【日本史】戦国ちょっといい話 てんこもり。


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【日本史】戦国ちょっといい話

1: 人間七七四年 投稿日:2007/02/23(金) 22:33:24 ID:OA17Uaqt

戦国のホロリとくるエピソードを挙げていこう




2: 人間七七四年 投稿日:2007/02/23(金) 22:39:51 ID:h1u8d7l0

お前たぶん負けるから絶対喧嘩売るなよ! 一応兵糧やらの関係で邪魔にならない程度の兵を送ってやるから
そんな忠告を無視し無謀にも3倍の兵力に喧嘩を売りボロ負けして奮戦したものの武将1人死んで壊滅状態で帰ってきた自分の軍
普通はここでブチ切れるか見捨てるかなのに何も言わず更にはそいつがピンチに陥った時に大軍を率いて駆けつける・・

信長マジいい奴じゃん


4: 人間七七四年 投稿日:2007/02/24(土) 03:13:27 ID:mG1IIf9w

母里友信は黒田家臣。
無類の大酒飲みで福島正則にすすめられた大盃の酒を見事に飲み干し名槍・日本号を賜った逸話は『黒田節』(『筑前今様』とも呼ばれる)として今も語り継がれる。
無分別で向こう見ず、わがままな性格で武辺一筋の男だったが主君の如水は必ず役に立つ漢だと信じて重用し、生涯で76の首級をあげた家中随一の猛将として黒田家の筑前入国後に18000石を得た。
死の間際に少壮の頃に如水に「兄と思い、兄弟一体となって奉公せよ」と命じられたその兄貴分の栗山利安の見舞いを受けた。
その時友信は「これまではおこがましいと思い口にはせなんだが、御身の恩により人となることができた」と言って手を取り共々に号泣したと伝えられている。
母里と栗山は、張飛と関羽みたいな間柄だったのかな?ムチャクチャな母里を栗山がいつも制して面倒を見て、みたいな…
それを考えたら母里の臨終の際の逸話は何だかホロリと来ます。




8: 人間七七四年 投稿日:2007/02/26(月) 01:22:06 ID:HNOYswQm

真偽は定かではないが、上杉謙信と平井城主・千葉采女の娘の話はちょっと可哀想だなと思った。


9: 人間七七四年 投稿日:2007/02/27(火) 09:20:20 ID:cYHNmDA6

>>8 
どんなの?


10: 人間七七四年 投稿日:2007/02/27(火) 11:15:54 ID:MbAiNPua

>>9
上杉謙信が関東へ遠征を行った際、上野平井城主千葉采女が降伏し、娘の伊勢姫を人質として送ってきた。
謙信は伊勢姫を目にした瞬間に心を奪われ閨房に入れようとした。伊勢姫も何かと気にかけてくれる謙信に惹かれていた。
だが重臣柿崎景家に「降将の娘を娶るのは傾国の元である」と諫められ、謙信は思いとどまった。謙信のもとに嫁ぐのは叶わぬ思いであると悟った伊勢姫は落胆し、青龍寺に入って剃髪しまもなく世を去ってしまう(一説には自害)。
これを知った謙信は深く悲しみ、生涯不犯の思いをより強くしたという。


何度も言うが真偽は定かではありません。


13: 人間七七四年 投稿日:2007/02/27(火) 15:02:56 ID:GgaN+b7M

信長が平手政秀を馬鹿にされたことに激怒した話とか


18: 人間七七四年 投稿日:2007/02/28(水) 23:53:20 ID:PobDX/OW

>>13
kwsk


20: 人間七七四年 投稿日:2007/03/01(木) 11:48:03 ID:XHQnjNAb

>>18

 これは近畿を平定し、信長の勢力が日に日に盛んになっていった頃のことである。

 近臣たちがへつらって「このように強大になるとも知らずに平手政秀が自害した(政秀は若い時の信長の素行
を改めさせようと諫死した)のは短慮でした」というと、信長は顔色を変えて怒り、「わしがこのように弓矢を執れ
るのは、みな政秀が諫死したことのおかげである。自分の恥を悔やんで過ちを改めたからこそだ。古今に
比類ない政秀を、短慮だというおまえたちの気持ちがこの上なく口惜しい」と言った。

 信長は事あるごとに政秀を思い出し、鷹狩りや河狩りに出たときなどは、鷹が捕った鳥を引き裂いては、その
一片を「政秀、これを食べろ」と言って空に向かって投げ、涙を浮かべたことが度々あったという。


115: 人間七七四年 投稿日:2008/02/07(木) 18:32:25 ID:VLBPkDDt

>>20遅まきながらそのエピソード出どころ確認しました ちゃんとした資料なんだな
他にも死んだ平手の事をなじった家来を強く叱責する話もありますね
平手政秀の息子(孫?)を家康へ援軍として送り討ち死にさせてしまった信長の無念が聞こえてくるようです


19: 人間七七四年 投稿日:2007/02/28(水) 23:56:47 ID:3obLOicD

備中高松城にて
隆景「マジでもういいよ。無茶すんな。」
宗治「だが断る!」


22: 人間七七四年 投稿日:2007/03/01(木) 20:58:53 ID:PS1CVjIN

まぁ大谷の鼻水はガチでいい話
関ヶ原へとつながるわけだし


32: 人間七七四年 投稿日:2007/03/04(日) 20:08:46 ID:D7MrSMDk

信長が岐阜と京都を往来する間、不思議な物乞いを見かけた
体が不自由そうで、普通恵んでくれる人を求めて移動するはずなのにいつも同じ場所にいたので気になった信長は近所の者に事情を聞く
するとその男は先祖の罪(源義経の母を殺した)でそこから動けない物乞いだという
ある日、そこに立ち寄った信長は近隣の人々を集めて反物を与え、その物乞いの暮らしが立つようにしてやってくれと頼んだ
天下を左右する大名が、乞食一人にわざわざ情けをかける姿に人々はありがたいことだと言い合った
魔王と呼ばれる信長の意外な一面を現すエピソード


33: 人間七七四年 投稿日:2007/03/04(日) 23:01:54 ID:r5gHPvox

大谷つながりで関が原の時の逸話を一つ。

藤堂高虎の軍に従軍していた藤堂高刑が吉継の小姓の湯浅五助を発見した時、
五助はうずくまっていたので勝負してみると五助は「待ってくれ。今、ここに主君の首を埋めたが、
主君の面容を敵に見せるは恥辱となるので埋めたのだが、私の首の代わりにここに埋めたことを秘して欲しい」
と頼んだのを高刑は「武士の面目にかけて他弁は致すまいぞ」と誓い、五助の首を取った。
このことを伏せ、主君の高虎に同行して徳川家康に見せると「五助ほどの者が主君の行方を知らぬはずがない。
もしかしたら五助は首を隠したのではないのか?」と聞くと高刑は
「私は知らない事はないが、五助と他弁をしないと誓って首を取ったので
このことはどなた様にも言えませぬ。どうぞ、私を御処分くだされ。」と言ったので家康は
「これほどの律儀者がいるとはな。首のありかを言えば高虎の手柄になる物を」と言って褒美を高刑に与えたという。


34: 人間七七四年 投稿日:2007/03/04(日) 23:46:52 ID:xewO2Meq

無類の強さを誇った島津義弘も
晩年は老いに勝てず、1人で起き上がり飯も喰えぬ有様だったという。
そこへ家臣の1人が「殿、戦で御座る!!」と告げると
城外で一斉に兵たちのトキの声が聴こえてきた

すると、今まで寝込んで起き上がれずにいた義弘の目がクワッと見開き
1人で起き上がり飯をたらふく喰らったという。

勿論、戦というのは、義弘を奮い立たせようとした家臣たちの嘘だった訳だが
老いても戦と聴くだけで奮い立った義弘の凄まじさが垣間見える逸話だね


37: 人間七七四年 投稿日:2007/03/05(月) 02:33:44 ID:kkU1I50N

>>34
粋な家臣達だなぁ・・・


102: 人間七七四年 投稿日:2008/01/04(金) 00:46:13 ID:kdHssbqW

>>34
これ凄い好き。

「義弘晩年の平和な一日」

みたいな内容で、三谷幸喜さんに脚本書いて欲しい。


55: 人間七七四年 投稿日:2007/10/11(木) 16:53:18 ID:oxcwdwVP

「結局戦なんて運なんだよ。個人的武勇の差なんてそんなにある訳がない
今に見てろ。今日一つも首を挙げられなくとも、次は十も首を取れるぞ」

そうして慰められた奴が見事武将を討ち取り刀を授けられましたとさ



…別にいい話じゃねぇな


56: 人間七七四年 投稿日:2007/10/11(木) 17:09:32 ID:HzmBeWdw

それは、なんというか、いい話しだけど、けんしんがしんげんに塩おくったみたいな具体的な話しじゃないけど。

きっとみんなそうやっていいあっていきてたんだろうね。


57: 人間七七四年 投稿日:2007/10/14(日) 04:28:11 ID:unPCZziN

にんげんっていいなぁ


60: 人間七七四年 投稿日:2007/11/02(金) 23:02:16 ID:Ypc2+khU

織田軍が行軍中の路傍で農民が横になって爆睡していた。
信長の横にいた家臣がその無礼を怒り殺してやる!といきり立つと信長はそれを止め「何の不安もない民のくらし…わしはあのような平和な国を作りたいのだ」と言ったと言う。
それを寝たフリをして聞いていた農民の顔は猿顔だった。


63: 人間七七四年 投稿日:2007/11/02(金) 23:49:39 ID:Ypc2+khU

郡山城には人柱の代わりに百人一心の石碑が埋まっている。
伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。
謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。
義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。「なんだその刀は見た事あるな?」
すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」
それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。


64: 人間七七四年 投稿日:2007/11/03(土) 12:13:20 ID:2G+Lmnvj

>>63
それがかの有名な「小豆長光」なんですか?
だとしたら哀しすぎる。・゜・(つД`)・゜・。


69: 人間七七四年 投稿日:2007/11/04(日) 06:50:59 ID:eBU6j+Zb

やっぱ北条家の汁かけ飯の話が好きだ。


70: 人間七七四年 投稿日:2007/11/04(日) 21:27:50 ID:fWaDnDwh

それ、いい話なの?


