:39:37 ID:y1jvdbLh
就職して東京に住み始めた頃、会社の帰りに
都内に一人で住んでいるお婆ちゃんの家に寄ることになった。
親に「たまにはお婆さんちに遊びに行ってあげなさい」と言われてたからで
半分は楽しみ、あと半分は「面倒くせーなー」という気持ちだった。
「今夜行くからねー」と電話して、それから買い物や軽くハンバーガーなんか
食べて電話のあと2時間ぐらいしてからお婆ちゃんの家に着いた。
お婆ちゃんはおれの電話をすぐ近くの駅からだと
勘違いしたようだった。
電話のあと大急ぎで、おれが子供の頃大好きだったという
カタヤキソバを出前で注文してくれて、一人でずっと待ってた。
おれが着いたときはすっかり冷めてしまい、
お婆ちゃんはコタツでポツンと座って待ってた。
それから5年後にお婆ちゃんは病気で亡くなったが
結局その後は2回ぐらいしか行かなかっただろうか・・・
とても都会的な冗談好きなお婆ちゃんだったが
今思うと何度も遊びに行けば良かったと後悔してる。涙出てきた。
379 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/27(木) 09:03:24 ID:aHtvLfgp
幼稚園からずっと好きだった女の子がいて小5の時に初めて隣の席になれた。もう天にも昇るような気持ちで学校が楽しくてしかたなかった。
しかし、席替えから2週間後くらいに目が悪い彼女は
先生に頼んで前の席に移動することに・・・。
授業中に「あの字なんて書いてあるの?」って聞かれるが
すごく好きだったのに。
「俺のこと好きだったら席動くはずないよな・・・」って、その時はもう死にたくなるくらい落ち込んだ。
それから1年過ぎ、6年生も終わりに近づいたとき、(その子とは住む地域から別の中学に行くことは前からわかっていた)
家庭科の授業で
「出来上がった作品を異性のクラスメイトに評価してもらいなさい」
と先生がクラスのみんなに言った。
クラス中が微妙な空気になった。
事実上の告白大会みたいな雰囲気となって、
内心みんな騒然としていたに違いない。
そして俺に「ねぇ○○、私のお願い!」と言ってきたのは紛れもない、
その彼女だった。
「!!???」内心びびりまくって、手もガタガタ震えるのとは裏腹に、
「あ~『よくできました。』っと」
と非常に舐めた態度で適当な評価を用紙になぐり書きしてしまった。
それを見た彼女は「もういいよ!○○には頼まないよ!」と
涙目で走っていってしまった。
クラスでは「誰々が何ちゃんに書いてもらってた!」という感じに
幼いながらも恋愛ムードに染まっていたが、俺はそんな流れに全く乗ることもなく隣の席のイジメられていた女の子に声を掛けて、すごく丁寧に作品を評価してあげたのを憶えている。(敢えて「あげた」と書く)
別に今では、そんなに間違ったことしてないとは思うけど、その時は
「なんでこんな偽善ぶったことは堂々とできるのに、本気で好きな子には親切にしてあげられなかったんだろう・・・」
ってすごく嫌な気持ちになっていたのを憶えている。
524 名前:おさかなくわえた名無しさん:2006/01/04(水) 23:12:57 ID:c0WemYy5
うちの母は酒が入るとよく抱きついてきたりキスしてきたりするんだが、ある日、いきなり抱きついたまま泣きだして
「ごめんね、あんたがこんな風になったのはママが悪いんだよね」
「○○(自分)ばっかりこんな風に病気になって可哀想」
と繰り返した。
私は昔から肌の色素が抜けてしまう病気にかかっていて(右足しか抜けてないけど)、最近は虫刺されから始まるアレルギーで腕に痕がいくつも残ったりしていた。
どちらもたしかに見た目は気持ち悪いものかもしれないが、人に移る病気ではないし自分自身自分を可哀想だと思ったことなどなかった。まわりの友人も病気のことは理解したうえで普通に接してくれている。
何より普段不必要な程明るくて、
「ったくあんたがこんないくつも病気になる所為で金かかるわー」
などと笑い話にするような母が、内心そんな風に思っていたのかと思うと情けないやら腹立たしいやらで涙がでた。
今でも思い出すと切なくなる。スレチだったらすまない。
556 名前:おさかなくわえた名無しさん:2006/01/17(火) 10:12:41 ID:1XXtxs85
2年前、高校の卒業式の二日後に親父が死んだ。
癌だった。
元々仕事人間で、甘いものが好きで、いくら禁煙しろと言ってもトイレで隠れて吸う様な煙草好き。(弟が便所に「禁煙」と紙を貼っていたが)
そんな親父が入院をして、煙草も吸わなくなって仕事もままならなくなって・・・ついに寝たきりになった。
母に介護されてるのを見るのが切なかったけど、寝たきりのベッドの隣で食べるご飯は親父が元気なころと同じ味で皆笑っている食卓だった。
ある日親父が寝ている部屋に行くと、母が笑いながら私に目配せをした。
入るのをためらっていると親父が母を口説いているところだった。
言うだけ言って寝た親父の顔を見ながら、
母が泣きながら「何か思い出してるんだよねぇ」と言っていた。
私の卒業式には出れたけど、弟の卒業式には出られなかったうちの親父。
今も実家に帰省するときは好物の
シュークリームとセブンスターをお土産にしている。
606 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/05(日) 00:30:01 ID:HjmO0Vj8
前に冠婚葬祭にも書いた気がするんだけど。
15年前、母親の大の親友が40代の若さで亡くなった。白血病だった。
一周忌をその人の家でやったとき、場を仕切っていた母はずっと楽しそうにしていた。
周りの人とおしゃべりをして、よく通る大声で笑ったりもしていた。
まだ小さかった私はバカで、それを見て
「どうして笑ってるの!ひどい!」
と怒ってしまった。母親はそれでも
「あはは~、そうだよね、ごめんねw」
と笑っていて、私はそれをまた不愉快に思った。
後に、母親がどんな気持ちでそう振る舞っていたか気づいたとき、
「何てことを言ってしまったんだ、ひどいのは自分だったんだ」
と凄く泣けてきた。
だいぶ経ってから母親に謝ったんだけど、これ書いてる今も思い出すと涙が滲む。
608 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/05(日) 01:06:17 ID:vKHeSxtS
私が中学二年になりたての頃。
学校から帰ると、普段は放任主義の母親が、私の部屋の掃除をしていた。
勝手に部屋に入られた恥ずかしさも手伝って、散々母を罵倒して部屋から追い出した。
母は済まなそうにして、小さくなっていた。
その母が2か月後に胃癌で入院し、そのまま年を越せずに亡くなった。
もしかしたら、自分が死ぬ事を母は知っていて、最後の意味を込めて、掃除してくれていたのかなあと思うと、切なくなる。
今でも母のごめんねって言った時の寂しい顔が忘れられない。
632 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/07(火) 22:51:59 ID:KB8I0tOV
オーガスってアニメ覚えてる奴いるか?
