【ニュー速】そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ てんこもり。


powered by てんこもり。

【ニュー速】そろそろ8月だし、おまいらが身内や知人から聞いた戦争体験でも書いてけ

1: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:22:20.28 BE:844481327-PLT(12345) ポイント特典

【記者と案内人】朝日新聞記者と小学校教員、異なる戦争体験

 1935年、糸満の漁港で写したとみられる記念撮影風の1枚には、沖縄を取材して本土に戻った大阪朝日新聞の記者と、糸満での取材を案内した人たちが写っている。
その後の歩みは異なるが、それぞれが激動の時代をくぐり抜けていた。

右端は、同紙連載「海洋ニッポン」を担当した守山義雄記者。
朝日新聞在職中の64年、53歳で亡くなった。同僚らがまとめた「守山義雄文集」(65年)で、この間の足跡が分かる。
日中戦争が始まった37年には旧日本軍が占領した南京におり、39年にはナチス・ドイツの首都ベルリン特派員になった。

攻略直後のパリやソ連との戦いなどを取材して45年5月1日夜、攻防下にあったベルリンで、ヒトラー死亡のラジオ放送を聞いたようだ。
同盟国だった日本の記者として、こう振り返っている。
「筆者らはいわゆる盟邦の記者…両国の戦時プロパガンダ政策の垣根からは一歩も外に出られない、いわば…一個の兵隊にすぎなかった」

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/111965
no title
9: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:25:05.79 
俺の婆さんの旦那が戦争終結後帰ってこないから死亡扱いになって旦那の兄と再婚したら 
しばらくしてひょっこり帰ってきて超修羅場ったって聞いた 

18: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:32:27.39 
二二六事件に参加したじいさんが第二次世界大戦中に東条英機から怒られたって言ってた。 
理由聞いたら軍事機密だから教えられないって言ってた。 
そして死んだ 

19: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:32:53.40 
うちのじーさん、ジャワ島で戦闘機が故障して不時着して、そのまま終戦まで現地で米作ったり水車を作ってやったりして楽しく過ごせたんだと。 
色々現地人に教えてやってるうちにジャワの言葉も覚えて、すっかり現地に溶け込み、終戦後日本に帰るときには引き止められるほどだったとか。 
軍資恩給?は海外にいると多く貰えるとかで、満額支給。ばぁさんが亡くなった次の週には「わし、よそにも女いるからお別れや」と言って出ていったきり消息不明。バイタリティが俺らとは段違いだは 




34: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:41:21.67

50キロ離れた隣町に子連れで行ったら、運悪く空襲に合い
子供を背負って、走って帰ってきたおばちゃんを知ってる。
途中、何度も、土管の中とかで身を隠しつつ。


36: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:43:03.88

去年墓掃除してたら骨壷の中に骨の代わりにピカピカの勲章が入ってた


39: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:45:59.15

岡山県にいた第17師団だったと思う、祖父が高松で訓練を受けて南方へ向かう前に戦争が終わったとずいぶん前に話してくれた事があった

戦争が終わって岡山県の和気町あたりへ帰る際、本当に酷い雨で西大寺から長船町あたりは洪水だったと

その雨で和気町の川が増水、学校の屋上に避難した先生と生徒は建物ごと流されて助けを求めながら濁流の中で校舎が倒壊。みんな亡くなったんだそうだ。いま消防署がある辺りから少し南に行くとカーブになってて、そこで

戦争が終わって助かったというのに気の毒な話で、祖父の姉さんもその話を聞かせてくれた時に居て当時の事を話してくれた。図書館があるところの橋に慰霊碑が建ってる

実際は満州も南方も戦地へ行ったと祖母は後から教えてくれたが、戦争の悲惨さはとても言葉で伝えられるものではないのだろうね
口に出しても何か違う、いやこうじゃないって感覚