72: 人間七七四年 投稿日:2007/11/05(月) 17:46:22 ID:JDHDPfjo

>>70
計画を随時見直す器量があるって話だろ。
高度経済成長期の高速道路計画を当初の計画通り引きたがっている奴に見習わせたいね。


71: 人間七七四年 投稿日:2007/11/05(月) 01:20:58 ID:Nbjn+SO4

そして秀吉は北条の滅亡を教訓とし串カツのソース二度漬けを禁止した。


73: 人間七七四年 投稿日:2007/11/06(火) 00:14:44 ID:Xp6d4DlA

>>71
秀吉なら味噌カツのほうが好きそうだがw


85: 人間七七四年 投稿日:2007/12/16(日) 11:48:57 ID:XHoSdCcR

関ヶ原のあと、黒田長政が石田三成に羽織をあげたこと


86: 人間七七四年 投稿日:2007/12/16(日) 17:08:09 ID:jUyV9Epl

 天正十年の中富川合戦は、土佐から進攻してきた長宗我部元親と、十河存保を主と仰ぐ阿波三好軍団が死力をつくして対決した四国では最大の激戦であった。
敗色が濃くなった三好方の武将加賀須野与一高房は、追手の土佐勢から逃れるため、中富川に架かる橋の下に身を隠していたが、激戦つづきで風邪をひいていたので、
どうしようもなく咳き込んでしまった。橋上の土佐勢はすぐさま高房を捕えて首を刎ねたのであった。高房は死に臨んで「拙者は咳を止められず敵の刃にかかるが、
死後は咳で苦しむ人々を助けてやるのだ」と遺言したという。いまも咳止大明神はその地に祀られ、「せきどめさん」として親しまれている。


89: 人間七七四年 投稿日:2007/12/16(日) 23:36:36 ID:jW4n4EPS

島津家臣 新納武蔵守忠元
鬼武蔵と言われた猛将だが戸次川の戦いのさい敵将長曽我部信親を討ちとるが長曽我部の家臣谷忠澄が遺体の返還を願い出ると涙を流しその遺体を返還した
更に岡豊城まで僧を同行させた。


92: 人間七七四年 投稿日:2007/12/23(日) 00:48:27 ID:H4vgtw/D

さて、出羽国横手城主小野寺義道は、武勇あるも政治に疎く関ケ原において
仇敵最上義光と争い西軍についたことにより改易され石見国津和野に流された。
配流先津和野の領主は宇喜多家の一族である坂崎直盛である。
後に坂崎直盛は大阪の陣で戦功をたてるものの、その件(俗に言う千姫一件)に
よって自害、改易となった。

坂崎直盛の十三回忌、彼の墓を立てた者こそ、誰あろう小野寺義道であった。
江戸幕府により取り潰しにあった者の墓を建てる者などなかなかいる者ではない。
配流時代に遇してくれた坂崎直盛の恩に報いるためのことであった。

後に、小野寺一族は津和野の新領主亀井氏の臣下となり厚く遇されたという。


103: 人間七七四年 投稿日:2008/01/05(土) 15:45:47 ID:JkiTRbTO

>>92
これは本当にいい話だな。柳生宗矩といい。坂崎は人望はあったんだよな。


93: 人間七七四年 投稿日:2007/12/24(月) 13:17:39 ID:+XnDSDjr

立花宗茂の実父高橋招運は息子宗茂が守る堅固な立花山城に撤退するよう
に勧められるも小さな岩屋城で700かそこらで島津の大軍相手に奮戦し
時間を稼いで全員玉砕。息子宗茂も島津軍を長期戦に巻き込み、豊臣軍の
九州上陸で撤退する島津軍への猛攻に繋げた話は泣ける。父招運の自己
犠牲が息子宗茂の運を招いた。
宗茂は関が原には西軍で参戦し(後方の為に無傷)撤退の際にボロボロの
島津軍と一緒になり「この機会に父上招運様の仇を討ちましょう。」と進言
する家臣の意見を退け、島津軍を警護して無事に九州まで送り届ける。その
後、東軍側から攻められた宗茂を救援する為に島津が援軍を送った話も良い
話では。


372: 人間七七四年@全板トナメ開催中 投稿日:2008/06/07(土) 23:24:27 ID:gc3XR7nF

>>93絡みで岩屋城ネタ
岩屋城が落城して間もなく、敗戦を知ないまま立花山城から立花宗茂の使いの兵が高橋紹運宛の書状をもって岩屋城へきた。
が、時既に遅く全員玉砕の岩屋城。使いの兵は島津軍に捕らわれ、そのまま従うよう命じられる。
立花宗茂の使いの兵はそれを断りこう言った
「一つだけお願いがあります。その書状を読むのは私の首をとってからにしてください」
その答えに島津の将は心を打たれ、書状を読まずにその兵の縄をほどき、立花山城に無傷で送り返した。


373: 人間七七四年@全板トナメ開催中 投稿日:2008/06/08(日) 10:06:54 ID:s/ItF2dT

>>372絡みで立花宗茂ネタ
関が原の戦いで西軍に味方したため、戦後領地を没収され浪人となった
宗茂。彼を見捨てず、虚無僧や物乞いまでして宗茂を支え続けた家臣達。
その主従愛に感動した徳川秀忠は、彼を筑後柳川十一万石の大名として
取り立てた。
かつての領地に返り咲いた宗茂と家臣達は、さっそくかつての家臣を呼び
寄せ、新たな家臣を雇った。たちまち宗茂の屋敷は家臣達であふれかえった。
そこで宗茂が浪人時代から支えてきた家臣達が進言した。
「家臣も増え、今の屋敷では手狭でございます。そこで屋敷をもっと大きく
建て替えて、部屋も廊下も広くいたしましょう。」


374: 人間七七四年@全板トナメ開催中 投稿日:2008/06/08(日) 10:25:39 ID:s/ItF2dT

>>373続き
だが宗茂は首を振って言った。
「いや、屋敷は狭いままで良い。」
家臣達は「何故?」と首をかしげた。
宗茂は目に涙を浮かべて言った。
「なぜなら俺が浪人となっても、お前達は俺を見捨てず、
物乞いをしてまで俺を支えてくれた。俺にとってかけがえ
の無い、愛しい家臣だ。もし屋敷を広くすれば、お前達と
こうして顔を合わせる事も減り、疎遠になるだろう。
それは嫌だ!それなら屋敷が狭いほうが、俺は嬉しいのだ。」
家臣達は涙で言葉も出なかった。


694: 人間七七四年 投稿日:2008/08/18(月) 13:37:18 ID:T+VQEqRd

>>374
泣いた。・゚・(ノД‘)・゚・。


105: 人間七七四年 投稿日:2008/01/21(月) 16:25:15 ID:HJZ6a2SQ

松永久秀と三好三人衆は12月25がクリスマスだったため停戦をした


106: 人間七七四年 投稿日:2008/01/21(月) 20:08:34 ID:D4r7+gMv

>>105
『殿~!今宵は栗酢益で御座いマス。』

『うむ!ならば休戦じゃ!足袋を用意せい!』



全米が鳴いたわ…。


107: 人間七七四年 投稿日:2008/01/21(月) 20:36:51 ID:CaFm7dar

どっちも家臣に切支丹がいたからな
停戦中に初めて日本でクリスマスパーティが開かれたのは有名な話


108: 人間七七四年 投稿日:2008/01/21(月) 21:57:07 ID:DQPDiV4b

105-107
ネタかと思ったらマジなのか


112: 人間七七四年 投稿日:2008/01/24(木) 21:49:53 ID:8FNmf2rq

>>108
ただ、色々説はあって、久秀の相手は三人衆だったり義継だったり
後、一時期信長と争った際にもクリスマス休戦があったとか(これは日付的に無理があるが)

初めてっていうのは大内氏領内っていう異説もあり


120: 人間七七四年 投稿日:2008/02/09(土) 18:48:15 ID:br4oOdDz

関ヶ原の合戦後、立花宗茂は大名から浪人に転落した。
かねてより宗茂と新興があった東軍の大名のなかには彼の武名を惜しんで、
召し抱えたいというものも多かったが、宗茂はそのいずれも丁重に断った。
彼は、
「我が身惜しさに、太閤との誓いを裏切り、親しき友を討つようなものたちの仲間入りはできない」
といった。
そして、
「わしは天に誓って、わが生き方を恥じておらぬ。天運あれば、きっとふたたび立花の名を興す時がこよう」
と家来たちには言った。
しかし、その機会はなかなか訪れなかった。
宗茂は肥後を追われ、京都、江戸と転々と住まいをかえて、流浪した。

江戸の高田、宝祥寺の一隅を借り住まいとしていたころのことである。
宗茂が国もとを出たときの路銀はとうに消え失せ、主従は日々の米にこと欠いていた。
由布雪下、十時摂津ら、宗茂の家来たちは槍、甲冑も売り払って金銀を得たが、それでもなお食えない。
彼等は、宗茂に隠れ、傭われ人足や托鉢僧、ひどいものは乞食に身をやつして銭をかせぎ、なんとか日々を暮らしていた。