タイトルうろ覚えだが、とにかく、その主役ロボのプラモを父親に買って貰ったんだ。
母は厳しかったんだが、父親はパチンコで勝つと、こっそり好きなものを買ってくれてた。
ただ、小学生には作るの難しすぎて、せっかく買って貰ったのに父親に逆ギレしたんだ。
親父も「そんなん文句言うなら捨てる!」と箱ごとゴミ箱いき。
で、俺は泣きつかれてフテ寝。
あくる朝、机の上に完成品が、、、
父親がこっそり作ってくれたんだ。
638 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/15(水) 01:23:08 ID:9Mf74mm2
高校卒業時のアルバム。
高三の時、行く大学も決まっていたある日、父親が吐血した。
そのまま入院。静脈瘤破裂だった。
入院費で一気に借金地獄に。
大学進学を諦めて就職。
幸い卒業前に内定もらった。
アルバムにはみんなからの寄せ書き。
「諦めるな、夢は絶対かなうから」
受験ではライバルだったけど、みんな私の行く末(?)を心配してくれていた。
けどうつ病で三年間入院生活。
そのせいで貯金もない。
けど夢を諦めきれなくて今も追い続けている。
みんなが書いてくれた寄せ書きをたまに見ると切なくなる。
688 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/26(日) 02:12:48 ID:gWADPtQM
4年前に亡くなった高校時代の恩師が忘れられない。
無理目な大学を受けることを母は渋っていたが、先生は「お母さん、やらせてあげましょうよ!」と
力強く言ってくれた。母親も、あの一言を今も覚えていると言ってた。(結果は合格)
先生の影響もあり教師を目指すようになって、採用試験に落ち続け企業に勤務して数年目に、
地元に残っている友達が「先生がもう長い間入院している」と電話をくれて、
それじゃあ次に帰省する時には一緒にお見舞いに行こうと話した数日後、先生は亡くなった。
癌だった。
高校生の私と、教育実習生の両方の私を知る先生はもう誰も居ないんだと思ったら
大声をあげて泣いてた。高校生の私を誰かに覚えてて欲しかったのかもしれない。
あんなにすばらしい人が何故こんなに早く逝くんだろう、不公平だ、とか色々なことが
頭をめぐったのを覚えてる。
今ようやく、教師として3回目の春を迎えようとしているけれど、採用されたことを
一番に報告したかった人はもう居ない。
もっと頑張って、もうすこし早く試験に受かって報告したかった。
先生の好きな言葉は「一期一会」、ちゃんと覚えてるよ。
それから、先生、私、教師になったよ…。
746 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/17(金) 18:46:02 ID:z8RdM83D
長文すみません
大学入試の時、私は地元の大学に行きたかったんだけど母と父が県外に行けと言って止まなかった
理由はいろんな人に出会えることと一人暮らしで良い経験が出来るから。らしい
当時の私は彼氏や友達と離れるのがすごく嫌で県外に「行かされる」という感覚だった。
県外の大学生活も終わりに近づいてそろそろ就職内定が当たり前の時期になっても内定が出ず、このまま就活を延長することになった
卒業式の日、母がわざわざ実家から出てきてくれた。
卒業式が終わって母を駅まで送りに行く途中の車の中で
「地元で就活しないの?一人暮らしはお金がかかるし真面目に就活できないよ?実家に帰らない?」
と言われた。私は内定が出ない苛々で
「本当は最初から県外の大学なんて行きたくなかった!地元に行かせたのはあんたらじゃん!」
と言ってしまった。
母は少し静になって
「…でも、楽しいこともあったでしょ?」
と言った。その時の母の顔が忘れられなかった。
本当は楽しい事いっぱいあったし自分らの生活苦しくしてまで仕送りしてくれてた事、感謝していたのに。
駅でお母さんを見送った後一人になった家で号泣した
779 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/29(水) 00:07:13 ID:S88QMf+g
去年の夏、うちの母が勤めているスーパーの露店で
ディ○ニーのバッタもんみたいなTシャツを色違いで3枚買ってきた。
そして、たまたま親戚の叔母に焼肉に行こうと誘われていて
行くことになっていたんだけど、母が
「みんな(母・私・妹)でおそろいで着ていこう!」と言い出した。
妹は賛成して喜んで着てたけど私はデザインもダサいし、
地元の焼肉屋だから知り合いに会うかもしれないからと思って
ダサい格好で行きたくないために別の洋服を着ていった。
すると出かける間際に母はすごく寂しそうな顔で
「○○ちゃんは着てくれなかったんだ・・・やっぱりお母さんが買ってきた
Tシャツなんてダサいから着たくないよねぇ(笑)」と言った。
この時「しまったーーー!」と思ったけどもう待ち合わせの時間。
着替える時間もなくそのままの格好で・・・
後日そのTシャツを着て出かけようと、着ていたら母は
「わぁ!○○がディ○ニーのTシャツ着てくれた~嬉しい~」
と子供のようにはしゃいでいた。
ディ○ニーのじゃないんだけどね・・・w
今でも大切に着ています。
782 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/29(水) 00:58:35 ID:37qSAmlm
俺のばぁちゃんは毎年冬になるとマフラー編んで贈ってくれてた。
俺はマフラー巻くのってあんまり好きじゃないし、ちょっと恥ずかしいのもあって
巻くことはなかった。でも毎年新しいのが届くのな。
一人暮らし始めて何年も経つと結構な本数になっちゃったんだけど、相変わらず
タンスの肥やしにしてた。
で、去年の冬、ばぁちゃんが死んじゃった。
知らせを受けて、実家へ向かおうとアパートを出た時、マフラーのことを思い出した。
あぁ俺結局一度もばぁちゃんのマフラー巻かなかったんだ…って。
一度でもいいから巻いて実家へ帰って「ありがとう」って言っておけば良かった…って。
慌ててアパートに戻ってばぁちゃんのマフラーを巻いて、実家へ向かった。
北海道の真冬なので凄く寒かったんだけど、ばぁちゃんのマフラーは暖かかった。
やっとありがたみがわかったのに、もう見せる相手がいなくなっちゃった、って思ったら
涙が止まらなくなった。
785 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/31(金) 00:19:40 ID:OsdaZ7eR
私の両親の実家が同じ市内にあったため、田舎がない。
父の実家なんて徒歩20分と近い場所になる。
小・中学生の頃、夏休みになると友達は地方の田舎に行ったりするのに
うちは田舎ないから地方に出かけたりもしたことないし、
親戚同士家が近いから何かっていうとみんなで集まるのが嫌だった。
大人が集まると大抵私の噂話になるし、両方のおじいちゃんが
私が生まれる前に亡くなってたのもあって、その分おばあちゃんが
ことあるごとに洋服買ってくれたり、いろんなもの買ってくれたり
正直そういうのさえウザかった時期があった。
周りから「大きくなったのにまだおばあちゃんっ子?」と思われたくなかった。
高校受験で推薦で受けた高校に受かって親戚一同喜んでくれたけど
メッチャ遠いし行きたい高校じゃなかったから、お祝いの電話がきても
「あ~はいはい、ありがとうございます」って感じだった。
高校の入学式の日、口から心臓が飛び出そうなほど緊張して眠れなかった。
なのに早朝5時に父方のおばあちゃんが
「○○ちゃんに渡したいものがあるから今すぐ取りに来て」
と叔父さんを通じて電話がかかってきた。
その日の私は緊張でピリピリしていて、なんでこんな早朝に?
そんなの入学式終わってからだっていいじゃん?と怒った。
母が「おばあちゃんが言うんだから」って車で速攻
取りに行ったのも、こんな時に!と思って腹立たしかった。
でも、母がおばあちゃんちから持ち帰ってきたものは、
昭和っぽい古いデザインの小さ目の重箱に入った、
おばあちゃん手作りのお赤飯だった。
おばあちゃん、入学式だと知って夜中に餅米やら小豆を準備し
わざわざ朝早くから時間かけてセイロで蒸してくれたらしい。
(炊飯器の使い方わからないから)
もうそのお赤飯見た瞬間大泣きして涙が止まらなかった。
おばあちゃんウザイなんて思ってごめんなさい。
それ以来、お赤飯見るたびに思い出す。
806 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/02(日) 21:29:46 ID:ZIvUhb1B
どこかに出かける途中らしい車の中、私は助手席に母に
抱かれて座っていたが、頭の上で両親が激しく口論していた
何を言っているのか判らなかったけど、まるで機関銃の
打ち合いのように罵り合っていたのけは覚えてる。
車が停車すると、母は私を運転席の父の膝の上に放り投げ
ると「そんなに欲しけりゃあげるわよ!こんな子!」と言って
ドアを閉めるとどんどん去っていった。
訳が判らないままに、とても悲しく恐ろしくて大声で泣いて
母を追って自動車から出ようとしたけど、ドアが開かない
まま父が車を発車した。
産みの母とはそれが最後の別れだったよ。
後から母には借金癖があり、離婚でもめていた時に最終的に
私を父が引き取る事で借金を全て父が肩代わりする、と話し