40: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:48:51.84

爺さん→神奈川(横須賀?)で訓練中に終戦
婆さん→飛行機に機銃で撃たれるから姉妹で隠れる話や、近くの山にある横穴は防空壕の跡って話

まぁ爺さんの話は、思うところがあったのか、私がガキ故にだったのか本人から聞けず、死んだ後に婆さんから聞いた。


41: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:49:07.28

海軍におったじいちゃんの話で
軍艦の大砲?に配置してたら隣の兵隊さんが戦闘機の弾に当たって吹き飛んだらしい
ほんと凄い時代を生き抜いてきたんだなって思った


44: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:52:03.85

俺のじい様戦時中インドシナにいたんだけど、バナナ食い過ぎて腹壊して入院した
でもそのおかげにインパール作戦に参加しなくて済んだらしい

だけど終戦直後日本が負けたと知った瞬間じい様の部下が手榴弾抱えて目の前で自決したのを止められなかったのを今でも忘れないって言ってた


45: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:52:15.17

爺さんがシベリア抑留組。中尉だったから4年間強制収容所送り
兵卒は1、2年位で帰れたらしい
ガタイのいいやつから栄養失調で眠るように死んでいったとか
爺さん体が小さくて生き残ったけど、帰ってきて1年間は栄養失調のせいで頭が動かず働けなかったらしい

航空整備兵だったので隼も整備したとか
なお本人は話したがらず、直接聞いたことはなかった


61: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:58:58.96

>>45
うちの親父もシベリアだな
少尉だったんだが、学歴もあるってんで途中でモスクワまで連れていかれて
徹底的に共産主義を叩き込まれたらしい
まあ日本に帰ったら活動してくれってことらしいな

しかしうちの親父はまったく赤化してなかった
どうしてなのか聞いたら
「そりゃお前、聞けば聞くほど共産主義って絶対にうまくいくはずがないってのがわかってくるんだよw」
って笑っててわ

あんな怪しげなものに飛びつくのは、貧しい農家出身の奴とかが多かったなって言ってた
「平等って素晴らしい!!」ってなるらしいw


73: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:04:39.27

>>61
ああそんな話は聞いたわ。
皆んな赤に染まったふりしてたとか。でないと返してもらえないかららしいけど。


46: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:53:07.01

起きろ 起きろ みんな起きろ~ 起きないと班長さんに怒られるぞ~


65: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:00:20.98

>>46
惜しいな、最後は「叱られる~」じゃった。

私は昭和2年生まれ。戦場に行った最後の代です。
実地と称して高校の後半は長崎で艤装員付きのお手伝いをしてました。
いよいよの昭和20年になって、乗るべき船もなく、
小笠原諸島のとある島に上陸し、終戦を迎えました。

同期の中には硫黄島に行って亡くなったものも多くいます。


48: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:55:10.04

よっぽどトラウマだったのか誰も何も話さなかった


50: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:55:54.93

じいちゃんきのこ雲を近くで見て次の日現場で遺体の処理
見ただけの人は手帳もらえたけどじいちゃんは貰えずだった
医者に関係ないとは言われたけど俺は白血病になった


51: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:56:08.16

祖父が海軍におったわ、職業軍人とは聞いてないから単なる徴兵の水兵だと思うけど。
南方に行って復員が遅れたことと、帰って来たら商売で蓄えたささやかな貯金が
新年きりかえやらインフレやらで紙くずになって、心が折れたという話をきいた。
たぶん「生きてて良かった」とか「戦争が終わって良かった」とかいろいろな
思いが合ったのかも知らんが、俺が聞いたのはお金の話だけという。


53: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:56:56.36

大叔父が大陸での戦闘中にわざと上官のそばに向けて銃を打ったらその上官が大人しくなった
映画やドラマに出てくるような理不尽で横暴な上官だったからムカついてやったらしい


62: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:59:37.52

祖父は奈良の予科練に行っていたらしい。だからなのか飛行機にもヘリコプターにも乗せてくれた。ただ予科練について聞いても何も話してくれなかった。空が好きでも、かなり嫌な事があったのだろうと思う。


70: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:03:00.30

パン職人の爺さん
建物疎開で自宅が軍に接収

戦後、返還されず他人の手に

農家から材料を調達して洋菓子を作って売り捌く

自宅の土地を買い戻して自宅兼工場を再建


71: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:04:16.33

うちの親父は満州で入営する前ま満鉄に勤めてたんだが
新たに線路を引く時は、コーリャン畑があろうが何があろうが
測量しながら「は~い、ここから真っすぐ!」っ感じでドンドン進めてくって言ってたな


72: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:04:20.82

陸軍だったトーチャン達は戦争終盤、門司から広島に向かって移動していたが
移動した3日後位に前に居た街が空襲に遭ったらしい
そして呉鎮守府(クレチン)で終戦を迎えた
その後、引き上げ船が呉港に入港して皆が盛大に帰港を祝って万歳してる目の前で
機雷に当たってあれよあれよと言ううちに沈没したらしい


