【感動】ハンカチ無しでは読めないスレ てんこもり。


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【感動】ハンカチ無しでは読めないスレ

1: 病弱名無しさん ID:Dx9J0WGM

病気や怪我と闘った人の話や
病気や怪我が生み出した感動するエピソードなど
涙を拭わずにはいられないような話を聞かせてください。
他人から聞いた話でもご自分の話でもどちらでも結構です。

5: 病弱名無しさん ID:pu2ejaSO
知人の娘が3歳で亡くなった。 
ウイルスが脳に入ったかなんかの病気だったと思う。 
入院して1週間だった。 
娘が入院してる時、知人の奥さんが病院のベッドで寝ついた我が子を見て 
缶コーヒーを買いに外に出ようとしたら、 
寝ていたはずの娘が「おかーさーん」と呼んだ。 
奥さんがあわててベッドの傍に戻ったら 
「おかーさん、心配掛けてごめんね」 
と3歳の子供とは思えない言葉を消え入るような声で言って、 
小さな手で奥さんの手をきゅっと握ったらしい。 
それが最後の言葉だったとか。

7: 病弱名無しさん ID:qMMGNRHE
昔、付き合っていた彼女が精神的不安定で自傷癖や不眠症をわずらっていて、 
その彼女のストレスがいつも俺に向けられた。いつしか俺もそんな彼女と一緒にいるのが 
嫌になり、別れ話をきりだすことになった。彼女のことは好きだったけど 
俺も若かったし、もっといろんな可能性を夢みていた。 
俺が別れ話を切り出すと彼女は意外とあっけらかんとしていて「私も別れようって思ってた。」と言った。 
俺はその時ちょっと安心して彼女の家を去った。帰りの電車の中でいままでの彼女といた3年間の出来事を思い出していると涙が出た。 
彼女も同じ気持ちだろう、俺に気を使ってあんなに気丈に振舞っていたに違いないと思うと 
ほんとに彼女に申し訳ないことをしたと思った。 
今は俺も30になって結婚もしている。俺のかみさんは今はもう元気になって精神状態も安定して、 
お互い幸せに暮らしている。 
あの時電車を途中で降りて死のうとしていた彼女のもとに戻らなかったらどうなっていただろうとふと考えることがある。



8: 病弱名無しさん ID:wzhyQky+

>>7
彼女さん良かったね。
本当に良かった。
( ´Д⊂


10: 病弱名無しさん ID:378AfHCg

以前は小児がんの子どもを持つ母の手記に記されていた話。
その5歳の男の子はお母さんがとにかく大好きで、自慢だったそうです。
でももう手遅れの小児がん。

ついにその時がやってきました。
男の子は、口も利けないほど苦しい発作の最中にもかかわらず
母呼び寄せ、こう言ったそうです。
「かあちゃん、僕が死んでも悲しんでばかりいるなよ。
 ちゃんとお化粧しろよ。おばさんになっちゃ駄目だよ。」

その子の中では永遠に若くて綺麗なお母さんなんだろうな~


12: 病弱名無しさん ID:pUIWn2Ha

>>5
>>10
。・゚・(ノД`)・゚・。

その時の親の気持ちとか子供の気持ち考えると
マジ涙が・・・。

良スレの予感・・・


18: 病弱名無しさん ID:hOqjpaZH

妻が入院してる時、中学生になる姪っ子と一緒にお見舞いに行ったことがあった。
帰りの電車の中、姪っ子のふとした一言に切れてしまい、「うるせーだまってろ!」っと
怒鳴って、ひどく叱ってしまった。勿論そんな風に怒鳴ったことも今まで無かったし、姪っ子も悪気があって言ったんじゃないってことはわかっていた。
姪っ子は妻譲りの気の強い性格で、「そんなに怒んなくてもいいんじゃない」と言って次の駅で降りてしまった。
最悪の気持ちだった。
この先妻はどうなってしまうんだろうという不安や心配・ストレスを姪っ子に向けてしまったことをほんとに後悔した。
なんだか救われない気持ちと辛い気持ちでいっぱいになった。そんな時俺の隣に座っていた全く知らないおばあちゃんが俺に向かって
「さっきのお嬢さんもあなたのつらい気持ちがわかる日がくると思うわ。」っと言ってくれた。
なんだかすこしすくわれたような気がした。


19: 病弱名無しさん ID:cYwGEcQ1

祖母が弱ってきて、寝たきりになった時、遊び盛りだった私は
見舞いにも行かなかった。
母から、もう何もわからなくなってしまって意識もない、いよいよだと
聞かされて、さすがに心苦しく思い顔見せに行くことに。

病室に入ると、やせ細った姿の祖母がいました。
母に「手にぎってあげなさい」といわれ、そっと握ると
意識のないはずの祖母が手を強く握り返してきて、目からは涙が・・・

握った手のぬくもりから、幼い頃手をつないでいろいろなところに
連れて行ってもらった記憶か蘇って号泣してしまいました。

祖母がなくなったあと、遺品の中からスケッチブックが。
まだ意識のあった頃に病室で書いたと思われるそれには
私や、孫たちの絵で埋まっていました。


37: 病弱名無しさん ID:ZlQG14M7

>>19
似たような体験してました。
当時の事思い出すと、ちと泣けます・・・。
おれも成長して(現在28)両親も年取って、この先どうなるかわからない年齢だし、今の内に出来るだけの孝行を
しておこうと思います。
いくらしても、やりつくせるもんじゃないんだろうけどね・・・。


21: 病弱名無しさん ID:tAAlP/bq

ポケベルがはやっていた時、私の父親もポケベルを持っていたんだけど、私がいくら説明してもうまく操作できなかった。
父親はその時から癌におかされていて、父親が死んだ時、病室の引き出しから一枚の紙がでてきた。
おばあちゃんやお母さんはその紙を見て「なんだろね、これ?」と言って私に見せました。
その紙には数字の羅列が書いてありました。
私は一見しただけでそれがポケベルで使われる数字を使った文章だとわかりました。
涙が出てきました。
「お父さんもがんばるから、おまえたちもがんばれ」と書いてありました。


23: 病弱名無しさん ID:N+cujxVv

良スレですわ。涙で画面が見えません・・・


25: 病弱名無しさん ID:BAYtiWaJ

感動とか言うよりも、未だに思い出す度に
後悔の気持ちでいっぱいになって自分自身が泣けてくる話を一つ…。
多分と~っても長いです。
長文苦手な方は読み飛ばしてくださいね。

私がまだ小学2年の頃、継母が父の後妻として一緒に住むことになった。
特に苛められたとかそういうことはなかったんだけど、
なんだか馴染めなくて、いつまで経っても「お母さん」と呼べないでいた。
そんなぎくしゃくした関係だったけど、
継母が私のために一生懸命だったことはよくわかってた。

小学校4年になった夏休み、
私は継母の提案で二人で川に遊びに行くことになった。
あんまり気が進まなかったけど、
断る理由もなく言われるままにしぶしぶついていった。
現地に着くやいなや、私は継母のことを放ったらかしで川に浸かって遊んだ。
しばらく水と戯れてた時、急に深みにはまって溺れて息が出来なくなった。
すごく苦しかった。
でもそのうち喉の奥が「クッ、クッ」と鳴ってだんだん苦しくなくなってきて、意識が飛んだ。
--------------------------------------------------------------------------
やばい、また涙が出てきた。
でも、今の自分を客観的に見るためにも頑張って続きを書きます。
あと1~2レス続きます。


26: 病弱名無しさん ID:BAYtiWaJ

(~続き)
気が付くと、私は病院のベッドで寝ていた。
一時心臓が止まって危なかったんだよと涙ぐんだ父が言ってた。
ベッドの傍に、継母はいなかった。私は父に「あの人は?」と訊いた。
父は一呼吸置いてゆっくりとした口調で教えてくれた。
私が溺れた時に継母が服のまま飛び込んで私を助けてくれ、
そのまま力尽きて下流まで流された。
その後救助されたものの、今も意識が戻らないのだ、と。

私は次の日に継母のいる病室に行った。
継母は機械に囲まれて、いっぱい管をつけられていた。
彼女は、そのまま我が家に戻ってくることなく…。

葬儀が終わって母の遺品を整理してたら、鍵のついた日記が出てきた。
私は父と一緒になんとか鍵を探し当てて、日記を読んだ。
そこには私との関係に悩む継母の苦悩など、私のことばかり書いてあった。
ずっと読み進めていくと最後のほうの日記に
「ちょっとはにかみ屋さんだけどとてもいい子。
あの子なら、命かけてでも守れる自身がある。
○○ちゃんを私に託してくれた△△(実母の名前)さん、本当にありがとうございます。」
(~まだ続きます)


27: 病弱名無しさん ID:BAYtiWaJ

(~続き)
継母は、あの日記を書いた数日後に命と引き換えに私を守ってくれた。
いつだってとても優しい目で私を見てくれていた。
いつも私の目線と同じ高さになるように中腰になって話し掛けてくれた。
そんな気持ちはちゃんと伝わってきてたのに私はあの人に何一つしなかった。
愛情をもらいっぱなしでそれに答えなかった。
私は愛情どころかあの人の命まで奪ってしまった。
日記を読んではじめて、私は「お母さん!」と大声で叫びながら錯乱状態になり、
声が出なくなるまでごめんね、ごめんね、と言って泣いた。
ぐしゃぐしゃになって泣いても、後悔ばかりで気持ちは晴れなかった。

年月が過ぎても、私は未だに「母」に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
数十年経った今でも夏になるたびに思い出す。
(終わり)


28: 病弱名無しさん ID:BAYtiWaJ

こうして文章にして不特定多数の人が見る場所に晒してみて、
ちょっと気分が晴れました。
うまく表現できないけど、
もしかしたら母が見に来てくれるんじゃないかと思えるような。


29: 病弱名無しさん ID:vtA+skJK

>>28
凄いせつなくて、でも感動した。血のつながりばかりが全てではないんだね。
実の子をも殺す親もいれば、こんな風に、血のつながりがなくても、それ以上
のものを与えてくれる人もいる。
きっと今でも見守ってくれているでしょう。


30: 病弱名無しさん ID:di7mWf6A

立派やなあ。お話してくれておおきに‥(涙


46: 病弱名無しさん ID:y3Ray4aC

ガンで3年前に亡くなった主人。
看病疲れでうとうとしてしまうと、必ず
自分の布団を私にかけてくれていた。
元気な時は口うるさくて頑固で、何をしてあげても
感謝の気持ちも何も表してくれなかった。
そんな主人の最後の言葉は
「いろいろありがとう。ひとりにして申し訳ない」
でした。


47: 病弱名無しさん ID:NLFkSXte

>>46
旦那さんはきっと普段口には出さなかっただけで
本当はとても感謝してたんでしょうね。
シャイな人だったのかな?


57: 病弱名無しさん ID:dSNDGflh

>>46
自分が死の床に居ながらもこの世に残していく
奥さんのことがきがかりに感じられるような
やさしいご主人だったんでしょうね。
泣けました。


50: 病弱名無しさん ID:lWshFNid

私は看護婦で病棟に勤務していたことがあります。
整形外科が主なので、まず死んでしまうことは稀で
みんな手術が終わると元気になって退院していくことが多かったのです。
しかし、そこは混合病棟で昨日まで元気に花の世話をしていた人が亡くなるということもありました。
また、小児科病棟に異動になった時には
小さな子供が病気と戦い、亡くなっていく姿に耐えられず私は看護婦をやめました。

今は、一人でも多くの人が病気で亡くならないよう予防の分野を広めようと
保健師をしています。
みなさん、『親と健康のありがたさは失って初めてわかる』って本当ですよ。


58: 病弱名無しさん ID:t7cxZk7b

私が職場で倒れ、救急車で運ばれた時同じくして、
家で飼っていた犬が鎖から抜け出し、道で轢かれて息をひきとった。
入院中の私を気遣ってその事を教えられなかった私は
病院食の残りの食パンを「犬に食べさせてあげて」と両親に渡していた。

時が流れて、何かのTV番組の中で犬が主人の病気や事故の変わり身となって
死んでいくパターンがあると言うのを見て、私の場合もこれだったのかと
思ってしまう。
ありがとう、私は今日も元気に生きています。


66: 病弱名無しさん ID:ZaF6AlsP

俺も一つ

20歳の頃、一人暮らしをしている俺は遊びほうけていた。
たまに実家に帰ると、小学生の頃から飼っている老犬が気だるそうに顔を上げて
俺の帰りをよろこんでくれた。 
尻尾をフリながら出迎えてくれていたが、繋がれた鎖はそのままで
散歩に行くことさえ俺は億劫になり、用事を済ませては、すぐに実家を後にした。