合ったのに最後まで渡す渡さないで、もめたらしくその時の
記憶だと思う。
別にその後の私の人生が不幸だった訳でなく、父や親族は
優しかったし、金銭的にも苦労無く大人になって結婚もしたよ
でも、私の母の記憶はあの罵り合っている声だけ、顔も殆ど
覚えていない、写真の母はゲバくていやだ
きっと優しい顔や声で接してくれた事もあっただろうに、何で
最後にあんな記憶を残していったのか?今は行方すら判らない
母の記憶は父に放り投げた、あの時の母の姿だけです。
あの時私は2歳でした。
862 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/10(月) 00:16:49 ID:rEaza3Ar
うち最初に飼った犬が死んだ時。
ペット霊園の火葬場で火葬してもらって、隣の控え室で待ってたら
火葬場の人が「いま火を入れました」って言いに来て間もなく
窓から見える煙突から、大きな煙がモクモクモクと空に昇っていって
うちの母がポツリと
「あぁ・・・○○(犬の名前)天国に昇って行ったねぇ・・・」
と言ったら今まで泣いたこともない父までが泣き出して、
それ見てみんなで泣いたこと。
905 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/17(月) 12:47:49 ID:NM6QoebQ
小学生の頃、母親が入院していた時期があった。
それが俺の遠足の時期のちょうど重なってしまい、
俺は一人ではおやつも買いに行けず、
戸棚にしまってあった食べかけのお茶菓子とかをリュックに詰め込んだ。
そして、夜遅くオヤジが帰宅。
「あれ・・・明日遠足なのか」と呟き、リュックの中を覗き、しばし無言。
もう遅かったので、俺はそのまま寝てしまった。
次日、リュックを開けて驚いた。
昨日詰めたおやつのラインナップがガラリと変わっている。
オマケのついたお菓子とか、小さなチョコレートとか・・・
オヤジ、俺が寝てからコンビニ行ったんだな。
俺、食べかけの茶菓子でも全然気にしてなかったんだけどさ。
あの時、オヤジがどんな気持ちでコンビニへ行ったかと思うと、
少し切なくなる。
907 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/17(月) 15:11:35 ID:K/rXGDPW
遠足話に便乗。
小一の頃、家に帰ったらかーちゃんがいない。
親父がDQNのアル中で、かーちゃんが水商売で家計を支えていたため、
昼間はいつも家にいるのが当たり前だったから、無人の家が不安でたまらなかった。
恐る恐る家に入ると、テーブルの上に書置きが。
「おばさんのいえにいってきます。えんそくのおかねかりてくるから、しんぱいしないでね」
子供心にも貧乏が辛くて泣いてたら、昼間っから酔っ払った親父が帰ってきた。
また仕事サボって呑んでたんだろうな。
泣いてる俺が鬱陶しいと蹴り飛ばされて、その弾みで腕を骨折。
勿論、遠足にはいけなかった。
せっかくの借金は、全部治療費に。
かーちゃんに悪くてな。
遠足のたびにそれ思い出して、心から楽しめたことがない。
921 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/18(火) 06:49:24 ID:AzRsah45
私が幼稚園ぐらいの時の話。
それまで仕事以外の事でパソコンを使わなかった母が、
ぬりえみたいなものを印刷して私と姉にプレゼントしてくれた。
姉と私のは柄が違っていて、姉は花束、私はパンダ。
花束のほうがよかった私は、「こんなのやだ!」と泣いた。
とりあえず白&黒で塗ってみたけど、全然楽しくなかった。パンダだし。
腹が立った私は、母が風呂に入っている時、風呂の戸の下のほうにある
換気用の隙間からパンダの紙を中に投げ入れた。
風呂から出てきた母は悲しそうに「ごめんね。」と言った。
水浸しになっているパンダをどんな気持ちで拾ったのかを考えると、
今すぐごめんね、って言いに行きたくなる。白&黒じゃなくても、
他にもっと塗り方があったのに。
小学生の時。母と父が離婚するかしないかで、家の中は大変だった。
私が学校から帰ると、トラック運転手の父が珍しく帰っていた。
机にうつぶせになっていて、ビールの入ったコップが倒れていた。
ビールのしみ込んだランチョウマットを引っ張ると私にきずき、
「ん、おお、お帰り」と言ってくれた。いつもの顔で。
流れ豚切り&長文ごめん。思い出して切なくなった。
427 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/11/08(火) 08:11:37 ID:JSyGxVO8
死んだ母が入院する前、私がおろおろと何が食べたいか尋ねたら
果物とこたえたので、早朝に近くのコンビニへ。
果物詰め合わせパックを買おうとしたら店員のおじさんが
「それは熟れすぎたやつだからやめたほうがいいよ」
と言って他の物(最初のより高価)と交換、かなりおまけしてくれた。
嬉しくて家へと急いだなぁ。母に話したらすごく嬉しそうに食べてくれたけど、結局吐き戻してしまい涙目で「ごめんね、ごめんね」って謝られた。
母が食べた最後の物だった。
小学生の時、父親と共同作業で木の椅子を作るという行事があった。
俺の父はトラック運転手で普段家で会うことが少なかったけど、
その日は一緒に参加してくれたんだ。
もともと手先が器用な親父は明らかに他の人よりもうまく椅子を作り
上げていった。もちろんそれは担任の目にも止まって、最後に皆で
集まった時に俺は
「素晴らしいのが出来たけど感想は?」
って聞かれたんだ。
俺は親父が誇らしくって、すごく嬉しかったのに、ついウケを狙って
「ほとんど何もさせてもらえませんでした~w」みたいな事を
言ってしまった。会場はドッと笑い声が起きたけど、ふと親父を見ると
すごく寂しそうな顔してた…。
あの時の事思い出すとなんか胸が苦しくなる。
5 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/19(木) 21:17:54 ID:mWnHuIa2
高校の頃、親と喧嘩しプチ家出。一晩中フラフラして海で朝を迎えた時。
煙草吸いながら、一人で日の出を見てたら泣けてきた。
親の事は決して嫌いじゃなかったけど、反抗期ってやつだったんだよなぁ。
9 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 22:26:28 ID:SaO1tj6/
転校したての学校で遠足があり、
友達が誰もいないままだった自分はたった一人でお弁当を食べた。
「一緒に食べるみんなと分け合ったりしたら?」と母が言って
多めに入れてくれたイチゴを全部自分で食べた。
食べ終わった後、それに気が付いた先生が
「ごめんね、気が付かなくてごめんね」と言って泣きべそをかいた。
こっちの方が泣きたいよ!と思った。
家に帰ったら母親が「みんなと仲良くお弁当食べられた?」と聞いてきたので「うん」とウソをついた。
それなのに、後日、家庭訪問に来た担任が
「遠足の時、私が至らないばかりに、一人でお弁当を食べさせてしまった」
と謝るつもりで暴露した。
そしたら母親が泣いた。それを見て自分も泣いた。担任も泣き出した。
12 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 22:48:45 ID:z41Cw73D
>>9
泣ける。自分も一つ。
高校3年の時、母親が入院してしばらく父親の2人きりの生活となった。
亭主関白な父だが、母がいないとほんと何も出来なくて家の中は荒れ放題だった。
もちろん食事も外食か買ってきた惣菜ばかり。
ふと、「早く母さんの手料理が食べたい」と独り言のつもりで言ったのだが、
それを気にしたのか次の日は父がカレーを作っていた。
ルーが完全に溶けておらず、固まりも入っていたが、すごく美味しかった。
美味しそうに食べる姿を見ながら、「母さん早く帰ってくるといいな」と普段は
絶対言わないような事を話した父の顔が忘れられない。
あの時の事は何故か鮮明に覚えてて、
悲しい出来事じゃないけど切なくなる。
14 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/20(金) 22:54:16 ID:dNvI4bRd
高校卒業して仲の良かった皆がバラバラに、それぞれの道を進む時。
3月の終わり、次は皆で集まるのもだいぶ先だからと海でキャンプした。
まだまだ寒かったけど、誰一人眠ろうとせず、昔の事、恋の話、将来、色んな事話し合った。
「親友」って言葉を恥ずかしげもなく言えたあの頃。
25 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 02:20:06 ID:OaC0Wk3R
七夕の笹飾りに「おねえちゃんにあいたい」って書いたあの日。
その数日後に会えたのは嬉しかった。神様が本当にいるって思ってた。
でも、それきり会ってない。
離婚により離れ離れになった姉弟を不憫に思いなんとか都合つけて会わせてくれたんだよな、父親は。
母親は再婚しちゃった。
見たことの無い妹もいるそうな。
姉さんだけは元気でやっていてくれたら、嬉しいけどな。
もう、あんなに純粋な頃には戻れないんだな、哀しいね。