77: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:07:37.33

うちのじいさんは軍曹で主計だったらしい
戦争が終わっても残務処理でしばらく仕事があったとか

非常に小食で、戦時中でもそれは変わらず
飯の盛りも少なくするように配膳の兵士に言ったけど
事情を知らない他の人間がそれをとがめて兵士をぶん殴ったことがあったそうな


78: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:07:53.01

うちのじいちゃんはあんまり話したがらなかったな
死んだ後にアルバム出てきて、戦友達との写真に何月何日どこで戦死とか細かく書いてあって一生背負ったんだろうなと切なくなった
もう一人のじいちゃんは爆弾抱えて戦車にひかれる訓練してたら戦争終わったって言ってた


79: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:08:09.56

うちの親は戦時中、府中競馬場で芋を作ってたって言ってた。
爆弾を作る工場にいて、戦後すぐに上官に言われて山に大量な爆弾を埋めたって言ってた。
生前は絶対に府中へは行かなった。
多分まだ埋まってると思う。
一度、その記憶があるなら国に言った方が良いよって言ったが誰も信じないから知らんって言ってたよ


80: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:08:25.19

結局川崎で工員やってて戦争に行かなかった大正末年産まれの爺は戦中の事をよう喋ったが
大陸東北部で砲兵やってた本家の大叔父は雪食って腹壊した話ぐらいしかしてくれんかったな
親戚だと何故か戦死扱いなってて正月に帰ったら「盆じゃないんだぞ」と家族に突っ込み入れられた人と
上官の命令でも意地でも出てこないので好物の枇杷撒いて捕獲されそのまま日本に送り返された人がいたかな


81: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:09:26.67

じいちゃんは突撃のラッパ吹いてたそうで無傷で帰国。ラッパ持って帰ってあったらしいんだけど人知れず処分したらしい。戦争の話はしてくれなかったから思い出したくなかったのかな


82: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:10:14.85

「従軍慰安婦なんて嘘よあの人達は自分から好きでやってたのよ」って死んだ婆ちゃんが言ってた


95: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:14:44.96

>>82
それ、うちのお袋(昭和4年生まれ)も言ってたわ
あれは所謂遊郭の女郎さんで、内地に男がいなくなって仕事にならないから
お客(兵隊さん)のいる戦地に出張していくのは当たり前だってね

あと、戦時中、近所に朝鮮の人もいたけど
差別なんてなかったって言ってた
普通に付き合ってたし、朝鮮から来たばかりで日本語が不自由な人には
特にみんなで助けてあげたってさ


83: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:10:25.43

終戦まで中国戦線、満州にいた人はまだ幸運だわ。
南方に送られた人は殆ど帰ってこなかったらしいからなあ


84: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:10:44.30

うちのジッジは中野でわいわいしてたみたいや
no title


85: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:11:29.70

じいちゃん曰く今川の大軍が攻めてくるもうダメだと覚悟したら御大将の電撃作戦でさまかの勝利になったんだと


87: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:12:02.28

親父の足の親指の爪が変な形
ガキの頃なんでって聞いたら
爆弾運んでて、落としたって言ってた
親指の上にな・・


89: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:12:53.36

うちのじいさんはいよいよ南方で、近海で訓練していたら、轟沈されて、入院していたら、運よく終戦だった。
運ゲームだよね。


90: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:13:28.20

満州での暮らしは良かったって言ってたなあ。


121: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:26:36.77

>>90
ちなみに、じいさんばあさんは開拓団として満州に渡って、中国人を雇って工具だったかを作っていたと言ってたなあ。


91: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:13:28.80

撤退中、匍匐前進で森を彷徨って居たら、ばったり米兵の一人と出くわしちゃって
「嗚呼、終わった…」って覚悟決めた所、その米兵が徐にウヰスキーボトルを差し出したそうな
こっちはお礼にタバコをあげて、お互い一服しながら酒を酌み交わしたんだって
その後二人共何も言わず180度回れ右して別れたと、沖縄で戦った爺さんから聞いた


384: 名無しさん 2017/07/14(金) 06:50:45.69

>>91
良い話だね


93: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:13:59.59

シベリア抑留された親戚の爺さん
極寒の大地で食い物どころか
凍土で何もない極限状態
見張りのソ連兵だけは良い物を食っていたから
未消化の下痢便をザルで洗って
スープにして食べて生き延びた