そんなことが1年くらい続き、21歳の誕生日に母から電話が入った。
誕生日のお祝いの電話と昨日、犬が死んだとの事の知らせだった。

なんだか不思議な運命を感じながら、しばしの間散歩に連れて行ってやれなかった
ことを悔やんで、泣いた。


80: 病弱名無しさん ID:cfYLD4L0

1/2

私の祖母は今年の7月に死にました。
祖母は両親以上に私のことに気を使ってくれて、
家族の中では一番世話になったといってもいいくらいでした。
今年の4月、私は進学のため実家を離れることになりました。
そのとき祖母は癌でいつまで生きられるか解らなかったのですが
祖母は私が出発するとき見送りに来てくれました。
そして一ヵ月後ゴールデンウィークに家に帰りましたが、
もう祖母はほとんど寝たきりでほとんど話すことが出来ませんでした。
それからは祖母の様子を電話で聞いたりしましたが
状態はどんどん悪化していったようです。


81: 病弱名無しさん ID:cfYLD4L0

2/2

そして7月のある日、この日も何気に家に電話しました。
いつもどおり母が出て祖母の様子を聞いたところ、
「今おばあちゃんと話せるけど代わる?」と言われました。
せっかく話せるなら話そうと思い祖母に代わってもらいました。
しかしいざ話すとなると何を行っていいのか解らず
「大丈夫?」としか言えませんでした。
すると弱々しい声で「大丈夫だよ。そっちはどうだい?」と返ってきました。
「こっちも大丈夫、元気でやっているから」とだけ言いそれ以上は何もいえませんでした。
まあどうせ夏休みに帰るからその時にもっと話そうと思っていました。
その翌日、普段電話などかけてこない父から電話がかかってきました。
嫌な予感がしていましたが、それが本当になってしまいました。
それは祖母が死んだと言う知らせでした。
そしてすぐに実家に帰り葬式がありました。
今でもあの電話をした時の事を思い出すと
最後に話せてよかったと思う反面、とても後悔しています。
話せるときに話しておけばよかったと

長文&文章力無くてスマソ


83: 病弱名無しさん ID:xqMCDlQs

80-81
おばあちゃん・・・。(・_・、)

>最後に話せてよかったと思う反面、とても後悔しています。

気持ちわかるよ・・・。


86:   ID:RD/H5WQ1

三つ下の妹がいました。体の弱かった妹は入退院を繰り返し、
そのたびに母が付き添うので、寂しくてたまりませんでした。
ある日、うちにいた妹に「妹なんていらない。犬の方がよかった。」
って言いました。「ワン!」って妹が言いました。半年後に妹は
この世からいなくなりました。どうしてあんなこといったんだろう。
ごめんね、お兄ちゃんがばかでした。


93: 病弱名無しさん ID:K45Beu1q

大学病院に勤務していると、いろいろな悲しい場面に遭遇します。
でも、私が今まででどうしても忘れられないのは、あの事故です。
幼稚園に通う4歳の子を亡くされたお母さん。
母親がよその母親との話しに夢中になっているすきに、その子は園バスの
後ろに走っていってしまったそうです。
次の瞬間バスがバックして、子どもは弾かれ頭が割れた状態。
殆ど即死でしたが、病院に子どもが搬送されてきた時、お母さんは
半狂乱でした。
そして
「脳みそがでちゃった~~!もとに戻して~
 そうしないと死んじゃう~~~!!!」と泣き叫んでいました。
亡くなったのを知ってもずっとこの言葉が病院内に響いていました。
あんなに悲しい叫びは聞いたことがありません。


109: 病弱名無しさん ID:yJ+Q8+Xr

>>93
同じような場面を目撃しました。私が幼稚園の頃の話です。
私が見た場合は子供心にもの凄い衝撃と悲しみでした。


Aさんが外出すると言うので、BさんがAさんの子供を預かりました。
Aさんの子供(3歳くらい)やBさんの子供、私も含め数人でアパートの前で
遊んでいました。

Bさんがほんの少し目を離した隙にAさんの子供は道路の方へ歩いてしまった。
そこには運悪くスイミングスクールのバスがいて、発車しようとバックしてました。

…すでにバスはバックしていたんです。
そこにAさんの子供が飛び出してしまったんです。バスの運転手さんも見えなかった
と思います。(子供の頃の記憶なので)

今でも忘れられません。スローモーションのような画面で覚えています。
Aさんの子供が轢かれて脳みそが出てしまった場面。
Bさんが発狂したかの如く泣き叫んでいた場面。
警察の人がAさんに問い掛けても「私のせいよー私のせいよー」と繰り返し
叫んでいたBさんの声。


今でもあの場所にいくと、切なくなります。


110: 病弱名無しさん ID:ZVOcwmzA

>>109
そういう場合、AさんとBさんはどうするんだ???
その後の付き合いとか、責任とか、法的にどうとか・・

それがあるから子どもは人には預けられないなぁ。
歩けるようになってから入学程度までは何があるかわからん。


98: 病弱名無しさん ID:3ng92r0L

私の父親は白血病だった。小さな病院で肺炎といわれたが
不信に思った母が大きな病院につれて行くと即入院だった。
いまいち病気の恐ろしさのわからなかった私はどこかで自分の父親が死ぬなんて
ありえないとおもってた。
親孝行もまだ何もしてないのに、やっと仲良く話せるようになったのに。
発覚から一年後、愛犬が血液のとまらない病気で死んじゃった。
身代わりになろうとしたのかな。。。
だからぱぱも頑張った。でもどんどん衰弱して行くぱぱ、
ある日ぱぱの前の妻と娘が家に来た。二人で住みたいから頭金がほしいと。
ぱぱは言った。もうあげられるお金は自分が死んだとき娘に遺産を分けることしかできないと。
それでもずっと生きてくれると思ってた。
そして発覚から2年半後その日は来てしまいました。
子供たちに手をにぎられてしにたい。そう最後に言っていました。
ありがと。ぱぱ。ギュット手を握り締めて一粒だけ涙を流しました。
そしてぱぱは息を引き取りました。
一番つらいのはままに決まってる。だから涙をこらえました。
誰もいないところで一人思いっきり泣きました。
ぱぱの子供でよかったよ。ありがとう。


99: 病弱名無しさん ID:qGMAK41U

母方の曾祖母の話。
身内で唯一の曾祖母で私が会いに行くと「アイスでも買ってお食べ」と毎回
1000円をくれた。
毎回お金をくれるし温和な性格だったから、しょっちゅう遊びに行ってた。
曾祖母と祖母は同じ家から嫁に来ていて(曾祖母が養女だったらしい)、
曾祖母は気の強い祖母にいつも気を使っていた。意見を通すことは滅多に無く、
いつの頃からか晩酌にコップ1杯の日本酒を飲んで不満を忘れようと
しているように見えた。
いつからか私が小声で話すのは聞こえても祖母に話し掛けられると
耳の遠いふりをするようになった。

曾祖母の体調が悪くなって入退院を繰り返すうち、祖母はだんだん厄介者扱い
をするようになり、寝ているベットにはあまり行かなくなった。
曾祖母はお風呂が大好きだったが、介護で入浴させることは大変だったらしく
あまりお風呂には入れていなかったようだった。
曾祖母が危ないという話だったので駆けつけてみると、うわごとのように何かを
呟いている。


100: 病弱名無しさん ID:qGMAK41U

私も上手く聞き取れなくて「ぴいばあちゃん、お風呂に入りたいの?」
と言うと、大きく頷いた。握った手をぎゅっと握り返してきた。
私は必死に「ぴいばあちゃん、お風呂に入りたいって言ってるよ、
入れてあげようよ!」と言ったが、何年も介護している祖母に対しては
言わなかったことらしく、
「もう何も反応も無いし、そんなこと言うわけ無いよ」と言われた。
半泣きで「お風呂に入れてあげようよ」と繰り返したが、聞き入れてもらえな
かった。
内孫でない私が言ったところで聞き間違えにしか取ってもらえなかった。
ぴいばあちゃん、ごめんね。私がもっと強く意見を言えば、もしかしたら
お風呂に入れたかもしれなかったのに。ごめんね。

曾祖母が亡くなって10年以上が経ちました。
たまに曾祖母の手の暖かさを思い出しては涙がこぼれます。
自分にとって泣ける話でした。長文スマソデシタ。


128: 病弱名無しさん ID:SjyrdNUd

ほんっと、泣けた…こんな時間に。
あああああ(涙)私も書きたいけど、なんか、もう何年もたってて、
それなのに自分で頭のなかで整理できてなくて、書けない…悲しい。
ただ、これだけを、ここで言わせてください。(ごめんなさい)
いろいろと悩みもあるし、生きていくのは大変だけど、
精一杯がんばって生きていきます。こう思うようになったのは、
おばあちゃんとか、おじさんの、必死に生きようとした姿を見てです。
ほんとにありがとう。近いうちに,お墓参りいくからね。


130: 病弱名無しさん ID:gXV7rd6v

私が彼と最初に出会ったのは会社の懇談会でした。
ふとしたことから一緒に遊ぶようになり、付き合いはじめました。
私はもともと打たれ弱い性格だったので、彼にグチってしまうことが
多かったのです。
でも、彼はそんな私に嫌な顔一つせずに、優しい言葉をかけてくれたり、
励ましてくれていました。彼はグチ一つこぼさず、明るい人だったので、
「悩みがないなんていいねー。」なんて言ってしまったりすることもありました。

彼との別れは突然訪れます。彼が交通事故で亡くなったのです。
彼のお葬式に行っても、まったく実感が湧きませんでした。
お葬式の後、彼の両親から彼の携帯を渡されました。
何気なく携帯をいじっていると、送信されていない私宛のメールが
たくさんあるのに気付きました。
そのメールには仕事のグチや悩みごとなどがたくさん書いてありました。
その瞬間、私は彼の辛さに気付かなかった自分のくやしさや、無神経な言葉を言った
自分への後悔、常に私を気遣っていてくれた彼への感謝で涙が止まりませんでした。
あの日から1年以上になりますが、その携帯は大切にとってあります。


139: 病弱名無しさん ID:3kfnJwvK

5歳の頃、兄(1つ上)が車にひかれる瞬間を見てしまった。
その瞬間だけスローモーションになり、兄は車にはねられ空をとび、地面に叩きつけられた。
家の中に母がいたので「兄ちゃんが車にひかれた」というと、母は慌てて外に飛び出し、兄を抱きかかえずっと名前を呼び泣いていた。
それからのことは全然覚えていない、だれが救急車を呼んだのか・・・

そんな兄も今は元気です。
あの時死ななくてよかった、生きてくれてありがとう。


141: 病弱名無しさん ID:xQ5zXcFk

>>139
よかった、本当に無事でよかった・゚・(ノД`)・゚・。

うちの親戚にも目の前で家族を交通事故で亡くした人がいるけど
親族の事故死を目撃してしまうのは、かなりしんどいものがあるからなぁ・・・


186: 病弱名無しさん ID:e48Emzg2

私の4歳の長男は、小児ガンです。

十カ月の闘病生活の末、亡くなってしまいました。その間、皆さまの献血のおかげで安心して治療を受けることが出来ました。本当にありがとうございます。

あの子は、輸血されると元気になることを知っていて『アンパンマンのエキスだ~』と言っていました。一時は、毎日のように輸血をさせて頂きました。輸血が必要な時『今足りないので待っていて下い。』と言われ、祈るような想いで輸血されるのを待っていたこともありました。
届いたときは、本当に嬉しかったです。献血して頂きました皆様になんてお礼を言ったらいいのか。

ありがとう!ありがとう!
 
医療スタッフと皆さまのおかげで生きながらえることができて、どんなに『ありがとう』といってもたりません。今でも病院に多くの子供たちが輸血を待っています。これからも献血お願いします。もちろん私も来ます。子供たちの笑顔が消えませんようにと祈っています。

   byりょうすけ大好きよ

三宮ルーム落書帳から


195: 病弱名無しさん ID:9zSM3LHk

すごい泣けました。
(´Д⊂)

私も病気でずっと入院してます。
先月一度ひどい貧血と体の痛みで混迷状態になりました。
意識が朦朧として看護師さんの呼びかけとかも全然反応できなかった。
なのに会社に行っていたはずの母親が何故か病室に来て、手を握って
「可哀想に」
って一言。
その言葉だけすごくはっきり聞こえてきた。
お父さんお母さんごめんね。
早く退院してお嫁に行くからね。
泣くのはその時にお願いします。


196: 病弱名無しさん ID:4WJxnu4W

>>195
頑張れ~!
月並の言葉しかかけられないけど、頑張れ~!
頑張れ~!
頑張れ~!
頑張れ~!


646: 病弱名無しさん ID:WKy7Pixb

夜も遅い時間にこそこそっと。
以前ここに書き込みしました>>195です。

私は肺がんでつ。
若いから進行も早くてよくここまでもったと思う。
今年の初めに余命宣告されました。
長くもって一年。短くて半年。
今はキャンサーホスピタルに転院しています。
肺がんは脳に転移しやすい。
そろそろモルヒネも効かなくなってきた
脳に転移したらわけがわからなくなっちゃうだろうな。
転移したほうが痛みがなくて楽みたいだけど・・・。
余命を宣告される前は余命を宣告されたらこう生きようとかいろいろ考えてた。
でも結局今までの自分のままでしか生きられないんだって最近わかった。
死ぬのが近いのにPC解禁されたら真っ先に2ちゃん見ちゃうし。
新しいパソコン買っちゃうし。
宣告される前は死を甘受することは格好いいと思ってた。
でも今は生きたい。


647: 病弱名無しさん ID:MxWroX0x

>>646
ガンガレ


648: 病弱名無しさん ID:iYtDWXLf

>>646
あなたの生きざま、心に刻んでいいですか?