29 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 10:44:32 ID:eBB6KTml
一人暮らしを始めて初めて風邪を引いた時、
仕事を早退させてもらって帰ってずっと寝ていた。
そんな時携帯に母親からの着信が…。
話をするのもしんどかったので、そのまま放っていたら数十分後、
インターフォンが鳴り、出るとそこには息を切らせた母親が立っていた。
ここ数日ずっと調子が悪く携帯に出ていなかったのだが、
心配になって来たのだと話す母に自立するつもりで一人暮らしを始めたのに全然自立出来ていないような気持ちになってしまい、
「人が体調悪くて寝てるんだから、いちいち起こすな!」と怒鳴り追い帰してしまった。
その後、無性に自分が情けなくって、許せなくって、一人で泣いた。
母さん、あの時ごめん。
33 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/21(土) 19:41:51 ID:zneSBDx9
すごく好きだった彼女に振られて、しばらく経ったある日…
デパートでエレベータを空けた瞬間に彼女が目の前にいた。向こうは携帯をいじっててこっちには気づかなかったけど、一瞬時が止まったよ。
その直後ドア閉めるボタン連打して結局向こうは気づかずじまいだったけど。当時まだ未練たらたらだったんだよな。
何かドラマみたいなことってほんとにあるんだなぁ~なんて思いながら、あの時の事を思い出すと切ない。
60 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/29(日) 01:32:14 ID:N1lD+QjQ
初孫だった私を、母方の祖父はものすごく可愛がってくれていたそうだ。
だが、遠くに住み、年に1度会うか会わないかだったので、私にとっては、
おじいちゃんとは分かりながらも、人見知りしてしまう存在だった。
祖父は私に会いたさに、時々こっちに遊びに来たが、私はたまにしか
会わない馴染みの薄い(と思っていた)祖父の愛情が理解できず、
なんとなく重荷に思えてしまい(おじいちゃんごめん)、甘えたりも
しなかった。
成長するにしたがい、私もそれなりに祖父に甘えたりするようになったけど、祖父を好きというよりも、母や祖母へのポーズでもあり、
そうしなくては悪いような気がしていたから。
私が19の時に祖父が亡くなった後、遺品を整理していたら、私の写真がゴロゴロ出てきて(母が送っていたらしい)
すべての写真の裏に私に宛てたメッセージがあった。
私はなんてひどい孫だったんだろう。涙が止まらなかった。
65 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/05/29(日) 02:49:37 ID:i+6Tm4Of
父親が入院した時のこと。
病気自体は「死ぬ病気じゃない」って言われてたが、
入退院を繰り返してた。
当時は社会人1年生で覚えることも多い上に仕事が忙しく、土日にも仕事をしてるのが普通。
母親からも「お見舞いに行きなさい」と言われても「忙しいからいやだ」とか抜かして泣かれる始末。
いいじゃん、死ぬわけでもなし……と思いながら
しぶしぶ兄貴夫婦につき合って見舞いに行ったんだけど、
頭の中は「早く帰って仕事の続きしなきゃ」ということばかり。
帰り際に親父が少し寂しそうに「また来てくれよな」と言った。
頭の中では「忙しいんだからそんなこれねえよ」と思いながら振り向きもせずに「ああ、うん」と適当な返事。
でもその後で容態が急変して親父は意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となってしまった。
後で聞いたら院内感染してしまい、それが致命的になってしまったらしい。
最後の会話があんなに素っ気ないものになるなんて。
いまでも後悔してる。もっとちゃんと話していればよかった。
77 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/06(月) 00:20:48 ID:qd450DMA
昨日高校生の頃の夢を見た。
2年に進級する際のクラス替え、皆が何かそわそわしてた。
俺ももちろん例外なく。
実際のあの頃はサボってばっか、停学にもなったし、留年もしそうになった。毎日くだらないと思ってた。
けど、夢の中の俺はすごく楽しそうだった。
起きた時に何故か涙が出ていた。
…どうしてあの時もっと色んな事に挑戦しなかったんだ。どうしてもっと一生懸命になれなかったんだ。
こんな事今更考えてもどうしようもないのに・・・
81 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/06(月) 10:39:13 ID:ccpMpctf
2年前、食品売場に勤めてた頃
2日間だけアルバイトで来てた一つ年上の大学生と知り合った
その時俺の番号を教え、飲みに誘った。
飲みのあとも頻繁にメールや電話をするようになり
俺は徐々に惹かれていった
知り合ってから一ヵ月後
俺は我慢できず告白するために彼女を電話で呼び出す
俺「今日は呼び出してゴメン」
彼女「・・・話しって何?」
俺「○○のこと好きなんだけど、付き合ってくれないか?」
彼女「・・・」
しばらく沈黙が続いた
突然彼女が涙を流し、俺に向かって言った
彼女「ゴメン・・・××とは友達感覚だったし、今恋愛より
友達と遊んでるほうがいいから・・・」
俺「そっか・・・」
俺も泣きたかった
ふられた後も連絡を少しだけ取った
すると彼女は卒業できるかどうか微妙らしい
忙しい時期に告白してしまったことをちょっとだけ後悔
3月に卒業できたよとのメールがきた
俺はおめでとうとメールをやる
それから返事もない。
94 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/23(木) 00:02:30 ID:PSVazzD9
友達と好きな人が被ってしまい、結局友情を選んだ。
卒業式の日、ボタンを貰いに行きたいから付いてきてと言われた。
雨で私が支えた傘の下でボタンが渡されてた。
悔しくて切ねぇーっ
96 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/06/27(月) 00:52:28 ID:Omoxv8o1
生まれて初めて告白し、振られた時の事を思い出すと切なくなる。
直接告白する勇気もなくて、電話することにしたんだけど、
それでも出来ないもんだから友達2人に横にいてもらって・・・
後日手紙が来て、そこで振られたけど、何か切なさと初めて告ったっていう充実感があって自分で変な感じだった。
今から考えると、あの頃が一番純粋だったなぁ…。
何もなかったけど、何よりも変えがたい思い出ばかりだよ。
130 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/07/11(月) 01:29:33 ID:kQ7SFo0J
思い出というには最近の出来事だが。
彼の家は今両親が別居中。
幼い頃も母親はご飯を作らなかったみたいで
手料理を食べたことがあんまりないらしい。
うちは家庭不和ではないものの、母親が料理が壊滅的に下手くそで
父が文句を言って以来滅多に作らなくなった。
ある日彼の家で一緒に私の作ったご飯を食べてたら彼が急に泣き出した。
「こんなおいしいご飯初めて食べた」と。
私は、ご飯はいつも一人で食べてたので食卓を囲うのに感動。
二人でわんわん泣きながらたべましたとさ。
別にフツーの料理だったんだがな。
145 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/07/23(土) 06:04:26 ID:w7jDdrQH
生涯最高の恋をした。
「いつもあなたを想っています。
あなたを想わない日はありません」とメールした。
なのに相手を思い出さない日が来てしまった。
自分自身を裏切ってしまったような気がしてせつない。
154 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/03(水) 20:45:49 ID:7gHMmjSK
昔の彼女と別れる一週間前。
いつものように土曜の夜お泊りして、
日曜は1日中2人で海見ながらぼ~っとしてた。
別にお互い何も喋らなくてもよくって、彼女に膝枕されながら
「幸せだなぁ~」って思ってた。
その時は彼女も同じような事考えてるんだと思ってたけど、あとから考えるとその時はもう既に別れる事考えてたんだろうな…と。
最近3年ぶりくらいにその当時の夢を見てしまい、
起きた時無性に切なくなった。
157 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/05(金) 18:03:11 ID:o40SFHwK
すごく仲の良かった幼馴染のA子ちゃんが、
小学2年生の時に、関西に引越す事になりました。
僕は別れるのがイヤで、引越しの前日は泣きっ放しだったそうです。
(自分は覚えてないが、両親の証言より)
引越し以降の僕の落胆ぶりに心配した両親が、
A子ちゃんとの文通を薦めてくれました。
その後、二十歳になるまで彼女との文通は続きました。
僕が成人式を終えて帰宅すると、居間に両親と女性が一人、真剣な面持ちで座っていました。
最近でこそ写真交換をしていませんが、
間違いなくA子ちゃんではないですか!