121: 人間七七四年 投稿日:2008/02/09(土) 18:48:59 ID:br4oOdDz

ある時、寺の檀家が、宗茂らの困窮を知って、炊いた飯をわけてくれた。
由布雪下らはありがたくそれを頂き、その飯で干飯をつくることにした。
干飯とは元来は陣中食であるが、平和な時代は、食べるものに無いときの備蓄食である。
つくりかたは単純。日に飯をさらして乾燥させるだけである。
秋晴れが続き、江戸ではしばらく雨がふっていなかった。
これならば大丈夫、と、由布らは、飯を干したまま、いつものように宗茂ひとりを寺に残し、みなで人足の仕事をしにいった。
ところが。
どういうわけが、この日にかぎって、天に雲わき、午後、にわかに雨がふりだした。
人足仕事は雨のために早く終わった。
由布や十時ら急いで、寺にもどった。
道すがら、
「しまったぞ」
 と十時摂津がいった。
「飯はダメになってしまうだろうな」
 十時は朝鮮・碧蹄館の戦さで武名をあげた男だが、このときは干し飯のこと頭がいっぱいであった。
雨にぬれれば、干し飯は食べられなくなる。それは一大事であった。
 そして、この心配は十時ひとりのものではない。ほかの家来たちもそうだった。
「大丈夫だ」
 と家来のひとりが十時だけでなく、自分をも励ますようにいった。
「殿は聡いかただ。この雨をみて、きっと干し飯を屋敷のなかにしまってくれている」
 そのとき、最年長の由布雪下が、
「馬鹿なことをいうな」
 と叱った。
「馬鹿なこと?」
 十時や家来たちは驚き、由布に問い返した。
「そうじゃ」
 由布は言う。
「大将は雨をみて、兵を考え、民を思うものじゃ。殿は大明まで知られた日の本一の大将ぞ」
 もし、と由布はしわがれ声をくぐもらせていった。
「目前の干し飯などという些事に心を奪われるようでは、殿の人品、地に落ちたのじゃ」
 十時らは黙った。
「もし、そうであれば、立花の家が再び天下に立つ日などない」
「そのとおりじゃ」
 十時は顔をあらためた。
 他の家来たちも、みな静かに深くうなずき、みな一様に暗く、神妙な顔になった。
 祈るような気持ちで、家来たちは、寺の門をくぐった。
 雨は激しさをましていた。
 萩の花のさく庭をみた。
 板の上のならべられた握り飯は雨にうたれている。
 みるも無惨に崩れ、あるいは流れ、地面におちて、泥にまじっていた。
 家来たちは呆然としてそれをみたあと、屋敷のほうへ顔をむけた。
 そこでは宗茂は端然として書見をしていた。
「殿!」
 十時が吠えた。
 大きな身体をふるわし、手を雨の中にあげ、万歳、とさけんでいた。
 ほかの家来たちも声をあげて叫び、笑った。濡れた飯をすくいあげて、雨になげるもの、抱き合って泣きあうもの。
 宗茂はわずかに顔を庭にむけると、書見をやめた。立ち上がった。
「爺」
 といった。
 ひとり、天を仰いでいた由布雪下がその声に、その皺と戦さ傷だらけの顔をむけた。
「なんだ、みなは、雨がそれほどうれしいのか?」
「そうですな」
 由布の頬に涙が雨とまじっている。
「うれしいですわい」


123: 人間七七四年 投稿日:2008/02/09(土) 19:46:33 ID:zObmg3rQ

いい話だね  家康だけはけっして許さない


126: 人間七七四年 投稿日:2008/02/09(土) 22:51:35 ID:lGoZtsvn

米が足りなくて、せめて体積を増やそうとお粥みたいにして出したら、
「お腹壊してないからこんなにしなくて良いのに…」とか言ったらしいしな、宗茂。
まあ、大人物だよww

>>123
でも旧領にもどしてくれたよ。


165: 人間七七四年 投稿日:2008/02/23(土) 22:39:32 ID:YduX162m

蒲生氏郷の蒲生風呂とか
井伊直孝の芋鍋とか
秀吉の牛蒡と農民の逸話とか
そんな感じの話、他にも有りますか?


166: 人間七七四年 投稿日:2008/02/24(日) 02:27:58 ID:Mw5shG41

↑の逸話聞かせくれ


167: 165 投稿日:2008/02/24(日) 21:39:16 ID:CSOemgdp

>>166
考証とかソースとかあやふやなので、あくまで寓話的
なお話として、読んでください。

蒲生風呂(1)
 幼少の頃からその才を、織田信長に認められた蒲生氏郷。
彼は若くして城持ち大名となった。だがそのため新たに多く
の家臣を雇ったため、古参の家臣に十分な恩賞を与える事が
できずにいた。
 そんなある日、氏郷は手柄を立てた古参の家臣に言った。
「手柄を立てたお前に恩賞を与えたいが、あいにく金も所領
も無い。だがせめてその労をねぎらいたい。明日、我が屋敷
にお前を招いて、酒宴を開きたい。明日ばかりは戦も政も忘
れ、主従も忘れて楽しもうではないか。」
 恩賞など思いもかけぬ武骨な家臣も、主君の心遣いに感激
し、この誘いを快諾した。


168: 165 投稿日:2008/02/24(日) 22:10:33 ID:CSOemgdp

 蒲生風呂(2)
 あくる日、屋敷に赴いてきた家臣を氏郷は自ら出迎え、
こう言った。
「よく来てくれた。まずは風呂につかり、日頃の疲れを
癒してくれ。」
促されるままに風呂につかる家臣。しばらくして外から
氏郷の声がした。
「湯加減はどうだ?ぬるくはないか?」
家臣は、
「そういえば、少々ぬるい様でございます。」
と答えた。
「そうか、しばし待て。薪を足すからな。」
再び氏郷の声。家臣は思った。(妙だな、下人にわしが
直に申し付ければ良いものを…?)
いぶかしんで外を見た家臣は驚いた。薪を足していたのは
他ならぬ、氏郷であった。
「どうだ、湯は温まったか?まだぬるいか?」
脇目も振らず、一心に火を焚く氏郷。顔も手も、すすで
真っ黒である。


169: 165 投稿日:2008/02/24(日) 22:30:40 ID:CSOemgdp

蒲生風呂(3)
 家臣は涙で声も出ない。(氏郷さまが自分のために風呂を
沸かしてくれている。何と言う果報だろう!)
次第に適温を超え、熱くなる湯。だが家臣は涙が止まるまで、
風呂からあがる事は出来なかった。
 
 以降、蒲生家では氏郷自ら沸かした風呂につかる事が、金や
所領に変えられぬ最高の恩賞となった。
家臣達はこれを「蒲生風呂」と呼び、これに入れた者は蒲生家
家中で羨望の眼差しと、尊敬を集めたのであった。
                             ~終わり~


170: 人間七七四年 投稿日:2008/02/24(日) 23:43:11 ID:55Ni4wbN

( ;∀;)イイハナシダナー


172: 人間七七四年 投稿日:2008/02/25(月) 00:23:17 ID:CuyCmIJt

167-169
一つ感動出来る話しが増えたよ
ありがとう。


177: 人間七七四年 投稿日:2008/02/25(月) 14:40:24 ID:iXEB7j44

堀といい蒲生といい、信長子飼いはどうしてそんなに人の心を掴むのが巧いのか


210: 165 投稿日:2008/02/29(金) 07:51:10 ID:y5aGk3HI
秀吉と牛蒡(1)
 
 羽柴秀吉が関白に就任し、豊臣秀吉と名乗り始めた
頃の話である。人臣の位を窮めた秀吉に、各国の大名
や豪商、有力者達が祝いの品を贈っていた。
 その頃、秀吉の故郷である、尾張中村でも秀吉に祝
いの品を贈ろうと、農民達が話し合っていた。しかし
当時の尾張中村は寒村であり、特に名産も無く、農民
達は何を贈り物とするか決めあぐねていた。ある者が
言った。
「そういえば、秀吉様が墨俣に城を建てた時や、長浜
に城をいただいた時、この中村の牛蒡をお祝いとして
差し上げたら、たいそう喜ばれた。今度も牛蒡を贈っ
たら良いのでは?」
皆、(関白さまに牛蒡など…)と戸惑ったが、他に換
わる金品は無い。せめて丹精した牛蒡をと、農民達は
選りすぐった牛蒡を持ち寄り、村の代表者に託した。


211: 165 投稿日:2008/02/29(金) 08:21:03 ID:y5aGk3HI

 秀吉と牛蒡(2)
 
 大坂城に着いた尾張中村の一行は驚いた。城の大きさ、
賑わう人々、そして城に続く長い行列。皆、立派な格好を
し、金や刀や絹織物、中には精悍な駿馬を携えている者も
いた。すべて秀吉への贈り物である。みすぼらしい格好で
行列の端に並ぶ、中村の農民。そこに羽柴秀長の一行が通
りかかった。秀長は農民達の中に、見知った顔があった。
「おお!中村の者達ではないか、久しいのお!どうした、
なぜ大坂に?」
 農民達は秀長に、秀吉さまに牛蒡を贈ろうと思ったが、
あまりにみすぼらしいので、貴方に預けて早々に帰りたい、
と伝えた。秀長は言った。
「ばかもの。はるばる尾張中村からの使者を無碍に帰せる
ものか。よし、わしと共に城に来い。」
秀長は農民達を連れ、城に入った。農民達は城の台所で待つ
よう言われ、しばらく待っていた。


212: 165 投稿日:2008/02/29(金) 08:48:51 ID:y5aGk3HI

 秀吉と牛蒡(3)