651: 病弱名無しさん ID:LiNjYCrx

>>646
か、かける言葉が見あたらない……
でもまた書いてくれ。みんな見てるから


211: ななし20才 ID:Xf1//V76

俺は、20才にしてHIVに感染していることを告知された。たしかに、性感染
だから自業自得かもしれないが、性なんて本能的なものだからあまりせめないで
ください。一番つらかったのは、母親に告知したときかな、今こそ元気に振舞っ
いるもの、やはり自分の腹を痛めた息子が辛い思いをしているのを考えると、落
ち込んでしまようである。俺は、昔のアルバムを見ていた、俺が0歳くらいのと
きに、お母さんの腕にだっこされている写真があるんだけど、自分で言うのもな
んだけど、すげー赤ちゃんってかわいいんだなーって思った。今まで、大切に
育ててきてもらったお母さんを悲しませたことを思うと自然と涙がででくるし、
とりあえず、今はHIVについては普通に寿命まっとうできる病気だからもう
お母さんからもらった大切な体を汚さないように、俺は、精一杯生きていこう
と思う。ごめんなさい、お母さんそしてお父さん・・・・。


212: 病弱名無しさん ID:Ln86tv43

合掌


213: 病弱名無しさん ID:MY8mS13W

合掌なんておかしいぞ。
その生きる勇気と感謝の気持ちをたたえよう。


215: 病弱名無しさん ID:oT57p+K7

私が18の時、当時専門学校に行っていてその夏に彼女ができたんです。
夏休み明けて一緒のクラスの友達に報告したら、「幸せだね。羨ましいな」
って、あまり気の無い返事が返ってきたんです。私が「なんかあったの?」って聞いたら
「彼女が死んじゃった・・・」と彼が話し、どうやら事交通故で入院していたそうです。
その子が亡くなる前日、彼が見舞いに行ったら「のど乾いた!ジュース買ってきて」、「花火がしたい!」
と、メチャクチャわがままで正直むかついたらしいです。その夜、急に様態が悪化したみたいです。
彼は、「あの子はわがまま言う子じゃなかったのに、なんで気付いてあげれなかた・・・最後のわがままなのに。」と言っていました。
私は「自分が幸せでいいのか?こんな話してごめん。」と思わず彼に言ってしまうと
彼は「いつこうなるか分らない・・・だからいつでも彼女の事を大切にして、
何かあっても後悔しないくらい愛してあげなよ。」と、声を震わせて私に言いました。


216: 病弱名無しさん ID:WIK33cQz

泣ける話じゃないけど、自分が泣いた話になっちゃうかもだ

今年の夏、うちの父が脳梗塞で倒れた。

病院の集中治療室で眠る父を見て涙が止まらなかった。
「今夜が山です」と、言われた。
それでも父は一生懸命何かを言おうとしていて、
でもアタシは泣きじゃくって聞こえなくて、母が
「今になって、俺がどれだけ心配したかわかるだろ」
と言ってるのだと教えてくれました。

1ヶ月前、何度目かの自殺未遂で病院に運ばれたことを思い出して
自分がどれだけ心配掛けていたのか…ようやく気づかされました。

あれから3ヶ月経って父は退院し、半身麻痺と言語障害は残るものの
あらためて家族の大切さに気づいた私たちは、とても幸せだと思います。


220: 病弱名無しさん ID:owqo+QD4

ちょっと泣けた夜だったんで書いてみます。

今日は結婚記念日でカミさんと外食した。

レストランはそこそこに混んでいてガヤガヤうるさかった。
特に隣の家族がうるさくって、カミさんとちょっと顔を見合わせて苦笑いをしたぐらいだった。
父親が子供にいろいろ質問しては笑い、っていうのがえんえん続いてこっちもうんざりしてた。
しかも、その父親がやたらと大きく咳き込むので実際鬱陶しかった。

しばらくすると、ウチのカミさんがその家族の父親を見て、「ちょっとあのお父さん見て」と
言うので、見つめるのも失礼なので向いの鏡越しに彼の後姿をみてみた。咳き込むたびに
ハンカチを口に当てていて、それをポケットにしまうのが見えた。ハンカチは血だらけだった。
咳き込んだあとは赤ワインを口に含んで子供たちにばれないよう大声で笑いごまかしていた。

向いに座っていた彼の奥さんは笑っていたが、今にも泣きそうな顔をしていた。
奥さんはどうやら事情を知っているみたいだった。
その父親が何らかの重い病気なのは明らかだった。
うちのカミさんはちょっともらい涙していた。

帰りに俺は無神経にも「今日はなんか暗い結婚記念日になっちゃったな。台無しだよ。」
とカミさんにいった。カミさんはちょっと沈黙を置いて、
「かっこよかったじゃんあのお父さん。ああいうお父さんになってね」
って涙声で俺に言った。俺もちょっと泣いた。


221: 病弱名無しさん ID:4wCo6J/h

>>220 いい嫁だ
結婚記念日おめで㌧!


222: 病弱名無しさん ID:bx9ziQ5b

>>220
なんか染みたーー。
うちのダンナもそういう人になって欲しいな。。。


223: 病弱名無しさん ID:yJN065yg

泣くのオレだけだろうから、前もってお目汚しスマソと言っとく。

オヤジが今年の春に入院し、夏に死んだ。
子供から見ても波乱万丈の人生で、職を転々とし、最後の2年間は大好きな車を仕事にしたい、
ということでタクシーの運ちゃんやってた。おふくろによれば
「あんなに生き生きと働いているのは今まで見たことがなかった」
ということで、きっとタクシー運転手を天職だと思っていたのだろう。

入院して1ヶ月ほどたったゴールデンウイーク、オレは彼女を連れて見舞いにいった。
その彼女を親に会わせるのは初めてだったが、まだオヤジが多少は元気だった頃だったし、
それに今度いつ会わせられるかわからないので、半ば押しかけるように連れていった。
そして、見舞いのあと彼女に地元の観光名所を案内しようという話になったとき、オレがあまり
そういう場所を知らないので本でも買って見ながら行くわ、というと、オヤジはやおら起きあがって、
心配する母親をよそに、チラシの裏に鉛筆で地図を描きはじめた。

さすがタクシー運転手だ。まるで自分の家の間取りを描くかのように、観光名所の場所を鮮明に描いた。
交差点の名前、目印となる建物、一番効率よく見て回る順番、オヤジなりにつけた「面白度」…
すげえ。どんなガイドブックよりもわかりやすい。生まれて初めて、親父を心底尊敬した。
その地図を頼りに彼女を案内しながら、この土地、そしてこのオヤジのもとに生まれてよかった、
と心底思った。そして、「早くよくなって、またタクシーに乗るんだ」という、オヤジの強い思いを感じた。

オレらが帰った直後からオヤジの容態は悪化し、2ヶ月苦しんだ末8月に死んだ。
辛い人生だったろうな、と思う。でもなオヤジ、オレはあんたの子供でほんとによかったと思ってるよ。
そして最後に、あんな些細なことだけど、あんたを尊敬できてよかった。

オヤジの描いた地図。今でもカバンのポケットに入ってるけど、見ると泣きそうなので出せない。
来年には、あんときの彼女の苗字をあんたと同じにして、墓参り行くからな。そんで、またあの地図を
見ながら、観光名所巡りするよ。

長くなってスマンかった。


224: 病弱名無しさん ID:pjV/FrdC

>>223 
いやいやとんでもない。泣けました。


226: 病弱名無しさん ID:WqpTMRN7

>>223
仕事中に泣かせないでください...・゚・(ノД`)・゚・。うえええん  


235: 病弱名無しさん ID:UQbVztDv

まだ俺が研修医だった頃の話・・・

ある1人の父親が入院していた、末期の癌だった。
家族(奥さんと小学生の息子)は毎日見舞いに来ていた。
その父親も自分が癌であることは知っていたが、家族の前では
気丈に、なるべく明るく振舞っていた。
しかし家族が帰った後、「先生、俺は本当は怖いよ・・死にたくないよ・・」
と弱音を吐いていた。
俺は末期の患者は初めてだったので、なんて言って
いいか分からなくて言葉が出なかった・・

全身状態が悪化し、いよいよという時、家族が呼ばれた。
彼は泣きじゃくる息子の頭をなでで
「男の子はめったな事で泣いちゃあだめだぞ、そんなことじゃ
 ママを守れないぞ・・いいか、これからはお前がパパの代わり
 にママを守るんだ・・約束できるか?」と言った
息子は言葉にならない声で「う・・ん・約・・する」
と、頷いていた。
3人はずっと手を握り合っていた・・
父親はその晩亡くなった。
最後まで彼は家族の前では「父親」として「男」として頑張った。

俺もあんなかっこいい男になりたいと思った。


237: 病弱名無しさん ID:J8iUiDNM

病院に勤めていたころの話

「○○さん(私)に処置をお願いしたい」「○○さんは今日は日勤ですか」と
いつも看護婦の私を慕ってくれる患者さんがいました。
お孫さんも成人して、そのお孫さんが遠くに住んでいるとのことで
私が孫のように可愛いと言って下さり、笑顔のステキな初老の元警察官の方でした。
そこはとても忙しい病棟で、毎日亡くなる方もいらっしゃるような重病棟で、
その方もいずれ長くないのは承知でした。
そんなある日、せん妄や徘徊等の痴呆症状が目に付くようになり、脳のCTの結果
肺癌が脳に転移していることが発覚。本人の自覚もないまま、日に日に症状は悪化、
呼吸器の状態もそれまでより更に悪化して行きました。
家族との相談で出来るだけ本人の苦痛を和らげる方法で治療方針も決まりました。

しかし看護婦にも攻撃的になったり、手が付けられないような徘徊になると、
正直こちらとしても対応に頭を悩ませます。
QOLの高い医療を、、、といっても今の医療現場の現状では限度があります。
とてつもない忙しさの中で、だんだんその患者さんは「ケアに手がかかる」
患者さんになりつつあったのです。


238: つづき ID:J8iUiDNM

少しづつ歩くことも辛くなってきて臥床ぎみになってきた頃のことでした。
ナースステーションでカンファレンスが行なわれているとき、
その前を点滴スタンドを押して凄い勢いでフラフラと歩いているのです。
その場にいたスタッフは皆慌てて制したのですが、「お風呂、お風呂…。」
と、お風呂に入りたくて咄嗟に部屋から出てきた様子でした。
真っ青な顔で倒れこみストレッチャーで運ばれました。
スタッフは口には出しませんでしたが、もう!と言わんばかりの対応をする人もいる人もいました。
私も正直、それよりも重症な患者さんに手が罹りきりでしたし、
「もう、仕方ないな…ハア」とさえ思っていたのです。
そういえばしばらくあの患者さんの入浴介助してないな、なんて、
ほんのちょっと頭をかすめたくらいでした。

そしてそれからすぐ呼吸状態も悪化し、意識も落ちて眠るように亡くなりました。
看取ることは出来ませんでしたが、ちょうど出棺のときに立ち会うことが出来て
そのときご家族とお孫さんにはじめて顔を合わせることが出来ました。
お孫さんと奥さんは出棺のあと、きょろきょろと誰か探している様子で
私を見つけると深々と頭を下げたあと、
「○○さんに背中を流してもらって嬉しかったって、この日記に書いてありました。
 ほら、何月何日って細かく書いてあるの・・・どうもありがとうございました。」
と話してくれました。
細かく記された私の名前、日にち・・・小さな日記・・・
今まで何人も看取ってきて涙を流すことなどなかったのですが
涙がとめどなく出てきました。
そういえばお風呂がとても好きな患者さんでした。
ごめんね、あのとき背中流してあげたらよかったね、
あんなに気持ちいいって喜んでもらえたのに
私に出来ることはそれくらいのことしかなかったのに
本当にごめんなさい。