94: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:14:42.33

末期には戦闘機が地上スレスレの低空を昼間っから堂々と飛び回っていて、パイロットとはっきり目が合ったらしい。でも撃たれなかったとか。嘘くさいけど


103: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:18:11.16

>>94
いや、それはあると思う
うちのお袋もパイロットの金髪、青い目まで見えたって言ってた
おまけに機銃掃射受けたらしい


120: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:26:27.48

>>94
>>103
東京大空襲の話は戦後、身内から聞きました。
対空兵器が消失している状況で、B29はまるで嘗めるように
総武線を添うように東から侵入し、
ジュラルミンの敵機の下部は燃える市街地の炎を照らしオレンジに光っていたそうです。

10万を超える市民が犠牲になりました。黙祷を捧げます。


97: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:15:31.98

北海道の港町だが、爺さんたちの話によると戦中戦後に食糧難が一切なかったらしい
川に虫取り網を突っ込んだらいくらでもシシャモが捕れるし、農家との物々交換でも鮭一尾で結構な量の野菜と交換してもらえるしで


100: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:16:50.34

じいさん樺太で抑留されてて昭和25年に帰って来た。
抑留されてたとき朝起きたら隣の戦友が凍死してたりして、よく埋めてたって言ってたわ。


113: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:22:57.01

>>100
>抑留されてたとき朝起きたら隣の戦友が凍死してたりして、よく埋めてたって言ってたわ。

それ、うちの親父も言ってた
「明日も頑張ろうな」って言って眠りについた隣の奴が
次の朝冷たくなってたりしたことがよくあったらしいんだが
それがトラウマになってたのか、自分の母親が亡くなるときに病院にいたんだが
「人が死ぬのを見るのが怖い・・・」っていって病室を出て行った
自分の母親の臨終が怖いって感覚は俺には理解できないけど
やはりなんかフラッシュバックしたりしたのかもしれないと今になって思う


150: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:39:04.70

>>100
へえ静岡の石川周作って知ってる?と聞いてみて
樺太でのロスケどもは成人男子だけはロスケ軍が駐屯する敷地内に抑留し老人や女子供はそれまでの家に住む事を許してたそうな
で、じいちゃんはロスケ軍の荷役やら何やらでコキ使われてたけど、夜中に家族の事が心配で抜け出してきたんだと
で、家族が必要な当分の薪なんかを集めたりして夜明けまで少し時間があったんで久々自分の家で少し微睡んでたんだって
そうしてしばらくしたら夜明け前なのに家のドアを叩く音がする。さては抜け出してきたのがバレての家宅捜査かと青くなったけど
ロスケに先導を頼まれて家に来た村長さんが機転を利かし「石川さん、おはよう」と穏やかに挨拶する感じで「周ちゃん、いても良いけど隠れろよ」と
ドア越しに言ってくれたんだと。で押入れに隠れたら村長さんがその場を取り繕ってくれて無事やり過ごせたんだそうな
でもそんなしてるうちに結局日が昇ってしまいロスケに見つからずに抑留地に帰るのは無理だと覚悟して堂々とロスケ基地に正門から戻ってお縄になったそうな
で、家族の為に薪を集めてた、女房は身重で(俺の父親が腹にいた)燃料集めは無理だからな!と申し開きをしたら
そこのロスケ指揮官は話がわかる奴だったらしくそれはすまなかったこれからその時間を取るようにしようと言ってくれて
同じ悩みを抱えていた仲間たちから感謝されたんだと。もしそん時に話のわからん相手でじいちゃんが殺されてたら
ばあちゃんは死ぬ気だったと言ってたしそうすっと腹の中にいた父親の子である俺はこの世にいないんだよなー
あと自分にも危険がと及ぶのに機転を利かして助けようとしてくれた村長さんへの感謝は大往生するまで口にしてたっけなー


102: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:17:24.89

爺さん戦死なんだけど
出兵中に書いた遺書が婆さんの葬儀の時に出て来て
当時まだ小学生の弟に向けて
お前も早く立派な軍人になってお国の為に死ねみたいな
酷い内容の手紙だったよ