 台所の奥からドカドカと足音が近づいてきた。それは
秀吉であった。秀吉は駆けるように農民に近寄り、喜色
満面で言った。
「中村の者達、よく来た、よく来てくれた!嬉しいぞ!
それに、また牛蒡を持って来てくれたのだろう?ありが
たい、まことにありがたい。」
 農民一人一人の手を取り、感謝する秀吉。望外の歓待
を受け、農民達も安堵した。酒宴が始まり、秀吉や秀長、
おねや母のなかも加わって、しばし時を忘れ賑わった。
 あくる日、秀吉は帰ろうとする農民達に言った。
「お前達を手ぶらで帰す訳にはいかん。土産として、尾張
中村の年貢を永年免除とする。どうだ?土産になるか?」
農民達は秀吉に感謝歓喜し、意気揚揚と尾張中村へと帰った。


213: 165 投稿日:2008/02/29(金) 09:25:03 ID:y5aGk3HI

 秀吉と牛蒡(4)

 それから数年経った。年貢が免除された尾張中村では、
農民達は裕福な生活を送っていた。ある者は家を豪華な
屋敷に造り替え、ある者は蓄財し、商いを始めた。
皆が再び集まり話し合った。
「わしらがこんな贅沢に暮らせるのも秀吉様のおかげだ。
お礼として何か贈ろう。皆で金を出し合って、刀や駿馬
を取り寄せよう。」
こうして農民達は立派な刀や精悍な駿馬を携え、再び大
坂城へ赴いた。
 あの時のように、城の台所で待つ農民達。駆けんで来
る秀吉。農民たちは言った。
「秀吉さまのおかげで、我々も豊かに暮らせる事が出来
ます。立派な名刀と駿馬を買える余裕も出来ました。ど
うぞお納めください。」
 すると秀吉は怒気を含めて言った。
「ばかもの!何故、牛蒡を持って来なかった!」
あっけにとられる農民達。秀吉は心底落胆して言った。
「墨俣に城を建てた時、長浜城主となった時、そして大坂
城を建て関白となった時。お前達はいつも牛蒡を持って来
てくれた。ありがたかった。まだ俺が中村の百姓だった頃
を思い出せた。」


214: 165 投稿日:2008/02/29(金) 09:48:52 ID:y5aGk3HI

 秀吉と牛蒡(5)

 秀吉は続けた。
「わしは武士となって、信長さまのもとで必死に働いた。命
がけで働き出世した。それは、わしは貧しい農民たちが戦な
ど無く、豊かに暮らせる国を造りたいと思っていたからだ。
だが、武士として働いている内にその思いが薄れ、民をない
がしろにしようとする。欲が出るのだ。」
秀吉は農民を見渡し、言った。
「お前達の牛蒡は、その欲を消してくれた。自分が偉くなる
度にあの牛蒡を食べ、農民達の事を思い出した。だからこそ
再び働き、出世した。そして今は日本の王として働いておる。
今こそ、この国の民達が豊かに暮らせる様にと思ってな。あ
の時の牛蒡はわしにとってどんな金品よりもありがたかった。
農民達の期待に応えねば。そう思った。」


215: 165 投稿日:2008/02/29(金) 10:23:00 ID:y5aGk3HI

 秀吉と牛蒡(6)

 秀吉は毅然として農民たちに言った。
「それなのにお前達は暮らしが豊かになると、百姓の基本
を忘れ、金品を集め刀や馬を俺に贈ると言う。そんな物は
大名か商人のすることだ。お前達が牛蒡を忘れる様な国を
造るつもりは無い。」
農民達は恥じ入り、秀吉に誓った。
「今度こそ、我々が丹精した尾張中村の牛蒡を贈ります。
われら必死に働きます。お許しくだされ。」
 秀吉は言った。
「お前達の牛蒡、待っておるぞ。」

 天下人となった羽柴秀吉は「豊臣」の姓を賜り、豊臣秀吉
と名乗り始める。秀吉は「豊臣」(しんをとませる)と言う
姓に、己の真の理想を見ていたのであろうか。
                       ~終わり~


217: 人間七七四年 投稿日:2008/02/29(金) 17:48:27 ID:70O2V7SO

いい話なんだけど秀吉っぽくないwwww


220: 人間七七四年 投稿日:2008/03/01(土) 06:49:35 ID:a6bmDcrR


初めて聞いたよ
確かに秀吉じゃないなw
性格的に信長あたりに感じる


221: 人間七七四年 投稿日:2008/03/01(土) 10:03:42 ID:YUcp+Aga

信長ではありえないよ。
家康なら言うかもしれない、老臣と井伊の芋鍋の逸話があるからさ。
まあ秀吉らしい話だね。


227: 人間七七四年 投稿日:2008/03/01(土) 23:40:43 ID:Bbw4Bzzz

信長といえばこんな話も

内政と戦の両輪で目の回るような忙しさの丹羽長秀を武田を討伐してもう後始末くらいしかやる事の無い
甲斐に派遣して「やる事が無い」と丹羽が連絡すると「そのまま草津に湯治に行け」と連絡が帰ってきたらしい。

まぁ、「下手な奴に任せるくらいなら五郎左に任せとけ」と言って丹羽の仕事を増やしてたのも信長なんだけどね。


228: 人間七七四年 投稿日:2008/03/01(土) 23:43:48 ID:DeJJZELx

なんだかんだで信長って頑張ってる部下にはやさしいとこあるよなw


230: 人間七七四年 投稿日:2008/03/02(日) 00:26:27 ID:j0sBj4WX

そういう話見ると本能寺の変の原因が
光秀の怨恨とはどうしても思えないんだよね


241: 人間七七四年 投稿日:2008/03/04(火) 05:58:47 ID:4HKPwfK9

>>230
信長「光秀、嫌いじゃないけど生理的に無理」


277: 人間七七四年 投稿日:2008/04/01(火) 08:23:44 ID:4RUV594y

 越後を支配していた戦国大名の上杉謙信は毘沙門天を熱心に信仰していた。
彼は重臣たちとの会議は毘沙門天をまつる毘沙門堂で行うのを習慣にしており、重要な命令も
毘沙門堂で行うことにしていた。
 ある日、謙信のもとに領内で大規模な一揆が発生したとの知らせが届いた。これは一大事と
謙信はその場で配下の武将に出撃命令を下した。それを聞いた重臣たちは「そのような命令は
毘沙門堂で行うのが習慣ではありませんか?」と問うた。すると、謙信は「今は一刻を争う。
毘沙門堂に皆を集める余裕はない」と答えた。
 重臣たちは、それでは毘沙門天が怒るのではないかと心配したが、謙信はこう言い返した。
「もたもたして一揆の鎮圧に手間取るほうがよほど問題だ。それにこの越後の地で毘沙門天が
盛んに信仰されているのは私が手厚く保護しているからだ。むしろ私の方こそ毘沙門天から感謝
されてもいいくらいだ。これくらいで怒るはずがない」

 熱烈な毘沙門天の信者と思われていた上杉謙信。だが、実は信仰一筋に縛られていない柔軟な
思考の持ち主であることを示すエピソードである。


278: 人間七七四年 投稿日:2008/04/01(火) 09:09:41 ID:wdS/xsVu

>>277
いい話だな。ソース教えて。


284: 人間七七四年 投稿日:2008/04/03(木) 08:13:41 ID:tPS37zTe

>>278
色々と調べてみたが、上杉謙信と毘沙門天のエピソードが載っていたのは
「決断の条件」ではなく、松下幸之助 著の「人を活かす経営」という文庫本だった。
勘違いして申し訳ない。
 あらためて読み返してみると間違えて書きこんだ箇所がいくつかあった。まず一揆が発生したのは
越後の領内ではなく隣国。そして、謙信は配下の武将に出撃命令を下したのではなく、間者に
様子を調べてこいと命じている。ずいぶん昔に読んだせいか、色々と記憶違いをしていたようだ。


283: 人間七七四年 投稿日:2008/04/02(水) 08:38:56 ID:zO5UfsSw

秀吉の知恵袋として活躍した黒田如水の話。

 朝鮮との戦が始まる頃、日根野備中という武士が出陣の費用が足りないので、如水のところへ
借りに行くと如水は快く貸してくれた。後日、返済の金が用意できたので備中は礼として大きな鯛を
持って金を返しに行った。
 如水はその大きな鯛を家来に渡して料理するように命じた。その際、「鯛の頭と骨は捨てずに
吸い物にせよ」などと細かく指示するのを見て、備中は心の中で、なんてケチな男だと思って如水を軽蔑した。
そして、備中が借りていた金を返すべく差し出すと、如水は受け取ろうとせずに こう言った。
「あの金は差し上げるつもりで渡したものだ。わしが日ごろから倹約を心がけているのは
このような時のために人の役に立ってもらいたいと思うからだ」
 これを聞いて、備中は恥じ、また感心したという。


285: 人間七七四年 投稿日:2008/04/03(木) 23:13:37 ID:YYdVkKdh

いい話だな


289: 人間七七四年 投稿日:2008/04/05(土) 18:09:17 ID:AxDMz359

ちょっといい話というより、ちょっと悪い話。

悪逆な戦国武将として名高い松永久秀が織田信長のもとで活躍していたころ、久秀は信長に
陣中の兵士について訴えた。
「兵士たちがたびたび陣を抜け出して近くの町に入り浸り、乱暴狼藉を働くので風紀が乱れています」
 これを聞いた信長は秩序を取り戻すために、陣中の兵士たちが町の中に入ることを禁じた。
 町へ買い出しに行くこともできなくなった兵士たちは困り果てた。そこへ松永久秀は直属の部下を
ひそかに町に派遣してまんじゅうを買い占めさせ、そのまんじゅうを陣中の兵士たちに売りつけると、
飛ぶように売れた。調子にのった松永久秀は娯楽に飢えた兵士たちに遊女を世話することまでして
大いに儲けた。
 信長が発した町への立ち入りを禁ずる命令がうまく利用されてしまったわけである。