すみません
思い出しながら書いたので文章変かもしれません。


239: 病弱名無しさん ID:J8iUiDNM

しかも感動する話じゃないですね・・・
すみません。


241: 病弱名無しさん ID:zOwbNNy9

>>237->>239
いや、いいお話ダターヨ !(ノ_・、)ウルウル…


240: 病弱名無しさん ID:4FQ/0RTh

俺は高校生の頃友達がいなかった。欲しかったりもしたがどうすればいいか判らな
かった。だんだんこいつらなんてたいした事ねえよなんて思い出してひねくれてっ
た。

高二の夏チャリ通の途中で車にはねられた。意識が吹っ飛んだ。気がついたら天井
見てた。足と腕を一本ずつぽっきりやっちゃったらしくしばらく入院した。

轢いてきた人が謝ってきた。たいして興味も出なかった。
担任がやってきた。みんな寂しがってるぞとかいっていたがうそだと思った。

しばらくしてクラスの奴がきた。何度か金を貸した奴だが特に仲が言い訳でもない。
来たのが不思議だった。どうしてと聞きいたら、

だって俺らダチやん。あたりまだろ。

不覚にも泣いた。

そいつは俺が何故泣いてるのか判らず、おろおろしていた。その姿を見て笑った。
久々に笑った。


その後俺らは時間を忘れるほど話しまっくった。


251: 病弱名無しさん ID:eLP9t/10

私は右手に障害があります。

兄弟が二人いますが、彼らは生まれたときから
幼児期の写真がたくさんあるのに私の写真はありませんでした。
両親に理由を聞くと、「カメラが壊れていて撮れなかったの。」と言っていました。

物心ついたときから私は自分の障害について認識をはじめ、
他人への劣等感、最終的には自分が生まれてきたことへの恨み、
そして両親への恨みへとつながっていきました。
小学校の頃は両親に「右手は20歳くらいまでには治るかな??」
などと聞いていたりしたのですが、上のようなこともあり、
「何で俺は右手が使えないの?何で俺を生んだの?」
と不躾な、両親からしてみると非常にやりきれない文句をいっていたことを覚えています。

今、私は大学の卒業を控え、両親の私を育ててきた苦悩を
多少なりとも知ることができます。
障害をもって生まれてきた私に衝撃を受けて生後しばらく自暴自棄に
なってしまった母親とそれを立ち直らせるために母親を殴った父親の悲しみ、
写真が少ないのもしばらく私に愛情を注ぐことができなかったから、
そのような背景があるからなんです。

でも、私の記憶にある両親は私にたくさんの愛情を注いでくれました。
幼い頃、寝るときいつも父に右手を握ってもらって寝てたことは忘れません。
「おまえの手が早く治るように。」この父の願いは叶わない事は今ではわかります。
一生付き合っていかなければならない障害ですが、私がこの世に生を受けてきたこと、
両親が頑張って育ててきてくれたこと、絶対恩返しします。

来春から就職。本当に頑張って働いて絶対に親孝行します。
パパ、おかあちゃん、長生きしてください。
乱文失礼しました。


252: 病弱名無しさん ID:2GAIcD7E

・・・ううっ、が・ん・がれ!


260: 病弱名無しさん ID:Ilv+KtGu

現在進行形の話なので少し躊躇しましたが、、、長文失礼します。
 
私は先天性の神経の病気で、筋肉の細胞が壊れ、体力が衰えていく症状があります。
治療法も無く原因不明なので、日々確実に衰えていく自分に怯えています。
昨日の夕食後、母に最近の体調の様子を聞かれました。ほんとのところ、ずっと体調が悪かったのですが、母に心配をかけたくないので、「まぁ、普通だよ。」と軽くかわしました。
けれど母はそんな様子を察していたようで、「お母さんに出来る事があれば何でも言って。痛みを代わってやれないんだから…。」と何度も何度も言うので、
根気に負け、病状が悪化してることを少しずつ話し始めました。すると不覚にも涙が溢れ、しまいには号泣してしまいました。
一通り話を聞いた母は、苦しい位にきつく抱きしめ「ごめんね、全部お母さんが悪いの。ごめんね、ごめんね」と謝りながら泣いてました。
 
思春期の頃は、運動が一切出来ない事で劣等感を抱き、存在意義が分からなくなったこともありましたが、母を恨んだことはありません。
けれど、泣いてる母を目の前にして、何も言葉をかけてあげることができませんでした。
母の身体を通して聞こえる、声を押し殺した泣き声はすごく切なかったです。
 
ごめんね、お母さん。私大丈夫だから。


263: ありがとう、お母さん ID:gHIZKvPD

6年前、お母さんは亡くなりました。白血病でした。
あの時のお母さんを思い出すと、涙がでてきます
卓也「お母さん、お母さんはまだ死なないよね」
母「何を言ってるの?卓也。お母さんはまだ全然元気です」
しかし、母は気の弱い声で返事する
母「それより卓也、もうすうぐ、卓也の誕生日だよ。欲しものある?」
卓也「欲しいもの?それは・・元気なお母さん!」
母「ふふ、ありがとう」
母「・・卓也、ごめんね。・・産んでごめんね。」
卓也「・・・・・・」
母「お母さんは卓也に心配させて、まだ卓也は10歳なのに」
卓也「・・」
それから数日後
母「卓也、今日卓也の誕生日だね。お母さん、卓也のために
時計買ってきたよ。それと・・はい、これ」
卓也「わーい、カレーライス。ありがとう。でも、お母さん、体
悪いんじゃないの?大丈夫なの?」
母「・・なんともないよ。卓也の顔を見るだけで元気がでちゃう」
卓也「お母さん、元気になってよかったぁ」
母「・・・・・・・・・・・・・」
数日後
医者「卓也君、お母さん、もうだめかもしれない」
卓也「・・・何言ってるの?お母さん、あんなに元気だったよ」
医者「・・卓也君の前では元気に振舞っていたんだよ。本当はお母さん、
はっけつびょう、という病気だったんだ」


264: ありがとう、お母さん ID:gHIZKvPD

卓也「白血病?学校で聞いたことある。すごく重たい病気なんだよね。
医者「・・・・・」
卓也「お母さん、死んじゃうの?そんなの嫌だよ!
お母さん、死んじゃうなんて嫌だよ!!」
先生、もうだめです。
医者「!!」
医者「・・・・・・・」
卓也「何で?何で何もしないんだよ!何でだよ!!」
医者は首を横に振った
卓也「お・・・か・・あ・さん、し・・ん・・じゃう・・よ・・」
医者「卓也君、ごめん!」
卓也「おかあさ・・嫌だよ。死んじゃ嫌だよぉぉ!」

・・・・・21時53分です。

卓也「おかあ・・・さ・・ん」

僕は泣きじゃくりながら、お母さんが先ほどまでにいた寝室へ向かった。
ふと、ベットを横に、カレーライスの残り物があったことに気づいた。

卓也「・・・・・」

僕は無我夢中で食べた。残したくなかった。

お母さんの作ってくれた、カレーライスは

まだ・・・・あたたかかった。



ありがとう、お母さん。


265: 病弱名無しさん ID:0MHTSvC7

妹の友だちだった。
幼い頃から脳の病気を患っていて、手術の繰り返しで四肢もまともに
機能しなくなってしまって、それでもがんばって歩いて学校に登校
していた。

小学生の頃、一度帰宅時間にその子と一緒になったことがあって、
友だちの姉として面識の会った私はなんとなく一緒に帰ることに
なった。
片足が麻痺していて歩くのにとても時間がかかるその子。
私はその日遊ぶ約束をしていて、正直早く帰りたくて仕方がなかった。
会話もあまりはずまなくて、その子の家まで送るべきだったのに、
「いいよ。私ひとりで帰れるよ」
と言うものだからそれに甘えて途中で別れた。

数年後、あの子が長くないと母に教えられて妹と見舞いに言った。
個室で、脳の病気のせいでその子とわからないくらい頭が肥大していて、人工呼吸器も苦しそうで意識は殆どないようだった。
その子の母はもの凄く冷静で、淡々とあと一週間かなとつぶやいてた。
母は号泣していたけど、私と妹はなんと言ったらいいかわからなくて、
ただ突っ立ってその子を見守っていた。

まだ15歳だったのに、そのまま死んでしまった。
その子の家に行ったら、まだ部屋がそのままになっていて、机に
飾られた写真、元気そうに笑ってる写真を見ていたら一緒に帰った
あの日のことを思い出した。
「おねえちゃんおねえちゃんって、**はひとりっこだからすごく
嬉しそうだったのよ」
そんなこと言われて、おうちまで送ってあげればよかったなと思ったら
涙が止まらなかった。

ごめんね。


274: 病弱名無しさん ID:U1vlDl+a

近所に住んでいるご夫婦の話です。
その夫婦には子供が無く、そのせいか私は子供のころから可愛がってもらっていました。
おじさんは無口な土建屋の事務員、おばさんは自宅で商売をしていて雑貨から野菜など
なんでもあるミニスーパーみたいな店で、朝から晩まで年中無休で働いている人でした。
当然晩ご飯なども、おじさんが7時ころ帰ってきても食べられるのは9時過ぎというのは
しょっちゅうの事でした。洗濯ものもたまる、掃除も毎日できない、休日も一緒に過ごせない・・・
おばさんは結婚して以来、そのことを心の中で申し訳ないと感じていたそうです。
今年の秋、おばさんは長年の疲れからか体調を崩して一週間の入院をすることになりました。
コンビニがあるから大丈夫だとおじさんは言っていましたが、毎日持っていくお弁当や食事の支度さえ
できなくて迷惑ばかりかけて申し訳ないと落ち込んでいたようでした。
おばさんが入院した4日後、おじさんの会社にラジオ番組の取材がきました。
取材というかローカル番組のコーナーの1つで「会社対抗クイズ」みたいなものです。
私は前日に知っていたので翌日ラジオを持ってお見舞いに行きました。
続く


276: 274 ID:U1vlDl+a

続きです
休憩室のような場所で持っていったラジオを二人で聞きました。
そのクイズ自体におじさんは登場しませんでしたが、話の流れで「自分の奥さんは○点だ」
というようになっていきました。
それぞれが「結婚後+20キロだから50点」とか「料理がヘタで40点」とか悪く言って
笑いを取る、みたいな雰囲気になっていました。
わたしは「あ、やばいかな・・」と思いはじめ、おばさんも何か気まずい顔をしていました。
ついにアナウンサーがおじさんの作業服のネームを呼びました。
「○○さんの奥さんに点数をつけるなら何点ですか」
おばさんが小さな声で「20点・・・」とつぶやいた瞬間
「98点!・・・だな。あれでなきゃワシの嫁は無理だ」
おばさんを見ると両手に顔をうずめて泣いていました。今年一番感動した出来事です。
稚拙な文章スマソ


278: 病弱名無しさん ID:U2uDvMTh

>>274>>276
イイ・・・いい話や・・・
( ´Д⊂


310: 病弱名無しさん ID:b7D21lhc

今から9年前、当時は仕事の関係で家内ともに海外赴任していました。
ある日、日本からの突然の電話、家内のお母さんが急に亡くなったとのこと。
自分も家内にうまく事情を説明できないまま、飛行機で帰国。飛行機の中では家内は泣きっぱなしでした。
自分のできることは手をしっかりと握りしめることだけでした。
24時間かけて日本へ到着し、葬儀場で変わり果てたお母さんの姿を見て家内は号泣しました、周り私も号泣でした。
あんな泣いた家内は初めてでした。
お母さんと最後に会ったのが1年半前、元々病気で寝込んでいたのですが、娘に心配かけない様にと家内の父はその事をずっと連絡しなかったんです。
「もう少し早くわかっていれば亡くなる前に会えたのに・・」と悔やんでいたのを思い出します。
そのお父さんも一昨年なくなりました。家内35歳にして両親を失ってしまいました。
特にお母さんには孫を抱かせてあげたかったな・。 家内のことはずっと一生大切にしていこうと誓いました。
下手な文章ですみません。


311: 病弱名無しさん ID:gived3J4

>>310
奥さん、幸せだよね・・・・・・
こんな素敵な旦那さんに巡り合えたのだから・・・・・・
(奥さんに話せないよね。こんな事・・・・・だから余計素敵に思える・・・)


313: 病弱名無しさん ID:EqYvw8x8

看護学生だった頃の話。
受け持った患者さんはずっと昔に家族と生き別れになった方で、
生活保護をうけながら1人で生活されている方でした。
面会にくる家族もなく、もう最終末期、今週一杯持つかという
状況でした。
ある日、検温に行き、何事もなく終え、部屋を出ようとすると
酸素マスクのしたで何か必死に言ってる。何回聞いてもうまく
聞き取れず、繰り返すこと10回近く。よく聞くと、「水」
と言っていて、吸い飲みから水を口に入れました。すると満足
され、目を閉じました。それを見て部屋を後にしようとすると
消えてしまいそうな声で「あぁ・・・・」と聞こえ、振り返ると
手招きしています。
また何かを必死で言っていますが、聞き取れず、「ごめんなさい、
もう一度おっしゃっていただけますか?」と言うと、酸素マスクを
外し、とぎれとぎれに、しかしその方にとって精一杯の声で
「あ・・・り・・・が・・・と・・・」
と私の手をとり、おっしゃいました。毎日悪くなっていく患者さん
をみるのが辛くて、実習に行きたくなくなってしまったり、正直
その患者さんを見るのが恐くなっていたので、そんな自分に情けなく
なり、思わず患者さんの横で泣いてしまいました。