あまりの嬉しさにその場の空気も忘れてはしゃいでいると、父が悲しい目をして、おちついて聞くようにと僕を嗜めたのです。
それはとても信じられない話でした。
あのA子ちゃんは、引越して間もなく事故で亡くなっていたのです。
今、目の前にいる女性はA子ちゃんの2つ上のお姉さんでした。
当時両親は、文通を始めて元気を取り戻しつつある僕にこの悲報は残酷だと気遣い、いつきり出そうかと悩んでいたそうです。
しかし、亡くなったはずのA子ちゃんから文通の返信があり、その相手がお姉さんだと知って、その好意に甘えてしまったとの事でした。
その頃のお姉さんも妹の死を受け入れ難く、僕への手紙を妹に成り代わって書くことで気を紛らわせていたのだと、泣きながら謝っておられました。
今の僕には充分理解できる事で、両親やお姉さんを責める事は出来ませんでした。
奇しくも翌日がA子ちゃんの命日だという事で、慌てて彼女の実家を訪れたのを覚えています。
今から10年前の出来事です。 長文駄文お許しください。
169 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/14(日) 14:21:26 ID:W8shggzy
うちの爺ちゃんは80歳直前まで現役バリバリの大工。
愛想の良い方ではなく、いつも気難しい顔をしていた。
笑った顔を見た記憶も殆どない。
うちの妹はなぜかそんな爺ちゃんに懐いていてよく旅行に一緒に行ったりしていたが、私はそんなに仲良くしていたわけではなく、爺ちゃんも私に対しては厳しかった。
姉弟で爺ちゃんに殴られたことがあるのは私だけだ。
夏休みで実家に帰った。
もうだいぶ体の自由が効かなくなって、
寝たきりまでもうちょっとっていう爺ちゃん。
私の顔を見て凄く嬉しそうに笑った。
爺ちゃんのこんな顔を見るのは初めてだ。
「いつもムーっとしとるのに珍しくこんなに笑っとるわい。
よっぽど嬉しいんやな」
と婆ちゃんが言った。
幼い頃、私に厳しく当たったのも愛情だったんだと痛感した。
爺ちゃんのあの笑顔はもう絶対忘れられない。
爺ちゃんも婆ちゃんも、正月に帰るまで元気でいてね。
186 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/08/30(火) 23:45:15 ID:YaDG/PL7
私の部屋(生まれる前は応接室だった)にずっと母の本棚がある。
母が集めている推理小説とか過去にもらった本とかがたくさん入ってて、
私は特に本棚の中を開けてみたり触ったりもしなかった。
数年前、ちょっと捜し物をしていて母の本棚を探っていたら
「○○小学校」と書かれた母の母校の小学校の古い文集があるのが目に止まった。
好奇心だけで「どんなくだらないこと書いてたのかな~♪」って読んでみたら
他の子(母の同級生)は家族で旅行をして楽しかったとか、遠足で
みんなで遊んだ思い出とかを書いているのに対して母の作文だけタイトルが「おとうさんの入院」だった。
読むのをためらうタイトルだったけど読んでみると
「私のお父さんが入院しました」
から始まって小学生の子供が書いたとは思えないほどの深刻な内容がそこに・・・
読み終わる頃には涙が止まりませんでした。
おじいちゃん(母の父)は病気で母が高校生の時に亡くなったんだけど、とても苦労したんだなぁと思った。
私は父と仲が悪くケンカばかりしてて母が
「お父さんになんてこと言うの!お父さんを大切にしなさい」
と言うことの意味がその時やっとわかりました。
気づくのが遅かったかもしれないけど、
これからも両親を大切にしていきたいと思う。
192 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/01(木) 04:44:04 ID:Y2NUbbzo
幼少時代の話をします。
高級菓子カステラは憧れでした。
しかし、貧乏だったウチに
そんなものを買うお金はありません。
でも、あるボクの誕生日
母がパンの耳を・・・
霧吹きでしめらせて砂糖をかけて作ってくれたのです。
母「ごめんね、こんなカステラしか・・・」
しかし、
こともあろーにボクは
ボク「こんなの、カステラじゃねーや!」
なぜこんなことをしてしまったのか、わかりません・・・
ただ、うなだれてそれを拾う
母の後姿だけが印象的でした・・・
今では三食カステラを食べられるようになったものの
あの時のパンの味・・・
まずかったこと、まずかったこと・・・
せめて一口だけでも
母にカステラを食べさせてあげたかった・・・
200 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/02(金) 00:05:30 ID:UnsURPnq
中学生だった夏休み、近所の公園で行われた夏祭りに出かけ、
そこで浴衣姿のクラスの女子に出会った。
髪をアップにし、普段見慣れた制服姿とは違う格好にドキッとした。
だけど俺は照れ臭さを紛らすため、吐き捨てるように言い放った。
「ブスが何着たって似合わねぇよ!」
あれから20数年が経ち、夏が来て街角で浴衣姿の子たちを見るたび、
あの時の彼女たちの悲しげな顔が想い浮かび、切なくなる。
今だったらちゃんと言えるのに...
「かわいいね。似合っているよ。」
203 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/02(金) 02:05:18 ID:UWQrEH+N
小6のときの話
ちょうど反抗期を迎えていた俺は、
母に対していつもババァなどと言っていた。
だけど母はいつも優しくて、俺をいつも心配してくれていた。
いつもの様に学校に行くとき、家の外から窓をみると、
母が「いってらっしゃい!」と笑顔で手を振っていた。
どうしようもないガキだった俺は、うるさいと母を睨んだ。
そして学校から帰り、家の前で「今日は悪いことをしたな」と思い
いつもは無言で家に入るのに、その時は
「ただいま!」と元気よくドアを開けた。
家に母はいなかった。ずっと待っても帰ってこない。
夜になって父が帰ってきた。
俺が「お母さんは?」と聞いたら「交通事故で……死んじゃった」と一言。
もの凄く後悔した。
謝ることもできなかった。最後の会話、というかやりとりがあんな形になってしまって、本当に悲しかった。
文才なくてスマン
228 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/07(水) 02:20:51 ID:04p2dmsJ
消防の頃、俺達の遊び場は近所の公園だった。
そこに結構な頻度で「おじさん」がいて、
ベンチに座ってこっちを眺めてたんだ。
何がきっかけかは覚えてないが、
「おじさん」と仲良くなった俺達は時々「おじさん」と遊んだ。
でも「おじさん」はすぐ疲れちゃって、サッカーもすぐぬけるし逆上がりもできなかった。
「年だからなあ」と笑いながらベンチに戻っていく後ろ姿は、本当にただのおっさんだった。
ある日リフティングをしていたら、珍しく「おじさん」が熱中した。
日が暮れるまで一緒にいた。
始めはボールを落としまくっていて、「おいおいしっかりしろよ」といぶかしんでいた俺達も、汗まみれになりながら22回までできるようになった
「おじさん」をすごいと思うようになっていた。
ただのおっさんがガキに混じって真剣にリフティングしてるなんて、周りからしたら滑稽な光景だろう。
でも、「おじさん」は真剣だった。そのことが俺達を感動させたんだと思う。
23回目でボールを落とした「おじさん」に駆け寄って「おじさんすげーよ!」とみんなで言った。
「おじさん」は「そうか、すごいか」といつもより嬉しそうに笑った。
俺達は「おじさん」に敢闘賞として当時流行っていたドラクエのバトル鉛筆をあげると「ありがとな」と言って「おじさん」は帰っていった。
次の日から「おじさん」は公園に来なくなった。
「おじさん」はヤクザで、あの翌日に抗争相手の組の事務所に拳銃持って乗り込んで刑務所送りになった、ということはしばらく後に知った。
新聞にも載ったらしいが、文字ばかりだったことしか覚えていない。
「おじさん」は公園で遊ぶ俺達を眺めて何を思ったのだろうか。
あんなに一生懸命リフティングをしながら何を考えていたのか。
22という数字は俺にとってお守りみたいなものだ。
244 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/09/13(火) 00:55:55 ID:lyOCs7pZ
小学生の頃の親父の給料日、母親と市内に買い物に出る約束してて
学校終わってから速攻家に帰ったんだけど、親父の給料があまりにも少なくて今月どうやって生活しようと考えていたみたい。
そんな事情は全然知らない俺は
「約束破んな!」などと次々に罵声を浴びせた・・・