290: 人間七七四年 投稿日:2008/04/05(土) 21:40:23 ID:QnA2qhkj

さすが松永久秀w


321: 人間七七四年 投稿日:2008/04/13(日) 14:57:01 ID:AqjKZIq2

ちょっといい話というより、ちょっと考えさせられる話

 羽柴秀吉と柴田勝家が争っていたころ、勝家配下の武将佐久間盛政が突出して秀吉方の
砦に侵攻して来た。
 砦を守っていた武将は高山右近、中川瀬兵衛の二名で、それぞれ300人ずつ手勢を従えていた。
高山右近は敵の侵攻に対し、「こちらは合わせて600人しかいないから、ここで無駄死にするよりも
一時撤退して本隊と合流してから戦おう」と主張し、それに対して中川瀬兵衛は「敵の進撃を少しでも
遅らせるためにここで籠城しよう」と主張した。
 結局、二人は喧嘩別れになり、高山右近率いる300人の兵のみが砦から撤退した。残った中川瀬兵衛の
軍勢300人は佐久間盛政の攻撃を奮戦して受け止め、全滅するまで戦い、進撃を遅らせることには成功した。
 世間の人々は命がけで戦った中川瀬兵衛を勇者としてほめたたえ、戦友を見捨てて逃げた高山右近を
臆病者として非難した。だが、部下の命を無駄に死なせたくないと撤退を選んだ高山右近と、部下を死なせる
ことになっても全体の勝利に貢献したいと思った中川瀬兵衛。本当に正しかったのはどちらなのだろうか。


323: 人間七七四年 投稿日:2008/04/13(日) 17:59:25 ID:4T6p3u6I

>>321
当時なら中川。現代なら高山が正しい…だと思うけど。
ただこの戦いに限れば、戦死しても無駄死にでは無い気がする。


337: 人間七七四年 投稿日:2008/04/18(金) 02:59:18 ID:n2WOmkCO

有名な話だけどまだ出てないので一つ

黒田官兵衛は謀反を起こした荒木村重を説得するべく、
秀吉に命じられて村重の有岡城へと赴いた
しかし官兵衛は有無言わさずに村重に牢屋に閉じ込められてしまう
有岡城へ説得しにいった官兵衛が行ったきり帰ってこない
このことを知った信長は官兵衛が村重に寝返ったと勘違いし、
人質にとっている官兵衛の息子・松寿丸(のちの長政)処刑するように秀吉に命じる
秀吉は迷った挙句、信長の命令なので従おうとしたが、
竹中半兵衛が独断で信長には松寿丸を処刑したと報告し、密かに匿って
石田正継(三成の父)の元へ隠しておいた

やがて有岡城が織田の軍勢によって落城し、中からやせ細った衰弱した男が出てきた
足に障害を持っており、知っているものが彼が官兵衛であることに気づいた
秀吉は官兵衛が生きていたと知って喜んだが、官兵衛の息子を殺してしまったことに
罪悪感を覚えて素直に喜ぶことができなかった
するとそこに半兵衛が密かに松寿丸を匿っていたという報せが届いた
これに秀吉は自分の面目が立って喜び、官兵衛の方も息子の命を助けてくれた
半兵衛に感謝しても感謝しきれぬ思いを抱いた

しかしその時既にことの功労者である半兵衛は世の人ではなく、
中国攻めの陣中で没していた
官兵衛は息子の恩人である半兵衛に感謝の言葉を直接言えなかったことを深く悲しんだと言う

一方信長は生前の半兵衛が自分に内緒で松寿丸を匿っていたと知ると呵呵大笑した
「さては半兵衛め、またしてもやられたわ」
と呟いたという

半兵衛はその以前にも秀吉に進言して、柴田勝家の軍勢から無断退却させ
信長に反抗したことがあった
半兵衛が官兵衛の息子・松寿丸を匿ったことは
ある意味彼なりの信長への挑戦だったのかもしれない


341: 人間七七四年 投稿日:2008/04/18(金) 11:34:39 ID:/c/bhcs8

>>337
地味に正継の人の善さが伺える話でもあるな。


339: 人間七七四年 投稿日:2008/04/18(金) 08:25:02 ID:H668oxs4

ザビエルが日本にキリスト教の布教に来たときの話。

ザビエルが道端でキリストの教えを説いていると一人の男が質問してきた。
「キリストの教えを信じない不信仰者は死後に地獄へ落ちるそうだが、それなら、去年亡くなった
うちの祖父はキリストの存在自体知らなかったのだから地獄へ落ちてしまうのか?
祖父はとても良い人で周りから尊敬されていたのにおかしいではないか。あなたの説く教えが
それほど素晴らしいものなら、なぜもっと早く来てくれなかったのだ?」
この質問にはさすがのザビエルも返答に困り、後に本国への手紙で、日本において布教するには
論理学の知識が必要である、と報告した。


340: 人間七七四年 投稿日:2008/04/18(金) 08:40:26 ID:Irm3ufk0

>>339
そいつ、凄いな。


362: 人間七七四年 投稿日:2008/05/02(金) 14:53:27 ID:04mdqQMU

家臣に城を追い出され、暗君のイメージで語られる山名豊国。

江戸時代になって旗本(交代寄合)となり、但馬に領地をもらって帰ってきた。
帰郷した豊国はかつて毛利と結んで謀叛を起こした重臣の武田高信
(結局毛利に使い捨てられて殺された)の息子をはじめ、
かつて自分をひどい目に合わせた旧家臣の子を快く召抱えたという。


364: 人間七七四年 投稿日:2008/05/04(日) 17:53:07 ID:8gfY2BQu

>>362
人がいいな


365: 人間七七四年 投稿日:2008/05/05(月) 04:36:14 ID:WDAyC/Qw

>>362
そんな人の良さだから追い出されたんだな


392: 人間七七四年 投稿日:2008/06/20(金) 13:10:00 ID:HwpJsyKf

秀吉が天下を取ってからのこと。
京都の東山に松茸がたくさん生えていると聞き、
「松茸狩りをして遊ぼうではないか」と言い出した。

家臣たちが下見に行くと、すでに京の人々がほとんど採って
しまい、僅かしか残っていない。

そこで、彼らは、あちこちから松茸を取り寄せて、
こっそりと山に植えることにした。
夜を徹して作業を続け、何とか間に合わせたのである。

秀吉はお祭り騒ぎのようにして、やってきた。
見ると、そこらじゅうが松茸だらけ。
「これは見事」と、非常に機嫌がよい。子供のように、
はしゃぎながら松茸を採っていた。

すると、傍にいた女性が、秀吉の袖を引いて
「これは自然に生えたものではありません。誰かが、
植えたものでございます。殿下にはそれがお分かりになりませんか」
と、小賢しく言った。

秀吉は、手を振って、さえぎり、
「こら、言うな。俺たちを喜ばせようとして、皆がやったことだ。
これだけ植えるには、相当の苦労があったはずじゃ。その気持ちを
ありがたく受け取ってやらねばならぬ」とニッコリ笑ったと言う。


395: 人間七七四年 投稿日:2008/06/20(金) 13:32:52 ID:HwpJsyKf

宮本伊織=武蔵の養子(兄の子)

15歳で姫路藩(小笠原家)に仕官し、20歳で家老になる。
主家が小倉11万石に転封されてから筆頭家老。

彼は接待・宴席で豆腐料理を出されるとことさら喜んだ。
この噂は藩内はもとより近隣の国にも広まっていった。
そのため伊織がらみの宴席では豆腐がメイン料理となることが多かった。

晩年、使える女中が
「殿様はほんとうに豆腐がお好きなんですねえ」
と言うと、伊織はにこやかに笑って、
「本当に好きなものは他にあるのだが、
政務を司どるものが贅沢好きでは下に対してしめしがつかない。
それに、豆腐好きということにしておけば、余計な気遣いもさせなくて済む」
と言って女中に他言無用と約束させた。


398: 人間七七四年 投稿日:2008/06/20(金) 15:07:08 ID:rWhSNuxx

>>395
女中、おもいっくそ他言しとるがなw


400: 人間七七四年 投稿日:2008/06/20(金) 17:11:02 ID:O2sj2jZw

>>398
宴席で喜ぶ伊織……ところがここで女中がネタばらし。
いたたまれずに、恐縮する隣国の家老。「もう伊織殿に豆腐を出したりしないよ!本当さ!」


396: 人間七七四年 投稿日:2008/06/20(金) 14:37:02 ID:CiaSuIHl

全大村益次郎が泣いた


407: 冬広 投稿日:2008/06/25(水) 13:07:41 ID:zaTUmH0H

男のきずなの話

ある戦で前田利家と佐々成政が、二人がかりで稲葉某って豪傑を倒した。
曲がったことの嫌いな二人は、「稲葉に致命傷を与えたのはおめーだろ」って首の譲り合い
を始めるもお互い譲らず、果ては取っ組み合いの喧嘩になりそうになった。

そこに通りかかった柴田勝家が、「この首いらないの?じゃ、おれが貰う」って言って、唖然
とする二人を尻目に稲葉の首を勝手にもっていってしまった。
そして、二人は不承不承、主君・織田信長の城に帰還した。