その患者さん、翌々日の朝、私が病棟についてしばらくして
お亡くなりになりました。なくなる瞬間にもご家族の方は誰もおらず、
私と病棟スタッフが立ち会いました。

あの「ありがとう」は今まで聞いた「ありがとう」の中で、
最も重たいありがとうでした。私のほうがお礼を言いたい気持ちで
一杯です。


315: 病弱名無しさん ID:qfCGf67P

>>313さんのようなかたなら
安心して自分の身を任せられるなあ…。
医療がもっと発達しても死ぬ人の数はゼロにはならないわけで
つらいこともたくさんあるでしょうけれども
どうか頑張って下さい。


336: 体育会系中年男 ID:ADu48xNP

1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。
自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、
お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、
それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。
事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。
そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの
運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、
出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。
彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが
歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を
旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。
『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、
小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。
母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、
『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、
 一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』
と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を
訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから
3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、
『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、
お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、
大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、
自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も
生きているのである。


342: 体育会系中年男 ID:I23290Sd

336の続き

この掲示板に書き込んだあと、裕次郎のCDを聞きながら、
一冊のアルバムを眺めていた。その年の夏、2人で北海道を
訪れたときの写真である。病気のために痩せ細ってしまい、
188㌢で当時95㌔だった自分と並ぶと、それこそ大人と
子供ほども違う。しかし、それらの写真に写る彼女の表情は、
どれも素晴らしい笑顔ばかりだった。余命半年と宣告された
人間のものとは思えない笑顔を見ているうち、止め処も無く
涙が溢れて来た。今年40になる自分であるが、久しぶりに
泣いた。棚の上に飾ってある彼女の写真を手に取りながら、
夜が更けるまで泣いた。そして、そのまま眠ってしまった。
朝、ラジオ放送の音で目が覚めた。ラジオから聞こえたのは、
彼女の大好きだった『恋の街札幌』である。まるで、彼女が
天国からリクエストしてくれたような巡り合わせであった。


337: 病弱名無しさん ID:e0bqE/oG

>>336
感動しますた


339: 病弱名無しさん ID:DqtwHIkH

すごい良スレ。
目から涙が溢れて止まりませんでした。(ノДT)アゥゥ
ここで私からも話を提供。乱文スマソ(汗


私の母は、趣味の一環(?)で。年末になると毎年
お正月のおせち料理を食べるときに使う祝い箸を
あらゆる知人に配っています。
昨年、母は癌?で家族と離れ、京都の方に入院している
同僚の男の方に、何の気なしに箸を送りました。
その時、病気の進行により、既に食事はおろか流動食をチューブで
流し込むんでいる状態だとは知らなかったからです。
後でその事を知人から聞き、無神経なことをしてしまった、と
母は後悔していました。
しかし、お正月明けに来た一通の手紙。
その同僚の方からでした。
手紙には、このように書かれていました。
「病気になって初めて健康であることの大切さを、
食べるという基本的な人間の行動すらできなくなった自分は
切実に痛感し、半ば放心的になっていました。しかし、
そんな私にもいつもと変わらず箸を送ってくれてありがとう。
正月までにはこの箸を使って食事ができるように、頑張ろうという
大きな励ましになりました。本当にありがとう。」
手紙を読みながら母は泣いていました。
翌月、その方は亡くなってしまいましたが、母のした
行動は、彼にとってすごく勇気づけられたことだったんだなぁ
と思いました。

働きすぎの私のお母さん。
あなたも健康に気を付けて長生きしてね。


347: 感謝。 ID:7oPmteGh

このスレを見つけ、自分にも過去、いい話があるので投稿。
小学校5年生の時、俺は野球を初めた。すごく厳しいチームで、ヘマをしたら
怒鳴られ、バットでケツを打たれることも暫しだった。
そんな中、Yコーチだけはやさしかった。勿論練習中は一コーチとしてだったが、
練習後、ジュースをおごってくれたり、いろんな面白い話をしてくれたり本当に
オニーサンみたいな存在だった。当時Yコーチは40歳ちょっとで未婚だった。
コーチの中で、Yコーチが近い存在で何でも喋れる人だったので、よく俺たちは
「なんで、結婚してないの??」とちょっとからかったりしていた。でもコーチは
いつも言葉を濁しその後は何もいわない感じだった。
つづく。


348: 感謝。 ID:7oPmteGh

時がたち、俺が中学2年になった時、悲報が届いた。
母から「あんたが小学校の時のコーチのYさんが、亡くなったって、、」
すぐに、元野球チームメートと一緒にYコーチの家に。
持病が一気に悪化したらしく、突然の悲報に皆唖然。
向かうバスの中で皆で号泣、、、
家に着くとお母さんが出てきてくれた。二人暮しで、式の手取りをしないといけないらしく
忙しそうだった。Yコーチにそっくりでやさしい人だった。
部屋に案内され、俺たちはめちゃくちゃ泣いた。
俺たちが卒業前の最後の試合で、初めて公式戦で勝ったときの皆の集合写真が机に
飾られていた。練習はめちゃ厳しいが、とても弱いチームだったにもかかわらず、
他のコーチと違い、いつも明るく接してくれたのが彼だった。
お母さんが話してくれたが、持病を抱えていて、結婚すると奥さんに迷惑かけるから、
ということで何度も見合いを断ったそうだ。
本当にごめんなさい。何も知らずにガキのクセに生意気にからかったりして、、
「コーチー、ジュースおごってよ!!!」
「わかった、わかった、でも今回だけだぞ。」と笑顔で答えてくれた
コーチの顔が忘れられません。


362: ID:9Cnzu738

私の父は、高校の時野球部の投手として甲子園を目指したそうですが、「地区大会の決勝で9回に逆転されあと一歩のところで甲子園に出ることができなかった」と、小
さい頃良く聞かされていました。
そんな父の影響もあってか、私は小さい頃から野球が大好きで、野球ばかりやっていました。父も良くキャッチボールをしてくれました。
そして私は、小学5年から本格的に野球を始め、高校に入った私は迷わず野球部に入部しました。
ところが、高校入学と時を同じくして、父が病に倒れてしまいました。
その後入退院を繰り返し、高校1年の冬からはずっと病院に入院したきりになってしまいました。
父の体がどんどん細くなっていくのを見るにつれ、なんとなく重大な病気なのかなとは感じました。
父は、病床で私の野球部での活動内容を聞くのを一番楽しみにしてくれていました。


363: ID:9Cnzu738

そんな高校2年の秋、私はついに新チームのエースに任命されました。
それを父に報告すると、一言「お前、明日家から俺のグローブ持って来い!」と言われました。
翌日病院にグローブを持っていくと、父はよろよろの体を起こし、私と母を連れて近くの公園の野球場に行くと言いました。
公園に着くと父は、ホームベースに捕手として座り、私にマウンドから投げるように要求しました。
父とのキャッチボールは、小学校以来でした。しかも、マウンドから座った父に向かって投げたことはありませんでした。
病気でやせ細った父を思い、私は手加減してゆるいボールを3球投げました。
すると父は、怒って怒鳴り、立ち上がりました。
「お前は、そんな球でエースになれたのか!?お前の力はそんなものか?」と。
私はその言葉を聞き、元野球部の父の力を信じ、全力で投球することにしました。
父は、細い腕でボールを受けてくれました。ミットは、すごい音がしました。
父の野球の動体視力は、全く衰えていませんでした。
ショートバウンドになった球は、本当の捕手のように、ノンプロテクターの体全体で受け止めてくれました。
30球程の投球練習の後、父は一言吐き捨てるように言いました。「球の回転が悪く、球威もまだまだだな。もう少し努力せんと、甲子園なんか夢のまた夢だぞ」と。


364: ID:9Cnzu738

その数週間後、父はもう寝たきりになっていました。
さらに数週間後、父の意識は無くなりました。
そしてある秋の日、父は亡くなりました。病名は父の死後母から告げられました。
ガンでした。

病院を引き払うとき、ベッドの下から一冊のノートを見つけました。
父の日記でした。あるページには、こう書かれていました。
「○月○日  今日、高校に入って初めて弘の球を受けた。弘が産まれた時から、私はこの日を楽しみにしていた。
びっくりした。すごい球だった。自分の高校時代の球よりはるかに速かった。
彼は甲子園に行けるかもしれない。その時まで、俺は生きられるだろうか?できれば球場で、弘の試合を見たいものだ。
もう俺は、二度とボールを握ることは無いだろう。人生の最後に、息子とこんなにすばらしいキャッチボールが出来て、俺は幸せだった。ありがとう」
私はこれを見て、父の想いを知りました。それから、父が果たせなかった甲子園出場を目指して死に物狂いで練習しました。


365: ID:9Cnzu738

翌年夏、私は背番号1番を付けて、地区予選決勝のマウンドに立っていました。
決勝の相手は、甲子園の常連校でした。見ていた誰もが、相手チームが大差で勝利するものと思っていたようでした。
ところが、私は奇跡的に好投し、0対0のまま延長戦に入りました。
10回裏の我がチームの攻撃で、2アウトながらも四球のランナーが1塁に出ました。
そのとき打順は、9番バッターの私でした。
相手のピッチャーの球は、140KMを超えていました。打てるはずもありませんでした。
あまりの速さに怯え、目をつぶって打とうとしたとき、亡くなった父の顔が一瞬まぶたに見えたように感じました。
気が付くと、目をつぶって打ったはずの私の打球は、左中間の最深部に飛んでいました。
私は夢中で走りました。相手チームの二塁手が、呆然として膝から崩れるのが見えました。サヨナラ勝ちでした。

チームメイトは、感動で皆泣いていました。
応援に来てくれていた父の当時のチームメイトも、泣いていました。
スタンドの母が両手で持った父の遺影が、静かに笑って、うなずいているように見えました。


366: ID:9Cnzu738

甲子園では、結局1勝もできませんでしたが、父のおかげで甲子園に出ることがで
きて、とても楽しく野球が出来ました。
そのときもって帰った甲子園の土は、全て父のお墓に撒きました。
甲子園に出れたのは、父のおかげだったような気がしました。
これから、どんなに辛いことがあっても、父のことを忘れず努力していきたいと思っています。
ありがとう、お父さん!!


369: 病弱名無しさん ID:wCYTX+88

>>362>>366
何だか、この人がうらやましくなった。
確かにお父さんが死んだ事の悲しみは深いけど、この人はこれから来る
どんな困難も絶対に乗り越えられるし、人生前向きになれる・・・・・

これは凄い宝ですね(^^;


367: 病弱名無しさん ID:vCSq7vxA

うぅぅぅ・・・・、がんばれよ。
お前は宝をもっている。


378: 病弱名無しさん ID:DsBUpmmZ

この季節になると思い出します
高校生の頃のことです
叔母が入院したので、母と一緒にお見舞いに。
その病院は私の姉が入院していた病院で、
姉は白血病のため、4歳で亡くなっていました。
まだ私が生まれる前の出来事で、
ほとんど姉の事は聞くことも無かったため、母に
「この病院にお姉ちゃん入院していたんだよね」と話しかけました。
「来たついでに入院していた病室見て行こうか」と母は言いだし、
姉がいた病室前に行きました。

そこはすでに病室では無く、風呂場になっていて、母も
「ここもずいぶん変わったなあ・・・」と感慨深そうに
「ここに病室があって、ここにお店があって、お菓子を買った。」と
当時の院内の様子をいろいろと話しだしました。
それまで姉のことをほとんど口にしなかった母としては珍しいことです。
「それで、最後はなんでお姉ちゃん死んでしまったの?」
なんとなく姉の最後の様子を聞きたくなっただけなのですが、
母から返って来た言葉は
「お金が続かなかったんよ・・・」
それまで懐かしそうに病院の説明をしていた口調とは
うって変わった、重い一言でした


379: 378 ID:DsBUpmmZ

すみません、続きです
裕福ではない我が家では長期の治療費、
特にひきりなしに続く輸血代金の捻出は相当厳しく、
金の切れ目が、我が娘のこの世との切れ目とさせてしまった無念さが
それきり無言になってしまった母の背中からにじみ出ていました。
そして、なぜ姉の事は口にしなかったのかも。。。

どうしても女の子が欲しかったからもう一人生んだ。それがお前だ。
元気に育ってくれたし、これからも元気でいたらそれだけでいい。
といってくれるお母さん、いつも親不孝者してごめんなさい。
今度また電話します


380: 泣けないけど聞いてください ID:HyeAbEZF

今年の11月 私は夢を見た それは幼馴染の友人たちと遊んでる夢だった 私は今20代半ばで 
友人たちと世間話しているところだった すごく現実味のある夢で普段夢を見ることが無かったので夢か現実か分からなかった
 ふと友人たちの中に中学以来会ってない人がいて「久しぶり!」
と言うと彼が車でドライブをしようと言い出した 私は夢の性か何の疑問も持たずに
彼の車に乗って走り出した なぜだか風景は地元の田舎の風景が続いた ふと彼を見ると
黄色い顔していた さっきまではまったく気づかなかったが良く見ると服も擦り切れていた
彼を見ているとなんだか生気が感じられず 「病院に行った方がよくないか」と言ったが
彼は無言のままで 気がつくとなぜか友人達がいた場所に戻っていた そこで一番の親友に
「あいつ変わったな」と言うと「あいつって誰だ?」と言われ あいつは○○だよ 
ここで夢が覚めた 気づくと10時間も寝ていた 変な夢だなと思っていたがその時は
気にしなかったが 徐々に気になり○○の家に電話番号を親に聞いて電話すると事故で死んでいた
    