104: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:18:45.05

うちの親は昭和5年生まれで、次の年に兵役に付く前の年に終戦って言ってた。
少しでも生きたいと当時、最も死なない内地の海軍の通信に受かったって言ってた。
凄い倍率だったらしいが、俺が言うのも何だか親父は天才だったから受かったんだと思う。


129: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:30:49.92

>>104
貴殿の尊父様は幸運でしたね。
そして、戦争には参加しなかった分以上、
戦後の日本の再興にご貢献されたものと推察いたします。


105: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:18:46.42

六本木の辺りの軍の本部?で経理的な仕事したり 字が上手かったから代筆したと話してた
もっと聞いておけば良かったな


115: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:23:47.71

俺の爺さんは色々話してくれたな、多分生きるための度胸をつけるためと人生は運だけだって事だと思う
でなかった後ろを歩いてる同僚が地雷でバラバラに空中分解したり狙撃手にやられたりして攻略したあと
火葬した遺骨を飯盒に入れて持ち帰るだけ持ち帰ったなんて話、話したくて話したとは思えない
六本指中国人から豆買ったほうが量がおおいとか地雷が置いて有りそうな場所の特徴とか犬は本当に馬鹿だとか
地雷踏んだり狙撃された死体の状態とかあの時代に教えてくれて良かった


122: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:27:33.40

シベリアの収容所での話なんだが
ソ連兵って数もまともに数えられないような奴が多いそうだ
整列したときに数を数えるそうなんだが
わざと隊列をちょっと乱すと、もう数えられなくなるらしい

それを何度か繰り返してると、若いソ連兵なんかは半泣きになりながら
「頼むから整列してくれ」って言ったらしい


126: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:29:41.37

うちのじいちゃん、戦艦大和にぎりぎり人数いっぱいで乗れなかったらしい
そのあとタイだかで川に飛び込んで泳いだお陰で助かったとか
そのあと長崎に派遣されて原爆→爆心地から遠かった+防空壕にいたから被害なし
でも気絶したって言ってた
しかし、片付けで暫く長崎にいて地獄だったって言ってた、被爆手帳もどたばたでもらい損ねてた

そんなじいちゃんは、おつかいでアイスとフローズンを間違えて買ってきてばーちゃんに怒られてたのんびりじいちゃんです
今は天国にいます


136: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:33:35.45

俺の爺ちゃんは満州大学に通ってたらしい。
95歳になった今も元気だ。


146: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:37:13.82

もう亡くなったけど近所の医院の先生が広島大学の出身で
戦時中も学生で広島にいたんだが
原爆投下の前日に何人かが教授に呼ばれて
「おまえらとにかく農家かどこかで大八車を調達してきて今すぐ広島を離れろ
 とにかく今すぐだ、できるだけ遠くへ、山を越えて行け、理由は聞くな、他人にも話すな」
って言われたらしい
その医院の先生は真面目な性格だったので教授の言うことを聞いて
徹夜で山を越えて広島から離れたらしい
夜が明けて、やれやれ一休みってところで広島市内方面が突然光ってキノコ雲が・・・
教授の言うことを聞かずに広島に残った者は全員亡くなったらしい
「ああいう情報って、どこからか入ってきて、知ってる人は知ってるんだなぁ」って
その医院の先生はしみじみ言ってたな


151: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:40:50.46

曾祖父さんは水兵で日向に乗ってたみたいだが戦争のことは何も語り継がれてなかったな
色々写真残ってたけどほとんど集合写真で遠距離で撮ったやつばかりだったけど
一枚だけ主砲の前で水兵5、6人くらいで撮ったアップの写真があって
やっぱどいつもこいつも面構えが違うわ
戦艦のシゴキは地獄のように厳しかったってね


152: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:41:04.08

木曽川の河口近くで百姓やってた爺様は満州で痩せ芋をかじりながら
「うちの畑ならこの何倍も太った芋がいくらでもゴロゴロ取れるのになぁ」と思ってたそうだ
濃尾平野のあの辺は実際にアホほど土が肥えてるからどんな野菜もやたらと大きく育つ


170: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:52:34.24

>>152
西日本と比べてもだけど、南木曽あたりから東は木がデカいんだよな


153: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:41:38.32

もう亡くなったが、母の長兄(昭和二年生まれ)が、予科練( = 海軍飛行兵養成課程)に入った。
しかし、まともな訓練はできず、飛行機には乗れずじまいで8月15日。
一度だけ「乗りたかった…」と呟いてたな。