すると、柴田が来て「利家・成政、殿がお呼びだぞ」って二人を呼んだ。
二人は「殿が何の用事だろ?」って不審に思いながら拝謁すると、上座に信長・そばには勝家が
ニコニコして座っている。
「そちたち、豪傑稲葉を打ち取ったそうだな。これは手柄である。しかも、その首を譲りあうとは
近年ない奥ゆかしいことだ。これも手柄である。いきさつはすべて勝家から聞いた。そちたちの手柄は
2つあることになるから、2人共に褒美を遣わす」って二人とも褒められた。

以後、2人は信長に一層の忠誠を誓い、粋なはからいをした勝家を兄貴と慕ったという。


410: 人間七七四年 投稿日:2008/06/25(水) 15:05:14 ID:SJQJ4T++

>>407
小牧長久手が悔やまれるな


422: 人間七七四年 投稿日:2008/07/05(土) 12:09:12 ID:MSxhTdI6

関が原の合戦の後しばらく戦の無い年月が過ぎたころ、
ある若者が可児才蔵の武勇を知り、試合を申し込んだ。
当日現れた才蔵は、甲冑に旗指物という姿、さらに銃を構えた配下を一人連れていた。
驚いた若者が「1対1のはずだが?」と言うと、
「わしの試合とは全てこのような実戦である」と答えた。


423: 人間七七四年 投稿日:2008/07/05(土) 12:17:22 ID:2oIztn+T

>>422
家康の、「橋の前で馬を降りる」と、本質的には同じ話だな。


425: ☆中山鹿之助☆ ◆.Ooo.qq.q. 投稿日:2008/07/08(火) 17:18:57 ID:jFqDvhLU

>>422
カッコイイハナシダナー・゚・(ノ∀')・゚・。


440: 人間七七四年 投稿日:2008/07/09(水) 22:22:40 ID:wZ74xq1p

福島正則の話
福島正則は粗暴で人を罰することも多かった。あるとき、近習の一人の武士がわずかなことで咎められ、一切食事を与えられず城内の櫓に閉じ込められた。
後日、もう餓死している頃だろうと思って正則が櫓に出向くと、その武士は餓死するどころか、顔色ひとつ衰えていなかった。


441: 人間七七四年 投稿日:2008/07/09(水) 22:24:03 ID:wZ74xq1p

「さて誰かこっそり飯を運んだな」正則は怒り、その者を捜し出して殺そうとした。すると、一人の茶坊主が死を覚悟して名乗り出てきた。


442: 人間七七四年 投稿日:2008/07/09(水) 22:25:14 ID:wZ74xq1p

「昔、私は罪を得て死にそうなとき、この方に助けていただきました。その恩に報いるため、飯を運んだのです」これを聞いた正則は目に涙を浮かべ、「お前の志には感心した。人間はそうあるべきだ」といって櫓の武士を許し、茶坊主を報償したという。


444: 人間七七四年 投稿日:2008/07/09(水) 22:54:00 ID:h8vz+p1c

一方正則は家康に媚びた


447: 人間七七四年 投稿日:2008/07/10(木) 02:05:30 ID:6R3v8Heb

戦国列強の一角を担った毛利元就
彼の嫡男隆元は、戦国の世には珍しい愛妻家で、側室を持たなかった
次男の吉川元春は、ブスと評判の嫁を貰ったが、やはり側室を置かなかった
そして、なんと三男の小早川隆景もまた、奥さん一筋であった
上の二人は後継ぎが生まれたのでまだしもだが、隆景には生まれなかった
にもかかわらず、側室を置かなかったのである
戦国一、嫁さんを大事にした一族と言えるだろう


863: 人間七七四年 投稿日:2008/09/04(木) 10:11:25 ID:1NHg0sgh

>>447
側室持たなかったのは立場的に無理だったからでは

・隆元
大内義隆の養女という当時毛利が臣従していた大内家から嫁をもらってる以上、側室なんて持てない
・元春
講談ベースに考えるなら、熊谷家との絆を考えた打算でブスを嫁にしてるから、
わざわざ側室を迎えて熊谷家との仲を微妙になんかしない
・隆景
二つに別れた小早川家を統一する為の結婚だったから、側室なんて持てない

まあそれを抜きにしても嫁さんを大事にしてるのは事実だろうけど


456: 人間七七四年 投稿日:2008/07/10(木) 20:21:49 ID:uMxE+C22

天下統一を果たした羽柴秀吉は、自分に臣従した大名を呼び寄せ、
舟遊びに興じた。秀吉は饅頭を用意して、船に乗り合わせた大名
達に配った。皆、美味そうに饅頭をほうばる中、長宗我部元親は
饅頭を少しかじって、そのまま紙に包んだ。
それを見咎めた秀吉が訊いた、
「長宗我部、その饅頭が気に入らぬか?」
長宗我部は答えた
「いえ、秀吉様に頂いた貴重な饅頭を、私一人で食べるのはもっ
たい無き事。持ち帰って家臣達と分け合って食べます。」
秀吉は大いに喜び、用意していた饅頭をすべて長宗我部に与えた。

一時は四国全土を席巻し、「土佐の出来人」と謳われた
長宗我部元親。彼ですら戦国の世で生き残るには、こうした心遣い
が必要であったのかもしれない。


471: 人間七七四年 投稿日:2008/07/11(金) 19:39:37 ID:nm+y5XnB

今度は本当に良い話

三成の奉行に平塚越中守という者がいた。世に知られた武士であったので、彼が浪人していた時
徳川家康も仕官を誘ったが

「家康公はケチなので嫌でござる」

と言い、気前の良い石田三成の元に使えた。
やがて関ヶ原が起こり、平塚は落ちのびる最中生け捕りにされた。
かつての事を覚えていた家康は引き出された平塚に「わしの誘いを断り三成に使え、この様か」と嫌味を言う。
それに平塚は「何を言うか!徳川殿とてかつては今川に人質にされ、戸田にさらわれ織田に売られたような身で
あったではないか!」と家康を散々に罵り、「さあ、早く首をはねよ!」と啖呵をきった。

それを聞いて家康はにやりと笑い
「さても憎い奴だ。お前のような奴に一瞬しか苦しまない斬首はもったいない。生かして世の苦しみを味あわせよ」
といい、縄を解き召し放してしまった。

左右の者たちが「何故あのような無礼なものを!これでは処罰になりませぬ!」と抗議すると
家康は、「あ奴は見所のある奴だが、苦労が足りぬ。苦労して人を磨けば、わしの息子達の家臣にしたいほどの、
良い武士になるであろう。そう見込んだから、命を助けたのだ。」といった。


この平塚越中守の名が、紀伊家初代、徳川頼宣の家臣の中に現れるのは、この暫く後の話である。


519: 人間七七四年 投稿日:2008/07/19(土) 14:00:28 ID:xajQCAlt

細川幽斎が家老の松井を夕食に誘った際の事

何があったか松井の到着が送れて、せっかくの料理が出すに出せない。
料理人が「今日のメインディッシュに用意した塩鯛が、焼けすぎてしまいます!」と愚痴を言う。
それを聞いて幽斎は一句

来ぬ人を まつ井の浦の夕めしに 焼き塩鯛のみをこがしつつ

おなかがすいてイライラしていたご相伴一同、これにはどっと笑って場の雰囲気も一気に良くなったとか。
幽斎のインテリ文化人らしいお話。
(定家の「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の身もこがれつつ」のパロディ)


520: 人間七七四年 投稿日:2008/07/19(土) 23:06:19 ID:ZyON3uCE

>>519
いい話ではあるんだけど
同伴衆もそれに見合う教養がないと座が和まないと思われ

・・・
ま、戦国~江戸初期じゃ武将レベルはこれが普通だったんでしょうか。
秀吉の子飼いはこのレベルに達してるか怪しそうなのがいるがw


606: 人間七七四年 投稿日:2008/07/30(水) 18:41:47 ID:COKc/+Xw

豪勇の木山弾正、外戚の天草伊豆守に恩返し     いい話だ!



肥後赤井の城主木山弾正は豪勇をもって聞こえた武将であったが、島津の北上によって城を失い、
外戚の故をもって天草伊豆守に迎えられ、客将として本戸城にこもった。

天正17年、たまたま宇土築城の加勢をめぐって、天草の諸将は小西行長と対立し、ついに行長の天草攻めとなった。
行長は豊臣秀吉に上訴し、加藤清正の応援を得て、まず志岐城を攻めた。弾正は兵500を率いて志岐へ向かい、仏木坂に清正を迎えた。
単騎敵将清正を求めて、敵中深く突入し一騎打ちをいどみ、清正を組み敷き、まさに首級を挙げんとした時、
主君危うしと駆けつけた自分の家来の誤った槍にかかり、豪勇並ぶ者もない弾正も遂に戦場の露と消えたのである。


607: 人間七七四年 投稿日:2008/07/31(木) 01:08:40 ID:qK6BraY+

直江兼続、後世の人のために、経験から得たものを訓戒として書物にあらわした。
その本の一節

「おしっこした時泡が立たない日は、大変な事が起こる。気をつけろ。」


644: 人間七七四年 投稿日:2008/08/06(水) 15:30:48 ID:7uvutoS3

>>607

爆笑


609: 人間七七四年 投稿日:2008/08/01(金) 01:35:17 ID:R/HRy/la

続・直江兼続公の残した書物に見える、後世の皆様へのいい教訓。


「死ぬ気でやれば、案外何とかなる。」


610: 人間七七四年 投稿日:2008/08/01(金) 06:00:24 ID:5GW9Vz3W

なんとかなったから言えるんだよ
なんとかならなかった奴は死んでるんだから後世に言葉残せねーもん
そりゃ努力とか頑張れとか賛美されるわ
ダメだった奴は一切記録に残らない
地面に落下するときは力抜くと怪我しないってのとおなじ
なんとかなった奴らの数億倍の死ぬ気で頑張ってもなんとかならなかった連中は
あの世で「頑張れば何とかなるなんてうそやんねー」って言いあってるわ