382: 病弱名無しさん ID:gcG4mEJ3

5年前に亡くなった祖父のこと。

祖父は人付き合いが上手い方ではなく、それは家族に対しても同様で、
特に子供に接するのは苦手としていたらしい。
そのせいか小学生時代の俺には、祖父はいつもムスっとして機嫌が悪く怖い人に見えた。
そんな祖父に理解を示し、自分から歩み寄るほど出来た子供ではなかった俺は、必然的に彼と距離を置いた。

祖父と馴染まないまま月日は経ち、俺が小学5年生になった秋のある日、俺は目に怪我をし入院した。
馴れない入院生活を気遣ってか、毎日父や母、祖母や兄たちが病室に訪れてくれた。
祖父だけは1度も姿を見せなかったが『あの人らしいや』と別に気にもとめなかった。
それほど俺と祖父の関係は冷めたものだった。少なくとも俺にとっては。

その頃から俺は人と話す時、必ずなにかしらネタをやりたがるヤツで、
入院中よくやったのは誰か見舞いに来た時に「帰ってよ」と言いフトンにもぐる、というものだった。
これは当時人気のあったバラエティ番組のネタで
確か島田神助演じる女のマンションに明石屋さんまが来るのだけど
神助は「かえってよ」「もうこないでよ」と言いドアを閉める、というものだったように思う。
そのギャグは大抵みんな知っていったので、見舞いに来た時の挨拶代わりみたいなものになっていた。
(続く)


383: 病弱名無しさん ID:gcG4mEJ3

(382続き)
その日、俺はする事も無く(目のケガなのでマンガも読めない)昼間から目を閉じボーとしていた。
その俺のベッドの横に誰かが来る気配がした。昼間ということもあって俺はそれが家族の誰かだと判断した。
誰か確認することもなく、ガバっと布団を頭からかぶると「帰ってよ」と言い放ちリアクションを待つ。
だが何の反応も無いまま、やがてその誰かは何も言わずベッドから離れて行った。
不思議に思い布団から顔を出すと誰もいない。一体これはどういうことなのか?
しばらくすると病室に看護婦さんが入ってきて、こう言った。
「今○○ちゃんのおじいちゃん来てたわよ。一人で来てたけど、ちゃんとお話した?」

後で知った話。祖父は実は家族とよく見舞いに来ていたそうだ。
ただし家族と一緒に病室には入らず大抵廊下にいるか、ロビーで待ってるかしてたらしい。
どうしてその日一人で来る気になったのかは判らない。
だが、祖父は一人で俺の見舞いに来てくれたのだ。そして俺に「帰ってよ」と言われた。
そして俺の希望通り帰った。祖父は…テレビなどめったに、ましてやバラエティ番組など見ない人だった。

1週間後、俺は退院し家に帰った。祖父はいつものように怒ったような顔で自分の部屋にいて、俺を見ても何も言わなかった。
俺もバツが悪くて何も言えなかった。むしろ『何も言わんと帰ったじーちゃんが悪いんや!』くらいに思っていた。


数年後の冬。祖父が亡くなったのを聞いたのは遊びに行った先でのことだった。
電話で母の「おじいさん亡くなったで」という言葉を聞いた瞬間、真っ先にあの病院でのことが鮮明に思い出された。
俺は自分が大人になって酒など飲めるようになったら、じいさんと飲んであの時の事をあやまろうって、ずっと思ってた。
だが上手いタイミングを作ることが出来ないまま日々を過ごすうち、祖父は病に伏せ、そして行ってしまった。

『じいさんゴメン。あん時はほんまにゴメン』
墓石にあやまってもしょうがない。そう思いながら、他に出来ることのない俺は今も謝り続けている。


396: 病弱名無しさん ID:P30GAtLC

私は小さい時から中耳炎で、しょっちゅう耳が痛くなって治療のために耳鼻科に行っていました。
小学校に入ると私が耳鼻科に行くために学校を休んだり早退したりすると
クラスの子に「病気でもないのに、授業を受けたくないから仮病を使っているんだ」と
散々からかわれて辛い思いをしていました。
うちの母は片耳が難聴で聴こえないんですが、おばあちゃん(母方の)がそれを気にしていつも
「ごめんね、お母さんの耳が悪いから○○ちゃんの耳も悪くなってしまって」と私に謝るのです。
小学3年生のある日、おばあちゃんが急にうちに遊びに来て「これから巣鴨に行こう」と言い出しました。
当時は子供すぎて巣鴨に何があるなんて知らなくて、ただおばあちゃんと出かけるのが嬉しくてついて行きました。
巣鴨に着くとおばあちゃんは長い行列に並んで
「ここはとげぬき地蔵様があるんだよ、お地蔵様の自分の体の悪いところを洗うと
身代わりになって治してくれるの」と言いました。
私たちの順番になるとおばあちゃんはシワシワになった手でタワシを持ってお地蔵様の左耳を
ゴシゴシと擦りながら「○○ちゃんの耳がよくなりますように」と一生懸命洗ってくれました。
帰りにおばあちゃんは「あんみつ食べて行こうか」と言って一緒にあんみつを食べました。
おばあちゃんは6年ほど前に亡くなったんですが、おかげで今では中耳炎も良くなり、
ここ5年は中耳炎で耳鼻科に行ったことが一度もないくらいになりました。
おばあちゃん、中耳炎良くなってきたよありがとう。


397: 病弱名無しさん ID:1O7CGwU4

>>396
天国から耳を治しにきているんですね。


399: 病弱名無しさん ID:XXCewB7C

>>396
最後の一行に泣けた


449: 病弱名無しさん ID:1pTHuKoP

息子が4才の時、私が羅患していたインフルエンザに感染し、
40度以上の高熱を出し、深夜に痙攣を起こした。
意識はなく、搬入先の病院から、翌朝、県都にある緊急病院に転送された。
ICU(集中治療室)のベッドに寝かされ、胸や鼻にチューブやらコードやら
取り付けられた。

医師からはインフルエンザ脳症ですと告げられ、壊死性脳症というタイプの
病状であり、今のところ小脳が壊死(脳が死んでいる)している旨、また、
症例もあまりなく治療法が確立されていないこと、過去の症例等の説明があった。
その説明を聞いて、「息子はもう死んでしまうのだな」と感じた。

医療処置があるのでとのことで、いったん待合所に出、椅子に座りながら、
妻(別の病院に入院中)にどのように説明しようかと悩んでいた時、
ふと目の前の清涼飲料の自動販売機に気がついた。
その中に息子がよく飲んでいたポケモンのオレンジジュースがあることを発見したのだ。
缶のふたのところに5百円玉位のおおきさのポケモンのコインが入っていて、
息子がコイン目当てに買っていた物だった。
その瞬間、これまでの出来事が余りにも突然なため、「息子の死」というものについて、
実感を持って理解できなっかたのだが、急に涙が溢れてきて、いつまでも止まらなかった。
昨日まで本当に元気にしていた。
覚えたばかりのふざけたテレビ漫画の歌を大声で歌うものだから、「うるせえ!」と
怒鳴りつけたのも昨日のことだ。そんなことが次から次ぎへと走馬燈のように頭の中を
回り、今病院にいることが夢なのかどうかさえも分からなくなり、ひとりで泣き続けた。


450: 病弱名無しさん ID:1pTHuKoP

それから、ICUでの入院生活が続いた。約1週間、依然として胸のチューブ等はついたままで、
意識はあるのかどうか分からず、普段の3分の1位しか開かない眼はうつろだった。
もちろん手や足はほとんど動かなかった。
話しかけても、返事もなく、時折眼球が私の方を追うようにゆっくりと動くが、
見えているのかどうかも分からなかった。

看護婦さんがテレビを運んできてくれた。「外からの刺激も大事ですから」と
NHK教育テレビをつけて去っていった。
それから2.3日。いつもと同じように息子が見えるように教育テレビをつけ、
私は呆然としながら脇に付き添っていた。
すると突然、かすれるような小さい声で「だ...ん....ご」。
びっくりして息子の方を向くと、テレビの方をみながら息子の口元がかすかに笑っている。
しゃべったのだ。
思わずテレビの音量を上げた。
テレビは「ダンゴ三兄弟」の歌を放送していたのだ。やっぱり息子の好きな歌だった。
テレビは見えていたし、歌も覚えていたのだ。
よかった。うれしかった。
歌が終わると、息子は眠りはじめた。
私は自動販売機にポケモンのジュースを買いに行った。


498: 病弱名無しさん ID:F6mUfdUS

>>449
今インフルで子ども病院連れてったとこ。
シャレにならん。不安で今晩は寝らんないな。


453: 病弱名無しさん ID:EPGtAr2O

>>449
・゚・(ノД`)・゚・。


469: 病弱名無しさん ID:vWai6kTS

私の母は私が8歳の頃に死んだ。リンパ癌だった。12月に亡くなった。
10月の運動会では私と兄がリレーの選手だったから見に来てくれた。でも、母の体は
痩せ細り1人では立っていられないほどだった。前々から母は入退院を繰り返していて、
病気だという事は父から聞いていた。でも、軽い病気と信じていた。
母も私や兄を心配させないために元気そうに装っていた。
運動会が終わって、すぐに母はまた入院した。
それから何回もお見舞いに行った。日に日に母は弱っていく。もともと細い体
が、もっと細くなり、骨と皮だけのようになってしまった。
家に帰っても、父は仕事でいないし兄はまだ帰っていなくって鍵っ子だった私。
いつも明るく装っていたけれど、ほんとはとっても寂しかった。
そんな生活が続いたある日。学校に行こうとしたら病院から電話があった。
3人で急いで病院に行った。そこには母がベッドで寝ていて、なぜか機械も外されていた。
初めて父が泣き崩れた姿を見た。それがなぜだか私には、すぐに分からなかった。
『お母さん。どうしたの?』声をかけても返事がない。すると、父に抱き寄せられ
『お母さんは天国に行ったんだよ。お母さんは今まで苦しかったんだ。
でももう苦しまずに過ごせるんだよ。一緒にさよならしようね。』やっと、母が
死んだということがわかって涙が溢れた。
その後お葬式の時は、友達が来ていて照れ笑いしていたけれど、だんだん
悲しみが増してきた。そして今。もう私は20歳になりました。
お母さん、私の姿見えますか?
辛い事も悲しい事も今まで乗り越えてきた私だから何があっても大丈夫。
心配しないでこれからもずっと見守っていてね。
家族3人これからも元気で頑張るよ!


553: 病弱名無しさん ID:mq9jg2qU

かれこれ10年ほど前、俺が高校2年の頃の話。

俺、けっこうばーちゃん子でさ。
中学終わり頃までは家が近所だったこともあってちょくちょく
ばーちゃんの家に行ってたのね。
それが、別に意識してたわけじゃないんだけど、
高校入ってぱったりと行かなくなって、
不思議と呼ばれもしなくなってさ。

ホント知らなかったのが恥ずかしいんだけど、高校2年の7月に
いきなりじーちゃんがヤバイって聞かされて、そこで初めて
ばーちゃんちに呼ばれなかったこと、いやに音沙汰なかったこと、
一度突然顔出しに行った時ばーちゃんしかいなかったこと、
そんなのがいろいろわかってさ。

それで、とりあえず見舞いに行ったんだよ。
そしたらもう見た目ホントに別人なのね。皮膚に斑点っていうのかな。
内出血みたいなやつがたくさん出来てて、痛々しくてさ。
腕とか足とか半分ぐらいまで細くなってるし、
ロクに声も出なくて、こっちはすげぇ泣きそうなのに
じーちゃんだけ一人で笑顔でさ。あーもう書いてて泣いちゃう。

とりあえず涙とまんないので続く。。


554: 553 ID:mq9jg2qU

でね。俺が「大丈夫?」って聞いたら「うんうん」って頷くんだよ。
見たまま大丈夫じゃないのに。「痛くない?」って聞いても「うんうん」。
もーさ、今思えばバカな事しか聞いてなくて恥ずかしいんだけどさ。。
そんなやりとりしてたらじーちゃんが手出したのね。握手みたいに。
そんでじーちゃんの手握ったらさ。
えらい強く握り返されちゃってさ。。無理しちゃって。。

手離したと思ったら、今度はその手で
帰れ帰れ、ってやるんだよ。え?って顔したら
指でわっか作ってさ。金はないよ、っていう手振り。
声出ないくせに「金なんかないから帰れ」って言いながら
笑ってんだよ。じーちゃん。。
俺、なんも言えなくて、危ないかもしれないっていう
病人の前で泣くなんて絶対イヤだったけど、
それ見てボロボロ泣いちゃったよ。