そしたら普段は絶対人前では泣かない母親が泣いてしまって・・・
「ごめんね」と繰り返しながらふだんよりも
高いおやつを出してずっと謝ってた。
子供心ながらに言わない方がよかったと思った、
しばらくはそのお菓子食べられなかった。。。
何故かこの時の光景は忘れようにも忘れられない・・
母さん、あの時はごめん。
300 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/03(月) 00:09:37 ID:YCTU4cm3
小学校の時、一年から六年生まで
生徒全員で同じ場所に遠足に行った。
お昼になってみんな仲良しグループでお弁当を食べていたんだけど
三歳上の兄が一人でお弁当食べているのを見つけた時は
なんとも言えない気持ちになった。
307 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/04(火) 23:55:50 ID:cwJAVoIm
小学生の時、3人グループで仲良くしていた。
ある日、課外授業の時に
二人が私よりも少し離れた場所で
「ねぇ、○○ちゃんの事(私の事)好き?」
「ううん。好きじゃない。」って会話を聞いてしまった。
心臓がぎゅーって苦しくなった。
次に二人が慌てたような声で
「ねえ、今の聞こえた?」って大きな声で聞かれた。
「ううん。聞こえないよ。」って咄嗟に答えていた。
聞こえてたよ。ほんとはね。
352 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/19(水) 00:39:37 ID:y1jvdbLh
就職して東京に住み始めた頃、会社の帰りに
都内に一人で住んでいるお婆ちゃんの家に寄ることになった。
親に「たまにはお婆さんちに遊びに行ってあげなさい」と言われてたからで
半分は楽しみ、あと半分は「面倒くせーなー」という気持ちだった。
「今夜行くからねー」と電話して、それから買い物や軽くハンバーガーなんか
食べて電話のあと2時間ぐらいしてからお婆ちゃんの家に着いた。
お婆ちゃんはおれの電話をすぐ近くの駅からだと
勘違いしたようだった。
電話のあと大急ぎで、おれが子供の頃大好きだったという
カタヤキソバを出前で注文してくれて、一人でずっと待ってた。
おれが着いたときはすっかり冷めてしまい、
お婆ちゃんはコタツでポツンと座って待ってた。
それから5年後にお婆ちゃんは病気で亡くなったが
結局その後は2回ぐらいしか行かなかっただろうか・・・
とても都会的な冗談好きなお婆ちゃんだったが
今思うと何度も遊びに行けば良かったと後悔してる。涙出てきた。
379 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/10/27(木) 09:03:24 ID:aHtvLfgp
幼稚園からずっと好きだった女の子がいて小5の時に初めて隣の席になれた。もう天にも昇るような気持ちで学校が楽しくてしかたなかった。
しかし、席替えから2週間後くらいに目が悪い彼女は
先生に頼んで前の席に移動することに・・・。
授業中に「あの字なんて書いてあるの?」って聞かれるが
すごく好きだったのに。
「俺のこと好きだったら席動くはずないよな・・・」って、その時はもう死にたくなるくらい落ち込んだ。
それから1年過ぎ、6年生も終わりに近づいたとき、(その子とは住む地域から別の中学に行くことは前からわかっていた)
家庭科の授業で
「出来上がった作品を異性のクラスメイトに評価してもらいなさい」
と先生がクラスのみんなに言った。
クラス中が微妙な空気になった。
事実上の告白大会みたいな雰囲気となって、
内心みんな騒然としていたに違いない。
そして俺に「ねぇ○○、私のお願い!」と言ってきたのは紛れもない、
その彼女だった。
「!!???」内心びびりまくって、手もガタガタ震えるのとは裏腹に、
「あ~『よくできました。』っと」
と非常に舐めた態度で適当な評価を用紙になぐり書きしてしまった。
それを見た彼女は「もういいよ!○○には頼まないよ!」と
涙目で走っていってしまった。
クラスでは「誰々が何ちゃんに書いてもらってた!」という感じに
幼いながらも恋愛ムードに染まっていたが、俺はそんな流れに全く乗ることもなく隣の席のイジメられていた女の子に声を掛けて、すごく丁寧に作品を評価してあげたのを憶えている。(敢えて「あげた」と書く)
別に今では、そんなに間違ったことしてないとは思うけど、その時は
「なんでこんな偽善ぶったことは堂々とできるのに、本気で好きな子には親切にしてあげられなかったんだろう・・・」
ってすごく嫌な気持ちになっていたのを憶えている。
524 名前:おさかなくわえた名無しさん:2006/01/04(水) 23:12:57 ID:c0WemYy5
うちの母は酒が入るとよく抱きついてきたりキスしてきたりするんだが、ある日、いきなり抱きついたまま泣きだして
「ごめんね、あんたがこんな風になったのはママが悪いんだよね」
「○○(自分)ばっかりこんな風に病気になって可哀想」
と繰り返した。
私は昔から肌の色素が抜けてしまう病気にかかっていて(右足しか抜けてないけど)、最近は虫刺されから始まるアレルギーで腕に痕がいくつも残ったりしていた。
どちらもたしかに見た目は気持ち悪いものかもしれないが、人に移る病気ではないし自分自身自分を可哀想だと思ったことなどなかった。まわりの友人も病気のことは理解したうえで普通に接してくれている。
何より普段不必要な程明るくて、
「ったくあんたがこんないくつも病気になる所為で金かかるわー」
などと笑い話にするような母が、内心そんな風に思っていたのかと思うと情けないやら腹立たしいやらで涙がでた。
今でも思い出すと切なくなる。スレチだったらすまない。
556 名前:おさかなくわえた名無しさん:2006/01/17(火) 10:12:41 ID:1XXtxs85
2年前、高校の卒業式の二日後に親父が死んだ。
癌だった。
元々仕事人間で、甘いものが好きで、いくら禁煙しろと言ってもトイレで隠れて吸う様な煙草好き。(弟が便所に「禁煙」と紙を貼っていたが)
そんな親父が入院をして、煙草も吸わなくなって仕事もままならなくなって・・・ついに寝たきりになった。
母に介護されてるのを見るのが切なかったけど、寝たきりのベッドの隣で食べるご飯は親父が元気なころと同じ味で皆笑っている食卓だった。
ある日親父が寝ている部屋に行くと、母が笑いながら私に目配せをした。
入るのをためらっていると親父が母を口説いているところだった。
言うだけ言って寝た親父の顔を見ながら、
母が泣きながら「何か思い出してるんだよねぇ」と言っていた。
私の卒業式には出れたけど、弟の卒業式には出られなかったうちの親父。
今も実家に帰省するときは好物の
シュークリームとセブンスターをお土産にしている。
606 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/05(日) 00:30:01 ID:HjmO0Vj8
前に冠婚葬祭にも書いた気がするんだけど。
15年前、母親の大の親友が40代の若さで亡くなった。白血病だった。
一周忌をその人の家でやったとき、場を仕切っていた母はずっと楽しそうにしていた。
周りの人とおしゃべりをして、よく通る大声で笑ったりもしていた。
まだ小さかった私はバカで、それを見て
「どうして笑ってるの!ひどい!」
と怒ってしまった。母親はそれでも
「あはは~、そうだよね、ごめんねw」
と笑っていて、私はそれをまた不愉快に思った。
後に、母親がどんな気持ちでそう振る舞っていたか気づいたとき、
「何てことを言ってしまったんだ、ひどいのは自分だったんだ」
と凄く泣けてきた。
だいぶ経ってから母親に謝ったんだけど、これ書いてる今も思い出すと涙が滲む。
608 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/05(日) 01:06:17 ID:vKHeSxtS
私が中学二年になりたての頃。
学校から帰ると、普段は放任主義の母親が、私の部屋の掃除をしていた。
勝手に部屋に入られた恥ずかしさも手伝って、散々母を罵倒して部屋から追い出した。
母は済まなそうにして、小さくなっていた。
その母が2か月後に胃癌で入院し、そのまま年を越せずに亡くなった。
もしかしたら、自分が死ぬ事を母は知っていて、最後の意味を込めて、掃除してくれていたのかなあと思うと、切なくなる。
今でも母のごめんねって言った時の寂しい顔が忘れられない。
632 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/07(火) 22:51:59 ID:KB8I0tOV
オーガスってアニメ覚えてる奴いるか?