611: 人間七七四年 投稿日:2008/08/01(金) 09:04:13 ID:dYMuOgRx

いい話だなw


678: 人間七七四年 投稿日:2008/08/15(金) 14:34:11 ID:KVBHsnmJ

毛利元就が、息子小早川隆景に当てた手紙

「その家の主人が家臣を殺す事は、手足を切るようなもので最悪の行為です。
これ以上悪いことはありません。
一般に家臣を殺す事は、その主人に器量がないためで、器量のある主人は
家臣を殺すような真似はしません。
よくよく、心得て置いてください。」

実はこの手紙、元就が、家臣の中での最大勢力だった井上一族を粛清したすぐ後に書かれたものである。
無論隆景もその事は充分に知っている。その上で、元就は自身の苦悩と自戒を篭め、この手紙を書いたのであろう。


679: 人間七七四年 投稿日:2008/08/15(金) 16:12:29 ID:VNn7FGvB

>>678
これは深イイ話だなぁ。
「お父さんを見習うな」
っていうことを伝えたかったのだろう。優秀な息子が育つわけだなぁ。


682: 人間七七四年 投稿日:2008/08/16(土) 00:44:08 ID:JuFABJ3e

佐竹義重の配下に、浜野正杞と言う侍がいた。彼は天正12年(1583年)の沼尻の合戦で武功を上げ、
義重は政杞に、直々に戦功をたたえた書状を与えた。

時は過ぎて関ヶ原合戦のあと、佐竹家は出羽に国替えとなった。この頃政杞は既に老齢で、
「もうお供も出来ません」と、佐竹義宣から暇を取り、下総で帰農した。やがてこの地で死ぬが、
その時
「何かの役に立つ事もあるだろう」
と、義重の書状だけは後に残した。しかし、彼には娘一人しかおらず、この娘は結局嫁に入り、
浜野の家名は断絶した。

その下総に、新たに水野忠光が領主として入ってきた。彼は、どこかからかこの義重の書状の話しを知り、
「鬼義重と呼ばれたほどの武将の筆、是非拝見したい」と、自ら娘の嫁ぎ先にまで出向き書状を見た。
これによりその書状は有名になり、佐竹義宣まで父親の文章を見るために、参勤交代の折わざわざ立ち寄った。

そうして、沼尻の合戦からおよそ100年後、元禄11年(1698年)の佐竹藩の家臣名簿に、浜野久兵衛という名前が現れる。
浜野家は、佐竹藩において再興されたのだ。

侍の命がけの武功とは、子々孫々にまで影響を与えるものだ、と言うお話。


683: 人間七七四年 投稿日:2008/08/16(土) 05:51:20 ID:MbkgHhMr

( ;∀;)イイハナシダナー


684: 人間七七四年 投稿日:2008/08/16(土) 07:01:51 ID:ynOi68BW

(;∀;)いいスレだなぁ


690: 人間七七四年 投稿日:2008/08/17(日) 21:47:33 ID:ZF46RlkB

 若き頃、半身不随となった立花道雪は身の回りの事を
専ら小姓達に任せていた。皆、道雪に見込まれた若達で
あった。
 ある時、道雪の屋敷に客が来た。接客は道雪の小姓達
が担当していた。その小姓の一人が緊張のあまり、客の
膳を取り落とし、料理を座にぶちまけてしまった。時は
戦国である。粗相のひとつで戦になる世である。詫びて
腹を切ろうとする小姓を道雪は制し、客に言った。
「私の家臣が粗相を致し、誠に申し訳ない。だが彼は、
ひとたび戦となれば、体の動かぬ私のかわりに、真っ先に
敵に向かって行く、勇敢な奴です。戦の粗相なら致し方な
いが、接客の粗相は主人の責です。どうかお許しくだされ。」
道雪の小姓達も一同に進み出て、「お許しくだされ。」と
平伏した。
これを見た客は、立花主従の絆に深く感動し、粗相を許した。


 後年、道雪は死を陣中にて迎える。最期の命令は
「私の遺骸に甲冑を着せ、敵陣に向けてこの地に埋めよ。もし
この命に背けば、悪霊となって祟る。」であった。
だが家臣達は道雪の遺骸を敵地に捨て置き、逃げる事など出来
ない。皆は決めた。
「道雪様は皆で領地にお運びしよう。もし祟りがあって、道雪
様が枕元に立たれるなら、喜んで腹を切ろう。道雪様に見届け
て頂けるなら、これほどの幸せは無い。」

 生涯三十七度の戦を戦い抜き、主君大友家を支え続けた道雪。
彼が守り抜いたのは大友家だけではなく、戦国の世に稀に見る、
主従の絆であった。
その絆は彼が薫育した愛息、立花宗茂に受け継がれていくのである。


691: 人間七七四年 投稿日:2008/08/17(日) 21:50:09 ID:552cM3GS

>>690
ちょ、マジ泣きしたんだがwwww


692: 人間七七四年 投稿日:2008/08/17(日) 22:10:26 ID:YkujUi/d

>>690
男子たるものかくありたいものだ。


700: 人間七七四年 投稿日:2008/08/20(水) 20:25:41 ID:vAyBjRy1

小堀遠州と細川忠興は共に、世に文化人大名として認識されていたが、忠興は遠州のことを
酷く嫌っていた。かつて二条城で二人が出会ったとき、挨拶しようとした遠州を忠興は無視して
通り過ぎたこともあった。「遠州の茶道は武士のたしなむものではない」
忠興はそのように思っていたらしい。

その、遠州に危機が訪れた。
かれは幕府の依頼で五機内の天領の管理を任されていたのだが、あるときそこに、幕府の財政調査が入り、
遠州管理下での財務が、大幅な赤字に陥っていることが判明した。
「遠州は責任を取って切腹させられる」「小堀家もお取り潰しか」
遠州には、大名幕臣にも多くの弟子や友人がいたが、事は幕府天領の問題。幕府を恐れ、誰も、遠州のために
動けずにいた。

このとき、一人の大名が声をあげた。
細川忠興である。

「遠州は名高き数寄者である。このような過失により彼を滅亡させてしまっては、天下の名器を失うと同じではないか」

そしてかれは、すぐさま遠州に一千両を届けた。
これを聞いた遠州の友人、知人、そして茶の道を嗜む多くの者たちが、忠興に続けと、次々と遠州に寄付を申し出た。
たちまちのうちにその金額は借財の倍にもなり、遠州は無事、この危機を乗り切った。小堀家は、改易を免れた。

感激し、感謝の念を伝えた遠州だが、、忠興はそれ以後も以前と同じく、遠州の芸術を断固として認めなかったという。


703: 人間七七四年 投稿日:2008/08/20(水) 21:09:15 ID:U4Y1zlL1

>>700
忠興かっこいいじゃんw


707: 人間七七四年 投稿日:2008/08/21(木) 16:35:23 ID:63KWg4k+

立花道雪、宗茂の家臣団、由布惟信(雪下)の話が上の方にあったので小野和泉出しちゃう。
守銭奴と呼ばれ周りからも煙たがられ更に家臣からも嫌われ賄賂を貰いまくる和泉

度重なる戦にて立花家に財政難がやがて訪れる、2度目の朝鮮出兵時立花家には戦に参加
出来る戦費などない、戦に参加できないことは当然御家の危機でありまた恥である。
そんな時小野和泉は守銭奴と呼ばれながらも貯蓄していた全ての財を立花家のために提供
和泉は周りから何を言われようと立花家のため悪役を買っていた、これを知った家臣達
は小野和泉こそ誠の忠臣と崇めたと言う。


711: 人間七七四年 投稿日:2008/08/21(木) 19:30:58 ID:YIAHXffg

>>707
吉村貫一郎みたいでかっこいい


745: 人間七七四年 投稿日:2008/08/25(月) 22:01:27 ID:wXE9e13M

じゃあここはネタを投下する 直江つながりで対戦相手の最上ネタ。

最上家中鮭延秀綱配下に、に鳥海勘兵衛という若い侍がいた。
彼はある日、義光の奥方に仕える侍女に一目惚れしてしまい、ひそかに
恋文をやりとりするようになった。ところがある日、これが発覚し義光は激怒、
二人は死罪を言いつけられた。
これを聞きつけた鮭延秀綱は義光を諫め、勘兵衛がいかに勇敢か、過去の武功を説いたところ、
義光は二人を許し、勘兵衛に侍女を妻としてめあわせた。

これからおよそ半年後、長谷堂合戦で鮭延秀綱は志村光安とともに、
城の防衛にあたった。鮭延勢奇襲の際、あやうい秀綱を若武者が救い、
討ち死にした。鳥海勘兵衛であった。
彼の遺書には主君への感謝と、妻と過ごした日々の喜びが綴られ、
「この御礼には命をもって報いるしかない」と記されていた。
勘兵衛の妻は、夫の葬儀が終わると自害しあとを追った。
二人が夫婦であったのは、僅か半年ほどであった。

戦後、鮭延秀綱は義光にこの遺書を見せた。義光は号泣し、
かつて勘兵衛夫妻を罰しようとしたことを恥じて、手厚く弔ったという。


753: 人間七七四年 投稿日:2008/08/26(火) 01:09:22 ID:EY/9yNZD

>>745
もっと鮭の話をくれ


752: 人間七七四年 投稿日:2008/08/26(火) 00:35:41 ID:ttDF3EWe

毛利隆元が急死したのは、41歳の若さであった。

落胆する父元就に、厳島より一通の文章が届いた。彼が死ぬ八ヶ月前に、厳島神社に奉納していった物だという。
それには、こう書かれていた

「どうか、父を長生きさせてください。もし、父に巳歳の災難が降りかかると言うのであれば、どうぞ、私を身代わりにしてください。」

元就は、あふれる涙を抑える事ができなかった、と言う。


754: 人間七七四年 投稿日:2008/08/26(火) 02:43:46 ID:NKr2CleZ

>>752
隆元は望み通り父の身代わりになったのですね
いい話だな~(;Ⅱ;)