じーちゃんは、その翌日早朝、逝っちゃいました。

じーちゃんが死んで今年の7月でちょうど10年。

うまい米を食うと
「おかずは何でも良いから米だけは旨いものを食わせてくれ」
って頼んでたじーちゃんを思い出します。


555: 頭悪いから乱文。 ID:yHDLEK4s

3年前までプーやって働いてた。
母親のみの片親だったけど、月々ちゃんと家にお金入れてたし暮らしは
悪い方じゃなかった。
惨めそうな母を見ているのが嫌で、家に帰らないことが度々だった。

いつもみたく遊びほうけて、2週間家に帰らないことがあった。
久々に家に帰ってくると、母は布団の中で急死してた。
一人で・孤独に・2週間もの間・誰にも気づかれず死んでいった・・・・・・。

あのプーやってた時のお金を使って、母に美味しい物食べにつれてったり
行きたいって言ってた北海道に行けばよかった。

私の人生の中でこの後悔は一生消せない。


556: 金八 ID:muUNWTsS

後悔先に立たず。親だけは親だけは大事にしろよ。絶対後悔するから


590: 病弱名無しさん ID:5F0eS2EB

ここを読んでいて思い出したことがありましたので
書き込ませて頂きます。

丁度、一年前にうちで飼っていた犬が寿命で逝きました。
その日友人と学校帰りに寄る所があったので帰りが少し遅くなり
発車する前の人気の無い電車の中で携帯を持っていなかった私は
友人から携帯を借り、「今から5時電で帰るから」と母に連絡をしました。
母はその事に返事をした後すぐに「ロロ(うちの飼い犬の名前)が
死んだよ」と言ったのです。
「うそっ」あまりにいきなりなことだったので信じられませんでした。

母の話によると、その日の昼にロロは息を引き取ったそうです。
動物の葬式をしてくれるお寺の御住職さんは「私は40年ここで
住職をしてますが、18年も生きた犬は初めてです」
と言っていたそうです。
(続く)


591: 病弱名無しさん ID:5F0eS2EB

携帯を切った後、思わず私は友人に
「ロロが死んだって…」と言ってしまいました。
言わずにはいれなかったのだと、今になって思います。
携帯で聞いた事を私は友人に全て話しました。
話しているうちに涙が出ていました。友人は
「18年も一緒ってことは小さい頃から飼っていたんだから
それはつらいね」と言いました。
慰めや優しい言葉よりも、当たり前の事を言ってくれた
友人には感謝しています。

しばらくして、家族とロロの墓参りに行きました。
墓参りと言っても、ペット霊園ではなく、動物専用の共同の
一つのお墓なので、お墓の周りには色々な花やペットフードが
たくさん供えてありました。
お墓の両脇に犬と猫の石像が立っているのですが、犬の石像を見た時
私は驚きました。その石像はロロにそっくりでした。
大きさも同じ位でした。「この石像、ロロにそっくりだね」と
私が母に言うと、母は「そうでしょ」と言いました。
帰る時に私はその犬の石像の頭を撫でてから帰りました。

もう少しで暖かくなるので、そうなったらまたロロに会いに行こうと
思っています。


594: 病弱名無しさん ID:FIrj4Q9h

飼い犬ネタはやめて。
俺、泣いちゃうぞ。


598: 病弱名無しさん ID:G0PYpuIt

本人が見てくれている事を祈って

6年前に5歳年上の彼女が居た
彼女の父親が癌で(当人も知っていた)
彼女の嫁姿が見たいと言っていた為亡くなる3週間ほど前に
嘘でも良いから結婚相手だと挨拶して欲しいと言われた
彼女の父親は
「心配事がこれでなくなったな、婆さん(奥さんのこと)も一緒によろしく頼むな」
と喜んでもらえた。俺も親孝行が出来て嬉しかった

彼女の父親が亡くなった1年後から具体的に結婚話をするようになったある日
急に、彼女と彼女母親との連絡が取れなくなった
家に行っても、電気はついておらず
会社も辞めた後でした

それから数ヶ月後(はっきり覚えてない)ようやく一本の電話があった
「私、女じゃなくなっちゃったの。。。ごめんね」
このような内容だったと思うがこれだけで電話を切られてしまった

身に覚えのある奴
頼むから帰ってきてくれ。
それとも、もしかしたらフラレタだけなんか?


600: 病弱名無しさん ID:g2ivO27/

>>598
何らかの疾患で子宮摘出
      ↓
子供が生めない体になった
      ↓
彼と結婚する資格がなくなったから身を引いた
ってことなのかな・・・?
それとも、「『あなたの』女じゃなくなっちゃったの・・・」ってことなのかな?
なんにせよ、彼女、本当の事を言ったってくれや~(´Д⊂ヽ


670: 病弱名無しさん ID:FVKdkBlD

生きていていちばんたくさん涙を流したときのことを。

私には結婚を約束した人がいました。突き詰めては決まっていませんでしたが、
もう双方の両親、友人たちにも結婚するということを伝えていました。
彼との未来を夢見て貯金にも励んでいました。
が、彼は交通事故にあってしまいました。
幸いにも一命は取り留めましたが、ひどい怪我でした。
彼のお母さんと交代で私も懸命に看護し、一日でも早く治ってくれるよう願っていました。
でもその願いとは裏腹に彼は一向によくなりませんでした。
詳しいことはわからないのですが、いろんな後遺症があったみたいです。
それでも私は病院に通い続けました。それが当然だったから。
でもある日、来た私の顔を見るなり彼は「もう来るな」といいました。
びっくりして訳を聞くと……。


671: 病弱名無しさん ID:FVKdkBlD

(上げてしまいました、すみません)

彼が言うには、日に日に皮膚の感覚がなくなっているんだそうです。
身体も動かなくなっている。脳か脊椎をやられたんだ、と言っていました。
驚きましたが、それと私が来ていけないのとどう関係があるの、と。
彼は私の手を握り、この手を握る感覚が日に日にわからなくなっていく。
手がただしびれている。意識だって時々ぼんやりする。
そのうちお前の手だってこともわからなくなるかもしれない。そんなこと俺には耐えられないと。
家に帰った後、一晩中泣きました。このまま彼は家族のことも私のことも
わからなくなってしまうんだろうかと、とても怖かった。
彼の症状はやはり、悪化していきました。何でこんなことになるのか
私にはさっぱりわからなかった。横たわる彼の手を握っても握り返して
くれないぐらいにまで、彼は弱ってしまった。
彼のお母さんにも、つらいだろうから無理して来なくていいのよ、と
言われました。つらいけど、無理なんかじゃない。でも……。


672: 病弱名無しさん ID:FVKdkBlD

私はもう彼と結婚できないんだろうか、彼のお嫁さんになれなんだろうか…。
いつまで私は彼のそばにいれるんだろう…。
不安で怖くて悲しくて、毎日泣きました。
家族が心配するので、夜、布団の中で口を押さえて泣きました。
一ヶ月もしないうちにとうとう彼は植物状態になりました。
弱っていく自分を感じて、こんな日が来ることを彼は知っていたんでしょうか。
名前を呼んでも手を握っても、ここにいるのが私だとわかってもらえない。
彼のご両親に言われました。「今までありがとう。息子はもう
こんな状態でとてもあなたと結婚はできない。早く息子のことは忘れて、幸せになってくれ」と。
その言葉のとおりにしても私は誰にも非難されなかったでしょうが、
私はそれが怖くて仕方ありませんでした。
どうすればいいのか、本当にわからなかった。
彼の赤ちゃん、身ごもってないかな…と少し妄想もしたものです。


673: 病弱名無しさん ID:FVKdkBlD

 あれから二年経ちますが、私は新しい恋人など作れませんでした。
彼は今も病院で眠っています。最近は少し落ち着いて顔を見れるようになりました。
彼の両親とも家族のように付き合ってくれています。
 いつか彼がむっくり起き上がって、「おはよう」と言ってくれる夢を私はまだ、見ているようです。

長くてすみませんでした。


675: 病弱名無しさん ID:4mR6kBz4

670-673
・゚・(ノД`)・゚・。
ごめん、ほんとにごめん。ネタくさいよぅ


676: 病弱名無しさん ID:gmm+cjLv

>675
ネタなら、いいじゃない。
こんなこと、自分に起こったら私もどうしたらいいかわからない…。


682: 病弱名無しさん ID:CoXoMkfa

お袋の兄貴(漏れの叔父)は、6才で亡くなった。

いつものように、近所のガキと木登りしてた柿の木から落ちて
動けなくなった、落ちただけなのに様子がおかしいと病院へ連れていったら
白血病だった。もう50年も前だから、当時は白血病の例すら少なくて
入院すると、エライ医者とその部下が集団で検診に来たそうだ。
次々と10何人もが、6才の叔父のお腹を触って検診する。
「冷たいから、お前ら触るな!」と医学生の手を払いのけて怒る小さな彼を
泣きながら見守るしかなかった婆ちゃん。
治療の方法すら余りなくて、最期は鼻血がずっとポタポタ止まらなくなった。
それで鼻から脱脂綿をずーっとつないで、ベッドの横の洗面器に
鼻血がたまるようにしたらしい。絵本で読んだのか「天使さまが見えるよ」
と最期の頃には、うわごとのように言ってたそうだ。

小学校に入学したばかりだった。ほとんど使われる事のなかった
ピカピカのランドセルを残して、亡くなった。享年6才。
叔父の写真は今も仏壇にあり、90才になった婆ちゃんが毎日拝んでいます。


684: 病弱名無しさん ID:OddGbIcT

>最期は鼻血がずっとポタポタ止まらなくなった。
>それで鼻から脱脂綿をずーっとつないで、ベッドの横の洗面器に
>鼻血がたまるようにしたらしい。

つらいなあ。それを見る親の気持ちを思うと更に辛い。
子供が痛いおもいをするのはきついなあ。


それから・・・670~673の彼女。
もし別の誰かを好きになっても自分を責めないようにね。


685: チビ ID:HYuBYDJY

今日の朝、うちの猫が死んだ。

三ヶ月ほど前、あいつはうちに迷い込んできた。
ニャー、ニャー鳴いて、おれの後ろを付きまとってきたんだ。

元来、俺は猫が好きじゃない。犬に比べれば愛想も良くないし、
猫の鋭い目つきも好きじゃなかった。

でも、あいつは普通の猫とは違った。愛想を振り撒き、俺を見つけると
一目散で走ってついてくる、座ってるとひざの上にのっかってくる。
まるで、犬みたいな猫だったよ。

見た目にも、まだ小さくてさ。贔屓目抜きにしても、猫のえさのパッケージ
とかのモデルできるんじゃねーかってくらい、べっぴんさんな猫だったよ。


686: チビ ID:HYuBYDJY

あまりにも、かわいくなってきちゃってさ。飼うつもりはなかったけど、
とりあえずえさを与えたわけ。

うちん家はさー、じいちゃんと、かあちゃんが動物嫌いだからさ、
「えさやって、居着いちゃったらどーすんの!」って反対されてさ。
けど「まあー、一回くらいえさやってもいいでしょ」って思ってさ。

それからさ、いつのまにかあいつはうちの猫になっちゃったワケ。
反対してた母ちゃんも「チビ、チビ」ってかわいがってさ。
じいちゃんも、最後まで反対してたんだけど、いつからか(反対してた手前もあって)
みんなに隠れて、煮干し与えたりしてかわいがってたみたい。
父ちゃんのかわいがり様っていったら異常だった。
もともと動物は好きみたいなんだけど、我が子の様にあいつを
かわいがってたよ。

あいつが来てから、我が家はあいつ中心の話題でよく盛りあがったりしてさ。
あいつは、いつからかうちの家族全員に愛されていたんだ。


687: チビ ID:HYuBYDJY

昨日の晩からあいつは、居なくなってた。
「いつもの事で、まあまた戻ってくるでしょう」って楽観してた。

そして、今日の朝。
母ちゃんに、たたき起こされて「チビが前の道で、車に轢かれてるって
隣のおじさんが言ってる」って。
「はぁ?」おれは寝起きって事もあって話が良く飲み込めなかった。
とりあえず、母ちゃんと一緒に、見に行ったんだ。

遠目にも、何かが道端に死んで居る様に見えた。「まさかね」って。

でもさ、ピンクの首輪が見えた時、俺にはそれがチビだってことを
認識する以外になかった。

おれは、駆け寄って血だらけになった冷たいチビの体を抱き上げた。


689: チビ ID:HYuBYDJY

不思議にその時は涙は出なかったよ。まだ理解できてなかったのかも。
家まで連れて帰って、ダンボールにチビを下ろした時、俺の手に残った
チビの赤い血を見たとき、涙は溢れ出したよ。
「チビが何でで死ななきゃなんないんだよ」って、
まるでだだっこのガキみたいに号泣した。