タイトルうろ覚えだが、とにかく、その主役ロボのプラモを父親に買って貰ったんだ。
母は厳しかったんだが、父親はパチンコで勝つと、こっそり好きなものを買ってくれてた。
ただ、小学生には作るの難しすぎて、せっかく買って貰ったのに父親に逆ギレしたんだ。
親父も「そんなん文句言うなら捨てる!」と箱ごとゴミ箱いき。
で、俺は泣きつかれてフテ寝。
あくる朝、机の上に完成品が、、、
父親がこっそり作ってくれたんだ。
638 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/15(水) 01:23:08 ID:9Mf74mm2
高校卒業時のアルバム。
高三の時、行く大学も決まっていたある日、父親が吐血した。
そのまま入院。静脈瘤破裂だった。
入院費で一気に借金地獄に。
大学進学を諦めて就職。
幸い卒業前に内定もらった。
アルバムにはみんなからの寄せ書き。
「諦めるな、夢は絶対かなうから」
受験ではライバルだったけど、みんな私の行く末(?)を心配してくれていた。
けどうつ病で三年間入院生活。
そのせいで貯金もない。
けど夢を諦めきれなくて今も追い続けている。
みんなが書いてくれた寄せ書きをたまに見ると切なくなる。
688 :おさかなくわえた名無しさん:2006/02/26(日) 02:12:48 ID:gWADPtQM
4年前に亡くなった高校時代の恩師が忘れられない。
無理目な大学を受けることを母は渋っていたが、先生は「お母さん、やらせてあげましょうよ!」と
力強く言ってくれた。母親も、あの一言を今も覚えていると言ってた。(結果は合格)
先生の影響もあり教師を目指すようになって、採用試験に落ち続け企業に勤務して数年目に、
地元に残っている友達が「先生がもう長い間入院している」と電話をくれて、
それじゃあ次に帰省する時には一緒にお見舞いに行こうと話した数日後、先生は亡くなった。
癌だった。
高校生の私と、教育実習生の両方の私を知る先生はもう誰も居ないんだと思ったら
大声をあげて泣いてた。高校生の私を誰かに覚えてて欲しかったのかもしれない。
あんなにすばらしい人が何故こんなに早く逝くんだろう、不公平だ、とか色々なことが
頭をめぐったのを覚えてる。
今ようやく、教師として3回目の春を迎えようとしているけれど、採用されたことを
一番に報告したかった人はもう居ない。
もっと頑張って、もうすこし早く試験に受かって報告したかった。
先生の好きな言葉は「一期一会」、ちゃんと覚えてるよ。
それから、先生、私、教師になったよ…。
746 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/17(金) 18:46:02 ID:z8RdM83D
長文すみません
大学入試の時、私は地元の大学に行きたかったんだけど母と父が県外に行けと言って止まなかった
理由はいろんな人に出会えることと一人暮らしで良い経験が出来るから。らしい
当時の私は彼氏や友達と離れるのがすごく嫌で県外に「行かされる」という感覚だった。
県外の大学生活も終わりに近づいてそろそろ就職内定が当たり前の時期になっても内定が出ず、このまま就活を延長することになった
卒業式の日、母がわざわざ実家から出てきてくれた。
卒業式が終わって母を駅まで送りに行く途中の車の中で
「地元で就活しないの?一人暮らしはお金がかかるし真面目に就活できないよ?実家に帰らない?」
と言われた。私は内定が出ない苛々で
「本当は最初から県外の大学なんて行きたくなかった!地元に行かせたのはあんたらじゃん!」
と言ってしまった。
母は少し静になって
「…でも、楽しいこともあったでしょ?」
と言った。その時の母の顔が忘れられなかった。
本当は楽しい事いっぱいあったし自分らの生活苦しくしてまで仕送りしてくれてた事、感謝していたのに。
駅でお母さんを見送った後一人になった家で号泣した
779 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/29(水) 00:07:13 ID:S88QMf+g
去年の夏、うちの母が勤めているスーパーの露店で
ディ○ニーのバッタもんみたいなTシャツを色違いで3枚買ってきた。
そして、たまたま親戚の叔母に焼肉に行こうと誘われていて
行くことになっていたんだけど、母が
「みんな(母・私・妹)でおそろいで着ていこう!」と言い出した。
妹は賛成して喜んで着てたけど私はデザインもダサいし、
地元の焼肉屋だから知り合いに会うかもしれないからと思って
ダサい格好で行きたくないために別の洋服を着ていった。
すると出かける間際に母はすごく寂しそうな顔で
「○○ちゃんは着てくれなかったんだ・・・やっぱりお母さんが買ってきた
Tシャツなんてダサいから着たくないよねぇ(笑)」と言った。
この時「しまったーーー!」と思ったけどもう待ち合わせの時間。
着替える時間もなくそのままの格好で・・・
後日そのTシャツを着て出かけようと、着ていたら母は
「わぁ!○○がディ○ニーのTシャツ着てくれた~嬉しい~」
と子供のようにはしゃいでいた。
ディ○ニーのじゃないんだけどね・・・w
今でも大切に着ています。
782 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/29(水) 00:58:35 ID:37qSAmlm
俺のばぁちゃんは毎年冬になるとマフラー編んで贈ってくれてた。
俺はマフラー巻くのってあんまり好きじゃないし、ちょっと恥ずかしいのもあって
巻くことはなかった。でも毎年新しいのが届くのな。
一人暮らし始めて何年も経つと結構な本数になっちゃったんだけど、相変わらず
タンスの肥やしにしてた。
で、去年の冬、ばぁちゃんが死んじゃった。
知らせを受けて、実家へ向かおうとアパートを出た時、マフラーのことを思い出した。
あぁ俺結局一度もばぁちゃんのマフラー巻かなかったんだ…って。
一度でもいいから巻いて実家へ帰って「ありがとう」って言っておけば良かった…って。
慌ててアパートに戻ってばぁちゃんのマフラーを巻いて、実家へ向かった。
北海道の真冬なので凄く寒かったんだけど、ばぁちゃんのマフラーは暖かかった。
やっとありがたみがわかったのに、もう見せる相手がいなくなっちゃった、って思ったら
涙が止まらなくなった。
785 :おさかなくわえた名無しさん:2006/03/31(金) 00:19:40 ID:OsdaZ7eR
私の両親の実家が同じ市内にあったため、田舎がない。
父の実家なんて徒歩20分と近い場所になる。
小・中学生の頃、夏休みになると友達は地方の田舎に行ったりするのに
うちは田舎ないから地方に出かけたりもしたことないし、
親戚同士家が近いから何かっていうとみんなで集まるのが嫌だった。
大人が集まると大抵私の噂話になるし、両方のおじいちゃんが
私が生まれる前に亡くなってたのもあって、その分おばあちゃんが
ことあるごとに洋服買ってくれたり、いろんなもの買ってくれたり
正直そういうのさえウザかった時期があった。
周りから「大きくなったのにまだおばあちゃんっ子?」と思われたくなかった。
高校受験で推薦で受けた高校に受かって親戚一同喜んでくれたけど
メッチャ遠いし行きたい高校じゃなかったから、お祝いの電話がきても
「あ~はいはい、ありがとうございます」って感じだった。
高校の入学式の日、口から心臓が飛び出そうなほど緊張して眠れなかった。
なのに早朝5時に父方のおばあちゃんが
「○○ちゃんに渡したいものがあるから今すぐ取りに来て」
と叔父さんを通じて電話がかかってきた。
その日の私は緊張でピリピリしていて、なんでこんな早朝に?
そんなの入学式終わってからだっていいじゃん?と怒った。
母が「おばあちゃんが言うんだから」って車で速攻
取りに行ったのも、こんな時に!と思って腹立たしかった。
でも、母がおばあちゃんちから持ち帰ってきたものは、
昭和っぽい古いデザインの小さ目の重箱に入った、
おばあちゃん手作りのお赤飯だった。
おばあちゃん、入学式だと知って夜中に餅米やら小豆を準備し
わざわざ朝早くから時間かけてセイロで蒸してくれたらしい。
(炊飯器の使い方わからないから)
もうそのお赤飯見た瞬間大泣きして涙が止まらなかった。
おばあちゃんウザイなんて思ってごめんなさい。
それ以来、お赤飯見るたびに思い出す。
806 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/02(日) 21:29:46 ID:ZIvUhb1B
どこかに出かける途中らしい車の中、私は助手席に母に
抱かれて座っていたが、頭の上で両親が激しく口論していた
何を言っているのか判らなかったけど、まるで機関銃の
打ち合いのように罵り合っていたのけは覚えてる。
車が停車すると、母は私を運転席の父の膝の上に放り投げ
ると「そんなに欲しけりゃあげるわよ!こんな子!」と言って
ドアを閉めるとどんどん去っていった。
訳が判らないままに、とても悲しく恐ろしくて大声で泣いて
母を追って自動車から出ようとしたけど、ドアが開かない
まま父が車を発車した。
産みの母とはそれが最後の別れだったよ。
後から母には借金癖があり、離婚でもめていた時に最終的に
私を父が引き取る事で借金を全て父が肩代わりする、と話し
合ったのに最後まで渡す渡さないで、もめたらしくその時の
記憶だと思う。
別にその後の私の人生が不幸だった訳でなく、父や親族は
優しかったし、金銭的にも苦労無く大人になって結婚もしたよ
でも、私の母の記憶はあの罵り合っている声だけ、顔も殆ど
覚えていない、写真の母はゲバくていやだ
きっと優しい顔や声で接してくれた事もあっただろうに、何で
最後にあんな記憶を残していったのか?今は行方すら判らない
母の記憶は父に放り投げた、あの時の母の姿だけです。
あの時私は2歳でした。