156: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:43:51.07

8月15日の正午に終戦が告げられたけど、その数時間前に日本海軍厚木飛行場を攻撃しに来たグラマン機の編隊と、
それを迎撃した厚木の302航空隊の零戦隊が横浜の上空で最後の大空中戦を繰り広げたと、当時女学生でそれを目撃していた婆ちゃんから聞いたことがある。ベテランの搭乗員が操っていたと思われる零戦の方が圧倒的に強く、グラマン機が次々と撃墜されていったそうだ。
後に聞いた話だと、その時に撃墜されパラシュート脱出した米兵はすでに息絶えており、近くの寺に丁重に葬ったという。
厚木の航空隊には以前にもグラマン機に追いかけ回されていた時、3機編隊の零戦に助けて貰った事があり、真っ白いマフラーをはためかせ機体をバンクさせながら飛び去る日本のパイロットが本当にカッコ良かったと言っていた。


252: 名無しさん 2017/07/14(金) 00:10:24.50

>>156
うちは小田原だが、たった1機で大編隊の米軍機に戦いを挑んで撃墜された疾風の話が伝わっているよ
慰霊碑はその時の疾風のプロペラでできている


158: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:46:17.72

爺ちゃんは戦死したっていう手紙もらってたらしいんだが、ある日まだ小さかった俺の母が「今日お父ちゃん帰ってくるよ」と言ってみんなに怒られた。
そしたらその日の夕方本当に爺ちゃんが帰って来たんだと。
婆ちゃんがそう話してくれた。
母ちゃんはなんとなくそんな気がしただけと言ってたけど、不思議。

当の爺ちゃんはというと、よく戦争の話をしてくれたんだが、昔はあんまり興味がなくてほとんど覚えてない。
しかし、辛かったことより笑い話みたいなことしか聞いてない記憶はある。

例えば慰安所の話。
決まった時間に上官が皆を連れて行ってくれるのだが、事前に例の突撃一号が配られたと。
中に入ると時間制限もあり、覗き窓のあるドアの前で上官が「◯◯(部下の名前)はよせいよ~」「ハイッ」なんて会話もあったそうな。

さて爺ちゃん本人はどうだったのかというと、「わしゃなんもせんとお姉さんとおしゃべりしてな。お土産に金平糖もろて帰ったんじゃワハハ」なんて言ってた。
家族は絶対嘘や、と言って笑ったもんだ。

爺ちゃんは通信兵だったので、どうせ弾が飛んでこないところにいたんでしょ?なんて家族は言ってたが「そんなことあるかい、わしだって鉄砲ぐらい撃ったことあるよ」と笑ってる爺ちゃんだった。

今思えばもっと真面目にいろんな話聞きたかったな。


167: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:49:43.95

死んだ母ちゃんが、父ちゃん(俺から見ればじいちゃん)は硫黄島へ出兵したとか言ってた。
硫黄島の話を大人になって知ってとんでもねーと思った。


173: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:56:38.37

>>167
硫黄島でしたか。私の仲間も多く硫黄島に配置され、玉砕しました。
当時は硫黄島派遣は名誉の派遣でした。
日本を守る最後の砦でしたからね。

栗林中将の元、激戦を務められた、貴殿の祖父さまに敬礼を捧げます。
「ありがとうございました」


200: 名無しさん 2017/07/13(木) 23:26:17.96

聞いた話ではないが
僕の曾祖父の弟は大陸で戦ってる時に鉄砲が頭に当たって一瞬頑張ったけどすぐに死んだらしい
それで2階級特進したらしい(何だったか忘れた、場所も忘れた)
1939年だったと思うが日中開戦した年の秋だったかもしれない
そんな対したことではないかもしれないが、先祖代々の墓地に立つ一際立派なお墓にかかれているこのことは強烈に印象に残っている
頭を撃ち抜かれたっていうのがね、想像するとえぐい


209: 名無しさん 2017/07/13(木) 23:34:29.26

父方の祖父: 軍医養成の教官をしていた軍属(内地勤務)今上陛下に勲章を賜り、大喜びしていた。故人。

母方の祖父: 海軍中尉。2度にわたりマラリアに罹る。
友軍の輸送艦が、自分の乗る艦の眼前で次々に空襲などで轟沈させられるのを目撃。
終戦後は英軍の捕虜となり、シンガポールのチャンギー収容所で、戦犯扱いされたため独房にいれられ、日々処刑の切迫にあったらしい。戦後は反共に燃える。
俺が生まれる1ヶ月足らず前に心臓発作で急死。