755: 人間七七四年 投稿日:2008/08/26(火) 04:09:44 ID:WWmN0/t2

生かされた元就の方はたまらなかっただろうけどね・・・

隆元が死んだ1563年の毛利の事情はどうだったのか、
元就でなければ乗り切れない局面だったのか、
戦国にわかの俺にはわからない


765: 人間七七四年 投稿日:2008/08/27(水) 14:55:52 ID:WpZrE5MP

食い気の話から無骨者の話。
関が原の合戦で小早川秀秋が4時間も悩んで、あげく大砲を打ち込まれて決心した、
という話が通説になっているが・・・

一番備を勤めた松野主馬、裏切りのことは極秘ゆえ事前に知らされてはいなかった。
そこに「西軍を攻撃せよ」命令が届く。
彼は激怒して「最初から東軍に属するならともかく、今に至って裏切るなど、そのような軍法はない」
と自軍をガッチリ固め、味方に対して壁をを作った。
小早川軍の動きを封じてしまったのだ。
再三の説得にも応じず時間は過ぎていく。
「主君の命を聞かないことこそ裏切りだ」と言われ、
それならばと自軍を引き連れて戦場を去って行ってしまった。
それでやっと小早川軍は動くことができた。

戦後小早川家を出奔したが田中吉政に3万石で召抱えられ、
晩年は本多能登守から500石を給され道栄と名のり安楽に余生を送る。


767: 人間七七四年 投稿日:2008/08/27(水) 20:38:59 ID:PoBnvWko

鮭の関わる話はいいなぁ


815: 人間七七四年 投稿日:2008/08/31(日) 13:49:42 ID:AkpVdDD0

文亀年間の頃、九条政基がその所領である、和泉国、日根庄に下向していた頃の話。

和泉守護と九条家は、その領地の境界を争っていた。ある時、日根庄内の入山田村の住人二人が、
和泉守護細川氏の家臣によって拉致されると言う事件が起こった。

政基はすぐに、家臣の塩野兵庫助を、守護の滞在する堺へと派遣した。
くどくどと言い訳をする守護側に、塩野はこう言い放った

「所領問題に気に入らないことがあるのなら、それは百姓の責任ではない、和泉細川家と我が九条家の問題である。
九条家の家来である私が今ここにいる。私を拘束し、かわりに百姓を開放しなさい!」

同じ頃京では、政基の工作により、細川の本家である京兆家から「九条家は報復として、和泉細川家の
係累を人質に取るといい。我々も協力する。」との言質を取った。和泉細川家は追い込まれた。

結局、守護側は何も出来ず、拉致した百姓を開放した。

当時は公家であっても、地下の領民のためにすら、これだけのことをした、と言うお話。


816: 人間七七四年 投稿日:2008/08/31(日) 14:39:30 ID:T0WBPrV4

( ;∀;) イイハナシダナー


823: 人間七七四年 投稿日:2008/09/01(月) 01:10:44 ID:OqZOmtq7

寺を守る話

永禄四年(1561)、武田信玄が上州に侵入してきた。
当地の大寺である長年寺は戦乱に巻き込まれることを恐れ、僧、受連は信玄から、
「予の軍勢がこの寺で略奪や暴力、破壊行為などの狼藉を行うことを禁止する」との制札を手に入れた。

が、戦乱は長引き、長年寺周辺も無事ではすまない状況になってきた。
寺に住んでいた200人あまりの僧俗に、受連は「このままでは危険である。皆、避難するように」と言った。
僧の一人が「しかし、我々がここから避難してしまえば、この寺は軍勢にどうされるか…」

受連「私が、守るよ」

彼は一人この寺に残った。戦禍は、たちまち長年寺に襲い掛かってきた。武田の足軽たちが
あるいは食物を、あるいは資材を、あるいは金銭を奪いに、長年寺に押しかけてきたのだ、そのたびに
受連は一人門前に立ち、戦場で荒くれている軍兵を前に、制札を掲げた。

「ここは保護された場所である!」

ある時は刀で脅され、ある時は暴行を受け、ある時は着ているものを身包みはがされたこともあったと言う。

やがて上州の情勢が落ち着く。避難していたものたちが、長年寺に帰ってきた。
そこには、

かわらぬ長年寺の姿と、痩せこけ、体中に傷を負いながらも、門前に立ち彼らを迎え入れる、受連の笑顔があった。


824: 人間七七四年 投稿日:2008/09/01(月) 01:34:43 ID:1hH+R0Zj

これはいい話だ


825: 人間七七四年 投稿日:2008/09/01(月) 02:09:49 ID:A5W0CLpW

ホントにいいボウズは違うね


826: 人間七七四年 投稿日:2008/09/01(月) 02:21:36 ID:9kfSACql

やべえ、めっちゃいい話だ


848: 人間七七四年 投稿日:2008/09/03(水) 02:32:22 ID:ih8VIv8T

明応七年八月、今の静岡県南方海中を震源とする大地震が起こった。

推定されるマグニチュードは8.2~8.4.阪神、淡路大震災の、数十倍の規模であった。
この地震は房総半島から東海、紀伊半島にいたる地域に、大津波を起こした。
伊豆半島も大きな被害を受けた。が、伊豆を預かる堀越公方の政庁は、この災害になんら具体的な
救済を行わなかった。伊豆の地には多くの死体が放置され、被災し、苦しむ人々が溢れた。

その時である

海上に、多くの船舶が現れた。まっすぐこちらに向かってくる。
「海賊か?」
住民たちは逃げようとした。しかしどこに?堀越公方の政庁は、自分たちを助けてくれない。
そうこうしているうちに、船は接岸し、侍たちが上陸してきた。
たくさんの医師を伴って。

侍たちは早速炊き出しをし、医師たちは被災した家々を回り、病人、けが人の治療をし、薬を調合した。
多くの命が、救われた。

この船を率いてきた大将も、いっしょにかゆを配り、病人を看病した。
この男の名は、伊勢宗瑞。後に北条早雲と呼ばれる武将である。


860: 人間七七四年 投稿日:2008/09/03(水) 16:37:08 ID:NVGcmZPt

>>848
なんか泣けてきた


849: 人間七七四年 投稿日:2008/09/03(水) 03:12:18 ID:RGznkm6T

阪神の際の山口組を真っ先に思い出した俺は…


965: 人間七七四年 投稿日:2008/09/09(火) 22:51:19 ID:wxjz7Dnl

毛利輝元には一人の娘がいた。

大名の娘である。自家の政治的立場のため、他家に嫁がせるのが当然の存在であった。
娘も毛利家のためにと、その事はよく理解していた。が、一人、それをたまらなく嫌がっている者がいた。

お父さんは、心配性だったのだ。

「あの娘はわがままに育ててしまって、他の家に嫁いだら、そこのしきたりに我慢できるわけがない!
いややっぱり無理だ!結婚なんてさせるわけには!」

姫の結婚話を切り出した毛利秀元に輝元は、そんな親バカ丸出しの手紙を出したりしている。
しかし毛利家の姫を、いつまでも独身のままにしておくわけにはいけない。
秀元が口説きに口説き、「では、一門のものでしたら殿も安心でしょう。」
それでも渋る輝元ほっておいて、秀元、一門吉川家の吉川広正との結婚話をさっさとすすめ、どうにか、結婚の
運びとなった。

結婚の日輝元は娘に
「この結婚に不満があるかもしれないけど、行儀を良くし、吉川の家中を広正と一緒にまとめていくんだよ。
お前は気が短いから、腹の立つこともあるだろうけど、そのときは我慢するんだよ」と、娘を切々と心配する
手紙を渡した。

「この結婚に不満があるのは誰のことかしら?」と、手紙を読んだ姫が、そう言ったとか言わないとか。


966: 人間七七四年 投稿日:2008/09/09(火) 22:54:25 ID:b+pLbbNO

結婚式の二次会で泣きながらカラオケ歌ってそうだな、輝元


978: 人間七七四年 投稿日:2008/09/11(木) 01:00:51 ID:amhDpDud

毛利元就が1570年、出雲に攻め込んだ時のお話

家臣、岩木道忠が尼子軍に左膝を矢で射られた。
医師に見せたが矢じりが体の中に残ってしまい、なかなか取れない。医師は
「切断しないと、無理です」
元就は、そうかと頷くと、いきなり岩木の傷口に口をつけ勢いよく吸い込んだ。

あら不思議!
矢じりが取れたではありませんか!
元就は医学に通じていたので医師の誤診を見抜いていたのだった

傷が治った岩木は感激して
「いよいよ、死を覚悟してあなたに尽くします」と誓った。
ところが元就は、
「こんな事ぐらいで、すぐ死のうと思うのは本当の忠義者ではない。
もっと別の事で俺のために働け」
といったという。

岩木はあらためて元就に忠誠を誓ったのであった


979: 人間七七四年 投稿日:2008/09/11(木) 01:10:16 ID:KIzhuNfv

あら不思議わろたw
なんで童話口調なんだww


980: 人間七七四年 投稿日:2008/09/11(木) 01:15:13 ID:dd4UaSLm

惚れるぜ元就
1570年っていったらもう結構歳なのにカッコいい




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