862 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/10(月) 00:16:49 ID:rEaza3Ar
うち最初に飼った犬が死んだ時。
ペット霊園の火葬場で火葬してもらって、隣の控え室で待ってたら
火葬場の人が「いま火を入れました」って言いに来て間もなく
窓から見える煙突から、大きな煙がモクモクモクと空に昇っていって
うちの母がポツリと
「あぁ・・・○○(犬の名前)天国に昇って行ったねぇ・・・」
と言ったら今まで泣いたこともない父までが泣き出して、
それ見てみんなで泣いたこと。
905 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/17(月) 12:47:49 ID:NM6QoebQ
小学生の頃、母親が入院していた時期があった。
それが俺の遠足の時期のちょうど重なってしまい、
俺は一人ではおやつも買いに行けず、
戸棚にしまってあった食べかけのお茶菓子とかをリュックに詰め込んだ。
そして、夜遅くオヤジが帰宅。
「あれ・・・明日遠足なのか」と呟き、リュックの中を覗き、しばし無言。
もう遅かったので、俺はそのまま寝てしまった。
次日、リュックを開けて驚いた。
昨日詰めたおやつのラインナップがガラリと変わっている。
オマケのついたお菓子とか、小さなチョコレートとか・・・
オヤジ、俺が寝てからコンビニ行ったんだな。
俺、食べかけの茶菓子でも全然気にしてなかったんだけどさ。
あの時、オヤジがどんな気持ちでコンビニへ行ったかと思うと、
少し切なくなる。
907 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/17(月) 15:11:35 ID:K/rXGDPW
遠足話に便乗。
小一の頃、家に帰ったらかーちゃんがいない。
親父がDQNのアル中で、かーちゃんが水商売で家計を支えていたため、
昼間はいつも家にいるのが当たり前だったから、無人の家が不安でたまらなかった。
恐る恐る家に入ると、テーブルの上に書置きが。
「おばさんのいえにいってきます。えんそくのおかねかりてくるから、しんぱいしないでね」
子供心にも貧乏が辛くて泣いてたら、昼間っから酔っ払った親父が帰ってきた。
また仕事サボって呑んでたんだろうな。
泣いてる俺が鬱陶しいと蹴り飛ばされて、その弾みで腕を骨折。
勿論、遠足にはいけなかった。
せっかくの借金は、全部治療費に。
かーちゃんに悪くてな。
遠足のたびにそれ思い出して、心から楽しめたことがない。
921 :おさかなくわえた名無しさん:2006/04/18(火) 06:49:24 ID:AzRsah45
私が幼稚園ぐらいの時の話。
それまで仕事以外の事でパソコンを使わなかった母が、
ぬりえみたいなものを印刷して私と姉にプレゼントしてくれた。
姉と私のは柄が違っていて、姉は花束、私はパンダ。
花束のほうがよかった私は、「こんなのやだ!」と泣いた。
とりあえず白&黒で塗ってみたけど、全然楽しくなかった。パンダだし。
腹が立った私は、母が風呂に入っている時、風呂の戸の下のほうにある
換気用の隙間からパンダの紙を中に投げ入れた。
風呂から出てきた母は悲しそうに「ごめんね。」と言った。
水浸しになっているパンダをどんな気持ちで拾ったのかを考えると、
今すぐごめんね、って言いに行きたくなる。白&黒じゃなくても、
他にもっと塗り方があったのに。
小学生の時。母と父が離婚するかしないかで、家の中は大変だった。
私が学校から帰ると、トラック運転手の父が珍しく帰っていた。
机にうつぶせになっていて、ビールの入ったコップが倒れていた。
ビールのしみ込んだランチョウマットを引っ張ると私にきずき、
「ん、おお、お帰り」と言ってくれた。いつもの顔で。
流れ豚切り&長文ごめん。思い出して切なくなった。
427 名前:おさかなくわえた名無しさん:2005/11/08(火) 08:11:37 ID:JSyGxVO8
死んだ母が入院する前、私がおろおろと何が食べたいか尋ねたら
果物とこたえたので、早朝に近くのコンビニへ。
果物詰め合わせパックを買おうとしたら店員のおじさんが
「それは熟れすぎたやつだからやめたほうがいいよ」
と言って他の物(最初のより高価)と交換、かなりおまけしてくれた。
嬉しくて家へと急いだなぁ。母に話したらすごく嬉しそうに食べてくれたけど、結局吐き戻してしまい涙目で「ごめんね、ごめんね」って謝られた。
母が食べた最後の物だった。
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こういう話に弱いんだよなあ…
みんな頑張ってるんだね。
♯32777
みんな頑張ってるんだね。
イライラしてるときに親にきれて後で後悔するっていうのはあるよね…
♯32778
こういう話見る度に後悔しないように生きようと思う。
♯32780
けっこう心に来るものがあるな。。
♯32813
イライラしてるときに親とか他人にアタると
あとで後悔するっていうのは充分にわかっている、はずなのに
なぜやはりイライラしてると全てを忘れてアタってしまうんだろうか・・・
心の広い人間になりたい・・・
♯32844
あとで後悔するっていうのは充分にわかっている、はずなのに
なぜやはりイライラしてると全てを忘れてアタってしまうんだろうか・・・
心の広い人間になりたい・・・
あばばば本当に切ない・・・
♯32845
にんげんって悲しいね。
だってみんなやさしい。
それが傷つけあって、かばいあって。
♯32847
だってみんなやさしい。
それが傷つけあって、かばいあって。
女の人と会うと、キョドったり俯いたりしてマトモに振る舞えなかった自分に
ちょっとした切っ掛けがもとで、初めて女の子の友達が出来た。
彼女は自分とは全く釣り合わないほどの美人でオシャレで、何でオレなんかと友達になったんだろ?って
彼女を含めた他の男友人達と会うたびにいつも思ってた。
ホント酷かったんだよ、あの頃のオレって。
デブでブサで服もダサダサなのに、何で?何で??って。
そんなある日、彼女が連れてきたやはりキレイな女の子と一緒に遊ぶ機会があって
やっぱりキョドっちゃったりして、あんましゃべれなかったんだよね。
「何だよ、このキモイの???」みたいな感じで見られたあの目は忘れられないよ。w
でもまぁその時はそれでお終い、時は流れたの。
あるとき酔っぱらってその彼女を含めた友人に電話をしたんだよよった勢いで。
もうヘベレケみたいな状態でさ、でも彼女には電話できなかった。
いや、しなかったと言うべきか。
でもしようとはしたんだ、でも自分の自信の無さに結局やめた。情けねぇ.... 。
で、あるとき共通の友人が彼女にそのこと喋ったらしんだ。
そしたら「何で私のとこに電話なかったんだろう???」って言って少し落ち込んでたって。
それ聞いてさ、当時のオレはバカだから???だった。
もう信じられないよね、ホント。
自信がない男はこれだからいけない。
でさ、ありがちな展開なんだけど、それからわりと直ぐに彼女は亡くなったんだ。
急死だった。
人生で初めて言葉が詰まるってのを体験した。
でも不思議と涙はでなかった。
で友人一同でお別れ会みたいなのをやろうってことになってさ
お別れ会も終わったころに友人がボソってオレに言ったんだ。
「前に遊んだときにさ、彼女が連れてきた友達いたじゃん?」
「あぁ、いたね。それがどうしたの?」
「いやさ、あのあと別れたときお前のこと凄い悪口言ってたんだよ、そしたら彼女さ、『あの人はそんな人じゃない!』って
ずっと庇っててくれたんだよ。」
その時の俺の気持ちは表現できない、ただただ涙が溢れてきてさ。
おいおい泣いた、一目も憚らずに泣いた、泣けた。
何か長くなってごめん、そんな話し。
思い出すと切なくなる、自分のバカさ加減に。
ちょっとした切っ掛けがもとで、初めて女の子の友達が出来た。
彼女は自分とは全く釣り合わないほどの美人でオシャレで、何でオレなんかと友達になったんだろ?って
彼女を含めた他の男友人達と会うたびにいつも思ってた。
ホント酷かったんだよ、あの頃のオレって。
デブでブサで服もダサダサなのに、何で?何で??って。
そんなある日、彼女が連れてきたやはりキレイな女の子と一緒に遊ぶ機会があって
やっぱりキョドっちゃったりして、あんましゃべれなかったんだよね。
「何だよ、このキモイの???」みたいな感じで見られたあの目は忘れられないよ。w
でもまぁその時はそれでお終い、時は流れたの。
あるとき酔っぱらってその彼女を含めた友人に電話をしたんだよよった勢いで。
もうヘベレケみたいな状態でさ、でも彼女には電話できなかった。
いや、しなかったと言うべきか。
でもしようとはしたんだ、でも自分の自信の無さに結局やめた。情けねぇ.... 。
で、あるとき共通の友人が彼女にそのこと喋ったらしんだ。
そしたら「何で私のとこに電話なかったんだろう???」って言って少し落ち込んでたって。
それ聞いてさ、当時のオレはバカだから???だった。
もう信じられないよね、ホント。
自信がない男はこれだからいけない。
でさ、ありがちな展開なんだけど、それからわりと直ぐに彼女は亡くなったんだ。
急死だった。
人生で初めて言葉が詰まるってのを体験した。
でも不思議と涙はでなかった。
で友人一同でお別れ会みたいなのをやろうってことになってさ
お別れ会も終わったころに友人がボソってオレに言ったんだ。
「前に遊んだときにさ、彼女が連れてきた友達いたじゃん?」
「あぁ、いたね。それがどうしたの?」
「いやさ、あのあと別れたときお前のこと凄い悪口言ってたんだよ、そしたら彼女さ、『あの人はそんな人じゃない!』って
ずっと庇っててくれたんだよ。」
その時の俺の気持ちは表現できない、ただただ涙が溢れてきてさ。
おいおい泣いた、一目も憚らずに泣いた、泣けた。
何か長くなってごめん、そんな話し。
思い出すと切なくなる、自分のバカさ加減に。