233: 名無しさん 2017/07/13(木) 23:57:45.74

うちのじいさんは一等兵で中露国境付近の方に居たらしいが、絶対何も話さなかった。

そして、謎なのが大学出てないのにロシア語と中国語と英語が堪能。
戦後も海外で仕事してた。

今思うと、結構やばい奴なんじゃないかと思ってる(´・ω・`)


234: 名無しさん 2017/07/13(木) 23:59:15.57

ばーちゃんの話
逃げそびれて、空襲で姉に手を引かれて防空壕へ逃げてたら
近くに爆弾が落ちて庇った姉が腕だけ残してぶっ飛んだ
それから、自分より大きい人と手を繋げなくなった

一方、じーちゃんは満州?の辺りで食料なくて死にそうになってたら
現地の人に、口にキュウリ突っ込まれてた
若い人がこんな所で死ぬな、生きて故郷に帰れって言われたそうだ
助けてくれた人が亡くなるまで文通してた


237: 名無しさん 2017/07/14(金) 00:00:08.09

直接聞いた訳じゃなくて、葬儀の席での親戚からの
祖父と祖母が、満州移民で北京神社で挙式したという話を聞いた

お爺さんは掌に傷があって「戦争で弾に撃たれた」と幼少の自分に言ったが
お爺さんに従軍経験はなかったらしい、確かに掌は兵隊が撃たれる場所ではない

敗戦で引き揚げてきて、子供は1人か2人居たけど死別
帰国後、子供は諦めて養子を貰ったけど、もう一人だけ生まれて二人兄弟に


その祖父も祖母他界し、引き上げの時何があったのか生涯聞く事ができなかった


251: 名無しさん 2017/07/14(金) 00:10:12.27

今年105歳で亡くなった俺の母方の爺さん
海軍で通信士官だった

愛宕、山城に乗船したが幸い撃沈される前に下船
その後は掃海艇(28号って言ってた)に乗り、ラバウルで集中放火浴びて沈没したけど運良く助かり、その後日本に帰投して航空隊の支援部隊の内勤やってたら終戦

最後は官位ももらってたな
正八位だった

とても優しい爺さんだった


297: 名無しさん 2017/07/14(金) 01:09:21.49

>>251
なんかウチの爺さんと似てる
ラバウルで沈没、地元の漁民に助けられ沖縄まで送ってもらったとか言ってた…


299: 名無しさん 2017/07/14(金) 01:10:12.93

おばあちゃんが教師をしていて生徒を学徒動員で工場にバネを作るために引率していた
ある日おばあちゃんは熱を出して校長先生に代わりに誰か言ってくれるように電話し休んでいたy
ところがその日空襲警報が鳴りどうやら工場の方が爆撃されたらしかった
病気でも寝ているわけにいかず工場に行くと、生徒がいつも入っている防空壕が爆撃を受けていた
しかし生徒は全員無事だった
前日の大雨でいつも入る防空壕に水が溜まり、工場の人が自分達がその防空壕に入り、生徒たちを別の防空壕に入れてくれていたからだ
おばあちゃんは、もし自分が引率していたら濡れた防空壕に生徒を入れていただろう、と
工場の人が亡くなって生徒は助かった
生きる死ぬは紙一重


318: 名無しさん 2017/07/14(金) 01:55:54.80

うちのじいちゃんは戦後、満州からの引き上げ者で。
あの政界のドンと言われた笹川良一と競艇を立ち上げたんだって。
悪く言われる笹川さんだったけど。
競艇の真の目的は、海運、造船業の復興というより。
戦争で足を失った人にも競技に参加させてあげて。
生計をたてられるように、っていうのが目的だったらしい。
この人は本当は根は正義感が強く優しい人で。
戦争で負傷した人を助けたい一心で、権力者と戦ったんだと。
弱い人を助けるために強い奴を倒してこい、というのが口癖だったな。
ボートレースには、一般に知られていない深い歴史があるんだよ。