690: チビ ID:HYuBYDJY

それから、しばらくしてチビの墓を庭に作ってやった。
じいちゃんが「寂しがりやな猫だから、うちに埋めてやろう」っていうし。

全て、終わらせて、自分の部屋に戻って携帯見たら、待ち受け画面で
俺が撮ってやったチビがまっすぐにこっち見てた。
それ見て、また泣いた。

今、やっと気持ちも落ち着いてきた。
けど、チビとの思いでを思い出しては涙ぐんでしまう。

父ちゃんは早朝から出張出掛けてまだチビが死んだ事を知らない。
さっき電話あって「チビ帰ってきた?」て母ちゃんに聞いたらしいけど、
「まだ」って答えてある。
車で出掛けてるから動揺して事故でもあったら困るからって。


691: チビ ID:HYuBYDJY

あんなにチビをかわいがってたんだから父ちゃんは
帰って事実を知ったら激しく落ち込むのだろう。

しばらくは、うちの家族の気は晴れないんだろうな・・・。

チビ、ごめんな。昨日の晩テレビなんか見てないでお前を探しに行けば
良かったよ。一人で死んでった寂しがり屋なお前の気持ち考えると、
涙が止まらないよ。暖かくなったらシャンプーしてやるって言って
たのに、してやれなくてごめんな。本当に、ごめんな。ごめんな。

・・・・・・・・・今うちの家族はお前が居ない喪失感でいっぱいだよ。

板・スレ違い、長文、スイマソン。


696: 病弱名無しさん ID:/CDcdLph

>>687~691
2chで泣いたのは初めて。


722: 病弱名無しさん ID:tHdIByt3

私の父親の事を聞いて下さい。

10年くらい前に過労により心臓を痛めてしまって、入院&手術をしたんです。
手術は無事に終了し、その後、身障者という看板を背負いながらも私を大学院へと
進学させてくれました。

それで、東京の大学院在学中に付き合っている彼女
(結婚を前提で、卒業後結婚する約束をしていた彼女。遠距離恋愛である。)
と話し合いの結果、若い間に子供が欲しいということで、子供を作りました。
最近流行のできちゃった結婚ではありません。計画的な子供です。

話が逸れましたが、大学生活最後の卒業式には両親に出席してもらおうと思い、
山口県に住んでいる両親を東京へと呼びました。そして、彼女の両親と顔あわせをさせようと思い
青森県に住んでいる彼女の両親も東京に呼んだんです。
山口県と青森県。東京はその中間にあり、この時しか無いと思ったわけです。

そして、卒業式も無事終わり、その日の夜、自分の両親と彼女の両親のために宴会の席を
設けました。

「いつにも無くお酒が美味しかった。」

父の言葉が印象的でした。


723: 病弱名無しさん ID:tHdIByt3

翌日、天気は雨。
自分の両親の宿泊しているホテルから電話がありました。
電話は母からでしたが、どうも父の様子がおかしいという内容でした。
話しによれば、左半身の感覚がだんだんと無くなっているとの事。
車を飛ばしてホテルまで行き、父に会いました。幸い意識はハッキリしていたので
状況を伺うと、頭が痛くて、だんだんと左手、左足が動かなくなっていくとのこと。

すぐさま救急車を呼ぼうと思いましたが、最初に触れた心臓の件もあるので、
身障者という事情を知らない病院に搬送、入院、手術となるとリスクがあります。
また、母のことを考えると山口から遠く離れた東京の病院に入院させるわけにも行きません。

それで、私はいちかばちかの掛けに出ました。
すぐに東京駅から新幹線に乗せて、心臓病の主治医のいる病院に入院させる事にしたのです。
東京駅まで車を飛ばして、新幹線の予約を、すぐに乗れて一番早い便へと変更してもらいました。
その間、父の左半身の症状は悪化する一方でした。
意識がハッキリしていること、そして頭痛が納まりつつある事がせめてもの救いでした。
もっとも、そこに私は望みを託した訳ですが。

新幹線に乗せると、あと私には何もできる事がありません。
出きることと言えば、山口県内に就職した兄に電話をすることと、
意識のあるうちに病院までたどり着いてもらいたいと願うだけでした。


724: 病弱名無しさん ID:tHdIByt3

当時、新幹線で広島駅までは約3時間30分。
母親には凄く長く感じられたことでしょう。
私も東京駅から自宅への道のりは非常に長く感じました。

自宅について、しばらくすると兄から電話がありました。
今、父が病院についた。意識はハッキリしているとの事でした。
すぐさま緊急検査、緊急手術、緊急入院となりました。
病状は脳内出血。無事に手術は終わりました。
わずかでも出血部位がずれていると意識がなくなり死に至る可能性があったと知らされました。
また、心臓病で投与されている薬を把握していない人が手術をすることは危険だ。
ここで手術をしたのは正解だ。と言われました。
しかし、左半身はリハビリを続ければなんとか少しは動くようになるかもしれないが
それなりの覚悟は必要と言われました。

翌日(父が倒れてから2日目)、私は予定通り入籍を済ませ、意識の戻った父に
一言、入籍した旨を伝えました。


725: 病弱名無しさん ID:tHdIByt3

天国と地獄を同時に見たような一日から3ヶ月がたち、青森にいる妻から女の子が産まれたとの
連絡を受けました。
しかし、先天性心臓病だと診断され、手術をしないと半年も生きられないといわれました。
もちろん手術をする事を決め、東京の有名な病院に転院しました。
例の事件(事故)が起きたのは、丁度入院しているころです。
何とか無事に一回目の手術は成功しました。
しかし病気の部位が父の心臓病と似たところだったので、父にはこの事を話せませんでした。

最初の年末年始を迎えて、家族を連れて実家(山口)に帰ったときのことです。
丁度ニュースで例の病院の件が放送されました。
父は娘がその病院で手術を受けたと知らないのであれこれ言っていましたが、
私は頷くことしかできませんでした。

今でも父に娘の件を話す事ができません。親に隠し事をする親不孝な息子をお許しください。
全て実話です。


746: 病弱名無しさん ID:FoSbReWF

>>722 725
 大人ですね。 あなたを含めたご家族の幸せをお祈り致します。


770: 病弱名無しさん ID:7T7WrZsN

1年半ぐらい前、3つ上の姉に二人目の子どもが出来たんです。

ウチの親は生まれるまで性別を聞きたくない、と言っていて
私は遠くに住んでいることもあり、親と同様に生まれるまで知りませんでした。

出産の次の日の夜、電話をしました。
出たのは私の母でした。

私:「産まれた?男?女?」
母:「うん、産まれたよー。男の子。」

ここまでは普通の口調、普通の会話だったんですが
母は急に泣き出しました。

そして、


771: 続き ID:7T7WrZsN

・産まれて来た子どもはダウン症だったこと。
・ダウン症の原因は遺伝子にあり、今の医学では完治できないこと。
・完治できない故に一生付き合っていかなければいけない病気であること。
・普通の子に比べて成長が遅く、普通の学校・普通の生活は難しいこと。
・脳の発育も遅く、知能障害になる場合があること。
・長く生きられない子も多いこと。

こういった事を教えてくれました。
ずいぶん長い間電話していましたが、母も私も泣きっぱなしでした。

せっかく産まれて来たのに、周りの私たちが泣いてちゃいけないよね。

そうは言っても涙が止まりませんでした。


今、その子は1歳半です。
一応元気そうですが、風邪レベルでも即入院です。
痰の処理?のようなものができないらしく、人工気管をつけています。
想像しにくいと思いますが、首からチューブが出てるんですよ。

次に会えるのはお盆かな。
気をつけてるわけじゃなくて、笑顔でいられるのが嬉しい。
あの時は泣いちゃってごめんね、っていつも思ってます。


772: 病弱名無しさん ID:9B0A5HPO

ダウン症の子は皆とても明るく人懐っこくて
天使の子供とも言われますよ
そのお子さんが皆に愛され幸せに過ごせますように
またご家族の皆様の幸せもお祈りいたします


773: 病弱名無しさん ID:NmE1JwUj

親友の目がもう見えなくなった。
「アタシの顔覚えてるかー?」
と聞いたら
「覚えてるよぉ、当たり前~。」
と、微笑んでくれた。
この前も
「あたしの事、邪魔だと思ったら手はなして先行っちゃっていいよ。」
と言った。
思わず彼女を抱きしめると
「何だよう、あたしにそのケは無いぜ」
と言って泣いていた。
でも涙は流れていなかった。


775: 病弱名無しさん ID:7XqwyUnf

>>773
内容は大分違うのだけど、
川原泉の「銀のロマンティック~」を思い出した。


793: 病弱名無しさん ID:iun+ssJl

大好きだった友達が、交通事故で死んだ。
彼に会いに行く途中だった。
知り合いの車に乗せてもらっていく途中、運転していた知り合いが
事故を起こし、彼女だけ車から投げ出されて死んだ。
即死だった。
突然の死で、通夜も葬式も全然実感がなく、ボケ~っとしているうちに
終わった。
葬式の帰り道、桜が満開でものすごくきれいだった。
東京に住んでいた彼女は4月早々に花見を済ませ、
彼女と一緒に花見に行った友人は、彼女が桜を見ながら
彼の話を楽しそうに語り、彼から来るメールを気にしていたと言う。
「彼女はもう桜を見ることが無いんだな」と思った瞬間、
号泣してしまった。
あれから4年。こっちは桜が満開です。
桜を見るたびに彼女のことを思い出し、胸が苦しくなる。


797: 病弱名無しさん ID:K15NBjXP

2年前、私のことをかわいがってくれた伯父(父の兄)が亡くなりました、末期の咽喉ガンでした。
私は小さい頃から人見知りが激しく神経質、おまけに偏食だったのでよそで食べ物が食べられませんでした。
でも伯父はそんな私に「Sちゃん、これ好きだっただろう、食べな~」と言っていつも私の好きなものを買ってきてくれて、
人を喜ばすのが大好きな人でした。
私が専門学校に入る時も保証人として願書に署名してくれ、
「Sちゃんに合ってるよ、がんばって通いな」と言ってくれました。
その伯父がおばあちゃんが亡くなった翌年から急に具合が悪くなり入院、
ノドにできたガンは想像以上にひどく、手術後、伯父は鼻を押さえないとうまく声が出せなくなってしまいました。
それを聞いて私はなんとか治って元気になってもらおうと、一人で千羽鶴を折りました、二週間かかりました。
父が入院している伯父の所に千羽鶴を持っていくと伯父はとても喜んでくれたようで、
私は伯父が喜んでくれただけで嬉しかったのに私に2万円くれました。
後日、伯父が退院したというので家族で家に行くと、不自由になってしまった声で
「Sちゃんありがとう、すごく丁寧に折ってあるって、病院で評判になっちゃったよ~ありがとね、嬉しかった」
伯父も退院したし、私はとても嬉しかったのですが、
数日後、父から「伯父さん、ホスピスに入るから・・・」と言われました。
伯父は元気になって退院したのではなく、ガンが末期でもう手のほどこしようがなくて、
本人にも告知されているために退院したのでした。
私が千羽鶴をあげた時にはもう遅かったんです。
ホスピスとは末期ガンを告知された人が亡くなる時までを過ごす施設です。
→つづく


798: 797 ID:K15NBjXP

伯父がホスピスに入って数ヶ月後のことでした。
お見舞いに行っていた父から「ハンバーガー買っていってやる、何がいい?」と電話がかかってきました。
うちの父はハンバーガーとか嫌いなのに急にそんなことを言うなんておかしいなと思いました。
そして父がハンバーガーを買ってきて
「これ伯父さんから“子供たちにハンバーガーでも買ってやれ、ハンバーガーならSちゃんも好きだろう”ってお金くれたから」
私は泣きながらそのハンバーガーを食べました。
それからすぐ3日後、伯父は亡くなりました。
小さい頃から伯父に迷惑をかけてばかりいた私。
伯父の「ありがとう」という言葉は一生忘れません。
私も伯父に心からありがとうと言いたいです。
そしてこれからも天国から見守っていてください。


799: 病弱名無しさん ID:GVUVED0m

>Sちゃん
ううううぅぅ、伯父さんの為にも偏食なくせよ~。
社交的になれよ~。


48: 病弱名無しさん ID:9wlcJb0R

みんな人の死とかをちゃんと正面から受け止めた上で
ちゃんと乗り越えて、生きてるんだね。
「命」について考えさせられる。


88: 病弱名無しさん ID:HxLlv3HQ

健康って大事だね


319: 病弱名無しさん ID:cgQyckWz

このスレ読んでると心が洗われるような気持ちになれる。
久しぶりにいい話が沢山聞けました。ありがとう。

711: 優しい名無しさん ID:FEz59SAy
ここの話には感動したが・・・やっぱり自殺しまつ・・

713: 病弱名無しさん ID:RIu4FuSR
>>711 

”君が死んでも世界は変わらない。 

 でも、君が生きていれば世界はきっと変わっていく。”


551: 病弱名無しさん ID:A836F+4v

人は力の限り生きればそれで良い。
年月は関係ない。
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♯51901
不幸が無いと感動にならないのかなぁ
かうんたっく

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