365: 名無しさん 2017/07/14(金) 04:26:09.89

両親とも昭和ヒトケタで東京生まれ
母曰く大空襲の時は中野で本が読める程明るかったって。
翌々日だかに焼け跡を父親と見に行ったらまだ遺体が道端にゴロゴロあったと。
弟を妊娠中だった婆ちゃんは寿司が食べたくなって
軍人さん専用の寿司屋へ食べに一緒につれてかれたとか

じいちゃんが大手百貨店の重役だったからいろんなコネがあったみたい。
その頃、縁故疎開の父親は機銃掃射で米パイロットのおもちゃになってた。
スローモーション体験だったって。

戦後すぐ焼け野はらに立派な家を建てたじいちゃん
庭に米兵とパンパンがいちゃこらヤりに来たのを一喝
米軍に立ち入り禁止の英語の立札を立てさせた。
一方父親は農地解放で疎開していた本家が落ちぶれたが
婆ちゃんは英語が話せたので色々便利だったとか。
配給のチーズなんかも日本人は石鹸みたいだって食べられなくて
食べ方知ってる婆ちゃんがかき集めていっぱい食べたらしい。


454: 名無しさん 2017/07/14(金) 11:12:29.24

爺さんのいとこがはだしのげんみたいな体験をした。
原爆が投下された時、たまたま壁の横にいて同級生と話をしてたら、
ピカッと光って気絶した。目が覚めると同級生は黒焦げの死体になってたが、
いとこは壁のお陰で無傷で助かって先日90歳で亡くなった。


470: 名無しさん 2017/07/14(金) 12:20:55.48

俺が12の時叔父が自殺したんだが
葬式で軍隊仲間のじいさん達が沢山泣きながら敬礼してた
後から聞いたら、実は特攻隊の生き残りで終戦以来ずっとわだかまりを抱えてて、思い悩んだ末に自ら命を絶ったらしいとの事


480: 名無しさん 2017/07/14(金) 13:14:43.39

北海道の留萌の曾々ばぁちゃんが大正生まれ5年前に無くなってしまったが
ニシン漁が盛んで留萌は当時賑わってた
定期的に来る米の輸送船が飛行機の銃撃にあって毎月血のついた米を何度も洗ってたって話を聞かされたぐらいだなぁ

あとは三船事件なんかも有名かな、終戦間際のソ連までは比較的平和だったみたい


166: 名無しさん 2017/07/13(木) 22:49:35.36

ここに書き込みをしてくれてる諸兄の、ご家族様で、
あの戦争で大変な思いをされた方々、命を亡くされた方々に、
改めてお悔やみを申し上げます。

生き残ってしまった元海軍1兵卒から…


214: 名無しさん 2017/07/13(木) 23:38:18.56

うちのお寺にもあるけど戦没者供養塔に贈従五位と掘ってある大きな石碑がある
戦死した兵隊さん達は何を思ってそこで眠ってるんだろな
また贈位さえ受けられずに戦争で亡くなった多くの民間人達
焼津の漁師達などはカツオを取る為に遠洋に出てたから鉄製の立派な船を持っていると船ごと軍に徴収され
日本近海にほぼ丸腰の状態で哨戒任務に出されアメコウ機の格好の餌食となって海の藻屑となっていったんだってさ
どう考えても浮かばれんよなあ


49: 名無しさん 2017/07/13(木) 21:55:31.41

従軍体験のある人もかなり減ってきたね。佐官だった人なんて数を数えるくらいだろう。こうなると記憶の改竄がますます進むんだろうね。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)
加藤 陽子
新潮社 (2016-06-26)
売り上げランキング: 2,483

関連記事


コメントの投稿

非公開コメント

♯60706
茨城で桜花の操縦訓練中に終戦を迎えたじいさんなら
かうんたっく

買って得したスレをまとめてチェック!
買って、得したな~と思うもの まとめ
最近の記事
ここ一ヶ月でアクセスの多かった記事
はてブで見るてんこもり。 (新)
はてブで見るてんこもり。
カテゴリー
検索フォーム
年度別おすすめ記事
アクセス解析

なかのひと

ブログパーツ
プロフィール

 かずな

Author: かずな
メールはtenkomoあっとgmail.comまで
ヘッドラインはメールとか逆アクセスで
当ブログはAmazonアソシエイトに参加しています

元管理人 もら太
更新情報はこちら!↓

携帯からもてんこもり!
QR
月別アーカイブ
最近のコメント
リンク
スポンサーリンク